TITLE : 創造の人生 講談社電子文庫 創造の人生 井深大 中川靖造 著  目 次 まえがき 1章 ハワード・ロバート・ヒューズ 祖父・井深 基 母と子 ヒューズと井深 無線少年 早稲田大学科学部 2章 PCL入社 PCL砧撮影所 結婚 「日本測定器」設立 出会い 終戦の日 3章 東京通信研究所 昏冥のとき 大きな夢をもった小さな会社 浮上のきざし 品川・御殿山 交流バイアス 4章 異色の技術者集団 人材育成 開発 テープレコーダ「G‐1」の自負 東京録音 技術と人材 5章 市場創成 大賀典雄 磁気テープ開発 トランジスタ 特許権防衛 勝訴 6章 仮契約 よそにないものをつくる 歩留り五パーセント 人材スカウト 意地と誇り 個人市場開拓 7章 本格的輸出第一号 技術創造 ソニーはモルモット 四ヘッドVTR試作 外部技術の導入 ソニー流会議運営法 8章 ソニー研究所長 産学協同の基礎研究 財務体質の改善 ソニー労組 創立一五周年記念式典 クロマトロン管 9章 厚木工場運営 苦境 トリニトロン完成 IBMへ技術輸出 電子式卓上計算機 小さな電子ソロバン 10章 VTR開発 生活に革命を 研究所長交代 理想論者 疑念 システム工学 11章 両輪経営 映画づくりの組織論 アメーバー組織論 サンディエゴ進出 第二の脱皮 新経営体制 12章 幼児教育 『子育て、母育て』 「幼稚園では遅すぎる」 福祉施設への肩入れ 創造性開発をめざす 略年譜 参考文献 文庫版あとがき   まえがき 「ソニー」の創設者、井深大(まさる)名誉会長。当年八一歳。いまは経営の第一線から退いたが、ソニーの象徴として相変わらず多忙な日々を送っている。その他ライフワークとなった幼児教育、社会福祉事業、発明協会、鉄道技術研究所の会長といった公職、関係団体の役員など、多彩な活動を続け、席を暖める暇もないほどという。  その井深は、日本のエレクトロニクス産業を世界のトップの位置にまで発展させるきっかけをつくった偉大な事業家であった。昭和五十三(一九七八)年四月、勲一等瑞宝章、および同六十一(一九八六)年四月、勲一等旭日大綬章の受章は日本国が井深の業績を高く評価した結果であった。  しかし、そこにいたるまでの井深の業績や実像を知る人はソニーの社内においてさえ、だんだん少なくなっている。若い世代が企業の主流になり、日本のエレクトロニクスの揺籃期の物語は、遠い過去のものとして風化しそうな気配さえ見える。このままでいいのだろうか。  今日の日本のエレクトロニクス産業を支えている半導体や磁気記録の先端技術は井深を中心とするソニーの技術陣が開発した技術蓄積があってはじめて実ったものである。そういう意味でも、世界に先駆けて、テープレコーダやトランジスタ関連商品などをわれわれの身近なものにしてくれた井深の独特の発想法と事業展開のあとを振り返ってみたい。数少ない明治生まれの技術者が、日本の独創技術開発に賭けた執念がどんなものであったか、わかるからだ。  好奇心は旺盛で、わがままで意地っ張り、せっかち、人使いが荒い、平気で部下に過酷な要求をする、苦労して技術の壁を突破しても褒めようとせず、関心は次の目標に向かっており、以前の成果については興味を示さない。  これは、筆者が週刊誌の記者時代からソニーの取材を通して聞いたソニー社内の井深評の一端である。それでいて、誰一人、井深のやり方に不平を漏らすものはいない。常識を越えたものの考え方で、常に部下を刺激する。その強烈なリーダーシップが人を惹きつけ、誰もが一緒に仕事をしたがる雰囲気をつくりだす。「井深さんの夢を、みんなで実現しよう」というムードが自然に生まれた。 「世間じゃ、私に先見の明があったからとか、技術がわかっているからというが、それは間違っています。うちが他社に先んじてテープレコーダやトランジスタラジオを手がけたのも、日常、便利な商品をつくってみたい一心でやる気になった。しかし、技術的な知識は何もない。だから、みんな、がむしゃらに取り組んだわけです。それが、結果的によかった。怖さをしらなかったから思いきってやれたんですね」  と、井深はいう。新製品の開発にあたっては物理、化学、電気、機械出身の若手技術者からなる少人数のプロジェクトチームを編成、挑戦を開始した。創業間もないベンチャー企業の製品開発は、こうしたやり方がいちばん手っ取り早いと井深は考えたのだ。プロジェクトチームによる製品開発は、いまではどこの企業でも採用しているが、タテ割り組織を大事にしていた当時の企業社会ではたいへん目新しいケースであった。  こうした一連の開発のチャレンジのなかで、井深が誇りに思っているのは、シリコンを民生用トランジスタに使う道を切り開いたことである。井深が技術部長の岩間和夫(もと社長)に開発を指示したのは昭和三十二(一九五七)年秋のこと。その頃、シリコントランジスタはアメリカで、軍事、宇宙開発関連で試験的に使われていたにすぎない。高純度のシリコン単結晶の製法がむずかしいからだ。それだけに、シリコンでトランジスタをつくり、それをテレビ用に使おうなどと考えた技術者はアメリカにおいてさえ、ただ一人もいなかった。  にもかかわらず井深はあえてシリコン単結晶づくりへの挑戦を命じた。テレビをトランジスタ化するためにどうしても必要だったからである。資本力のある大企業ならいざしらず、当時のソニーは、トランジスタラジオであてたとはいえ、資本金三億円、従業員一二〇〇名足らずの中小企業でしかない。そんな弱小企業が、世界中の技術者が考えもしなかった困難な仕事に挑戦を試みた。こうした積極的な“開拓者精神”が、今日のソニーを築く原動力になったことはいうまでもあるまい。  こうした井深の大胆な挑戦の陰には、井深の心情をよく知った盛田昭夫(会長)のバックアップがあった。ソニーの井深・盛田のコンビは、日本では例を見ない特異な存在だ。技術屋出身の経営者は大成しないという妙な偏見が日本の産業界にあるが、井深も盛田もともに技術屋である。それに関連して井深はこんな話をする。 「一〇年ほど前から技術屋経営者がもてはやされているが、こんな現象は日本だけじゃないかな。文科系とか理科系とか区分して人を見ているが、これはいけない。もっとも悪いのは役所ですよ。むかし役所では技術出身の人は絶対に局長にしなかった。確か逓信省の梶井剛(のち初代電電公社総裁)さんが、局長に登用された最初のケースだったと思うが、あれも特殊事情があったからなんです。そういうふうに技術屋は、何か別の人種のように見られていた。極端かもしれないが、むかし、高等学校で、文科にいくか理科にいくかでその人の運命が決まってしまう、そんな風習があった。これがそもそも間違いのもとなんですね」  これも、教育に哲学がなかったからだと井深はいいきる。明治以来、日本の教育は欧米先進国とのギャップを取り戻そうと、物質文明の知識を教えることに重点をおき、精神面の指導を怠った。これがいけなかったという。ただ、明治、大正時代、高等学校の寮では、寮生が自主的に哲学を論ずる風習があった。それが当時の学生の人間形成に大きく役立っていたことは確かである。  ところが、戦後は、占領軍の指導もあって、こうした習慣はまったく失われ、分科化の傾向が強くなった。経営者は技術のことなど知らんでもいい、技術屋はソロバン勘定などしなくていいという誤った風潮が定着したのもそのためであった。  井深はそうした世の中の流れに逆らって、独自の経営路線を考え出した。同業他社が目をつけない分野で新しい技術をつくりだす。それが固有技術の創造につながり、日本の技術復興の原動力になると思ったのだ。その反骨精神に似た経営理念はいかにして生まれたのか。その辺を、井深の人間形成の跡を追いながら、拾い出してみよう。これからの技術者のあるべき姿の一つの指針になると思うからである。 (一九八八年) 創造の人生 井深大 1章  ハワード・ロバート・ヒューズ  一九二〇年代はじめ、石油掘削機メーカーの経営者だった父親の突然の死によって、一八歳で実業界にデビュー、アメリカ有数の大富豪にのしあがったハワード・ロバート・ヒューズは、よき時代のアメリカを象徴する伝説的な経営者といわれている。  父親の遺産を自分の意のままに使い、映画制作、航空機製造に乗り出し、二〇代の若さで〈ヒューズ帝国〉の基盤をつくり、巨万の富と名声を勝ち取ったハワード・ヒューズと対比しながら、井深大の人間像を書いてみようと思ったのは、育った年代が同じ(生年は三年違い)でもあり、生活環境の面からも二人の人間形成に共通点が多いことに気づいたからである。それを理解してもらうために、まずヒューズの人となりを簡単に紹介しておこう。  ハワード・R・ヒューズは、一九〇五年一二月、テキサス州の州都ヒューストンで生まれた。母親は元南部連邦の将軍の孫にあたるフランス系の黒い瞳をもった美人で、どちらかというと、おっとりしたタイプの人だったといわれている。  父親のビック・ハワードは、ハーバード大学法科の出身だが、卒業後は法律関係の仕事には見向きもせず、もっぱら、折からの石油発掘ブームのなかを上手に立ち回る山師のような生活をしていた。それだけに浮き沈みは激しかったが、結婚した頃は、石油の埋蔵が確かになった土地の使用権売買で大儲けし、花嫁と五万ドルを両手にヨーロッパにハネムーンに出かけたほどであった。  数ヵ月後、帰国したときは五万ドルの持ち金はあらかた使いはたし、無一文になっていた。つまり〈宵越しの銭はもたない〉と、粋がって見せる江戸っ子など足許におよばぬ気宇壮大な人だったというわけだ。  そんな夫婦の一粒種として生まれたのがハワード・ヒューズである。両親や親族は彼をサニー(SONNY)とか、ジュニアと呼んで可愛がった。幼年期は口数の少ない、淋しがり屋だったという。サニーを溺愛していた父親が、仕事に追われ家をあけることが多かったせいであろう。  そのサニーが機械のたぐいに関心を示したのは三歳のとき、父親がたまたま買い与えたボックス型カメラがきっかけだったといわれている。以来、サニーは、玩具や身の回りの機械に興味をもちはじめる。そして朝から晩まであきることなくいじくり回していた。そんなサニーを見た母親は「この子は、小犬を見ても、機械の一種と思っているのでは……」と、笑ったという。  その頃、父親のビック・ハワードは、共同経営者と手を組んではじめた石油掘削用の特殊ドリルの開発に成功、ヒューストン東部の二八万平方メートルの土地に工場を新設するまでになっていた。そして市一番の高級住宅街に家を買い求め、移った。ビック・ハワードは自宅の裏手に小さな作業場をつくった。機械や工具の試作用の建物である。  機械への関心の度合いが高くなったサニーにとって、この作業場は、またとない遊び場になった。不要になった金属の切れ端や、ありあわせのワイヤーなどを使って、創造力を働かせ、得体の知れない品物をつくっては、一人で悦に入っていた。  ビック・ハワードは、別段、それをとがめだてしなかった。ただ作業場を汚したり、散らかすと、一週間、作業場に入れないと噛んで含めるようにたしなめただけであった。幼いサニーもその約束をちゃんと守った。  やがてサニーは幼稚園・小学校を経て、地元の公立中学校に入学する。しかし、好きな科目は算数ぐらいで、他の学科にはあまり興味を示さなかった。その代わり作業場に閉じこもる時間は、年を追うごとに多くなり、つくりだす品物も次第に子供っぽさの段階を越えるようになっていった。  たとえば、ハム(アマチュア無線家)用の装置を組み立て、夜中にメキシコ湾を航行する貨物船の通信士と交信したり、無断で父親の車からセルフ・スターター付きのモーターをはずし自分の自転車に取りつけ、モーターサイクルをつくって市中を猛スピードで走り回るという奔放ぶりを発揮する。それを知ったビック・ハワードは、叱るどころか、目を細めて喜んだ。若い頃山歩きにあけくれた男に、またとない後継者ができたと思ったのかもしれない。  だが、後継者にするには高度な知識を身につけさせなければと、ビック・ハワードは思った。そこでサニーをマサチューセッツ州ニュートンにある名門中学に転校させた。ここからハーバード大学に進学させることが一番望ましいと考えたのだ。  しかし、ビック・ハワードの夢は実現しなかった。サニーがハーバードに進学することを嫌がったからだ。失望したビック・ハワードは、サニーをカリフォルニア州の私立高校に転校させた。その直後、母親のヒューズ夫人があっけなく死んだ。サニーが一六歳になった年であった。以来、サニーはおしゃれで、金使いの荒い男親のもとで青春期を送ることになる。そしてテキサスきっての有名人になったビック・ハワードの生き様を通して、富は人間の気まぐれ心を満足させる手段であることを身をもって知った。  内気で、ひどく無感動な性格と、妙な頑固さと反抗心をあわせもったハワード・ヒューズの不思議なこの性格は、この時代から徐々に顕在化しはじめたといっていい。周囲の人がそれに気づいたのは、二年後の一九二四年一月、父親のビック・ハワードが心臓発作で、突然死んでからであった。  祖父・井深 基  一方、井深については、自身による著作『私の履歴書』(日本経済新聞社刊)や、本人の談話が、いろいろな刊行物で何度も採り上げられているだけにその上塗りをするのはなるべく避けたいのだが、ハワード・ヒューズと共通点を探るため、関連のありそうなところを選び、あえて再現することにした。  井深大(いぶかまさる)は、ヒューズが生まれた二年四ヵ月後の一九〇八年(明治四十一年)四月、栃木県日光町字清滝の古河鉱業日光製銅所の社宅で産声を上げた。  父の甫(はじめ)は新渡戸稲造の門下生で、札幌中学から蔵前高等工業(現東京工業大学)の電気化学科を出た、先見性のある技術者であった。学生時代、静岡県御殿場線の小山に、洋書と首っぴきで設計して、小さな水力発電所をつくった。その実績が高く評価され、五人の卒業生のなかでただ一人だけが〈天下の古河〉に入社できたのである。  母親のさわは、北海道苫小牧出身だが、明治三十年代、日本女子大学を卒業したインテリ女性のはしりともいうべき人である。しかし、いわゆる〈才女〉というタイプでなく、伊東深水画伯の美人画から抜け出したような目元の涼しい、やさし気な人であった。  この夫婦の一粒種として生まれた井深は、これといった病気もせず、すくすく育った。井深が三歳になったとき思わぬ不幸が訪れる。父の甫が突然この世を去った。銅山を歩いて裸電線に触れ、それがもとで病没したことになっているが、もともと虚弱な体質だったらしい。そのため井深と、若くして未亡人になった母のさわは、愛知県碧海郡安城町(現在の安城市)に住んでいた父方の祖父のもとに引き取られることになった。  ここで井深の祖父のことに触れておく必要がありそうだ。井深の人間形成の核になる人だからである。祖父は名を基といい、かつて会津松平藩の藩士で、生家は一〇〇〇石取りの家老格という名門の嫡男であった。よく知られているように、徳川家親藩であった会津藩は、江戸末期、薩長連合を主体とする官軍に抵抗、最後は若松城にたてこもったが、武運拙なく敗れ去った。一八歳未満の若い藩士で結成された白虎隊が、飯盛山で自刃して果てたのはその直後であった。  当時、基は一九歳になったばかりで、朱雀隊(すざくたい)(一八歳から三五歳)に属し、官軍と干戈を交えたが生き残り、藩主容保とともに官軍に降った。その後、戦後のきびしい処分がはじまり、藩主容保は江戸送り、藩の重臣たちは、高田藩、古河藩、彦根藩、南部藩に預けられる。基は、容保のあとを継いだ容大(当時、二歳)に従って、新領の津軽斗南藩に移住したが、禄高は三万石(実質七千石)に減封されていた。  このとき会津からは藩士や農家など二〇〇余戸が行をともにした。ところが、斗南は降雪が多いうえに土地は荒れて、開墾には不向きであった。このため前途を悲観した移住者のなかから会津に逃げ帰ったり、他藩に失踪するものが続出した。だが基は幼い旧藩主のもとを離れようとはしなかった。  明治四年七月、新政府は廃藩置県の政令を発布し、日本人はみな天皇の御親政を仰ぐ民となった。これを契機に、基は幼君のもとをはなれ、北海道開拓の仕事に取り組むことを決意する。北海道に移住する者はこれまで通り士族の身分を保証されるが、現住地に留まると百姓(平民)に身を落とさなければ食べていけない。それが嫌だったのである。  こうして基は家族とともに札幌に移り、北海道開拓使の役人になった。この頃、北海道開拓を志したのは斗南藩の藩士だけではない。戊辰の役で官軍に抵抗した仙台藩、南部藩の藩士も、大挙して北海道に渡り、道南地方の開拓事業に加わっている。室蘭本線の伊達紋別には仙台藩の開発拠点としていまでも当時の史跡が残っている。  明治政府の手厚い援助のもとではじまった開拓事業は容易でなかった。幸い基は県令の深野一三に重用され、指導的な役割を果たした。のちに深野が愛知県の県令に転じたとき、基はとくに望まれ、愛知県に同行している。北海道開拓使での実績がかわれたのであった。  愛知県に着任した深野は、基を県の課長に登用、重要な職務に就かせようとしたが、基はそれを辞退、一郡の行政官である郡長の仕事を望んだ。斗南、道南開拓の貴重な体験を活かし、新田開発に取り組んでみようと思ったのだ。つまり、地位よりも、いかに農民の生活を豊かにするかに情熱を燃やしていたのだ。  その成果の一つが明治用水から水を引くためにつくった愛知県碧海郡高岡町に現存する駒場用水である。この用水の完成で数百戸の農家が恩恵に浴し、現在でも感謝されている。その後、基は県の商工課長、部長職を歴任、愛知県の産業振興に大きな貢献をしている。そんな気骨のある基が井深母子を引き取ったのは、県の役人をやめる前であった。  基夫婦は、若くして未亡人になった嫁のさわと孫の大を暖かく迎え、何かと面倒をみてくれた。祖父母との生活に馴れてくると、井深は次第に持ち前の茶目っ気を発揮する。ある日、親戚の家に遊びに行き、金屏風にいたずら描きをして大騒ぎになった。もちろん、基もきびしく叱った。以来、幼い井深の関心は身の回りの小物いじりに移ってゆく。最初は目覚し時計をバラバラに分解し、元通りに組み立てることからはじまった。しかし、三歳や四歳の幼児に簡単に復元できるわけがない。そのときは、子供心にたいへんなことをしてしまったと思い込み、ベソをかいたと井深は述懐している。だが、井深少年はそれに懲りることなく、何度も挑戦した。そしていつの間にか元通りに組み立てることができるようになった。もっとも、そのために何個も目覚し時計を壊し、母をハラハラさせたらしい。だが、それによって井深少年の機械に対する関心がますます強くなったことは確かである。祖父や母から聞かされた優れた技術者であった亡父の話が、少年の隠れた資質を刺激したのかもしれない。  母と子  安城での生活は井深の母、さわにとって必ずしも快いものではなかったようだ。女子大を出て、進歩的な考えをもっていただけに、昔気質の舅のもとでの田舎暮らしは息苦しかったのだろう。二年後には自活の道を求めて上京する決意を固めた。  やがて母校の日本女子大附属幼稚園に職を得たさわは、幼い井深を伴って上京した。新しい住居は目白の住宅街の一角にあった借家で、井深はここから母と一緒に幼稚園、附属小学校に通うようになった。教育熱心だったさわは、暇をみつけては井深を博覧会や博物館に連れて行った。それが後に自分の人生の方向を決める伏線になろうとは、井深自身、知る由もなかった。  前に述べた目覚し時計の例でもわかるように、もともと井深は手先の器用な少年であった。それを象徴するような話がある。幼稚園時代、たまたま母に連れられて亡父の友人の家を訪れた。そこで珍しい玩具を見つけた。大小の鉄板をねじとナットを使って組み立て、汽車とか風車の模型をつくる〈メカノ〉という外国製の教育玩具である。それに興味をもった井深は、その家の子供ができないいろいろな模型をつくってみせ、周囲の人を驚かせた。おかげで井深は、その玩具を褒美にもらい意気揚々と帰って来たという。  ところで、この頃、井深は自分の生涯にとってかけがえのない大事な人と出会っている。のちに『銭形平次捕物控』など、数多くの大衆時代小説を書き有名になった野村胡堂と、その夫人である。当時、野村は報知新聞の記者をしながら創作活動をしていたが、ひどい貧乏暮らしをしていた。小説が売れなかったからだ。夫人が女学校の教師をしながら生計を支えていたのもそのためである。野村の住居は井深母子が住む目白の家の近くにあった。夫人と井深の母は女学校時代の親友であった。そのため両家は親類同様の交際をしていた。そんな関係で井深は野村を慈父のように慕い、野村の家で好き放題に遊び回った。  しかし、こうした東京での楽しい生活も一年半ほどで終わる。さわの父、井深にとっては母方の祖父が病いで倒れたため、北海道の苫小牧に転居せざるを得なくなったためだ。井深が小学一年の二学期を終えた直後であった。  母方の祖父は、長年、苫小牧の郵便局長をやっていた地元の名士の一人で、二万坪の土地をもつ大地主であった。もっともこの土地は、知人のたっての頼みで心ならずも買い取ったもので、入手価格は、当時の金で五円だったという。ところが、のちに王子製紙が進出したため、その所有地は町の目抜きの場所になり、祖父は苫小牧でも有数の資産家になった。その遺産で、井深は何一つ不自由なく暮らすことができたが、その頃の苫小牧は子供の教育には不向きなところであった。それに引き換え、父方の祖父の住む安城は、日本農業の先覚者といわれた山崎延吉の指導で新田開発が順調にすすみ、日本のデンマークといわれるほどになっていた。井深少年の教育に人一倍気を配っていたさわは、安城町に戻ったほうがよいのではと考えるようになった。  こうして大正六年三月、井深少年はふたたび安城の祖父のもとで生活をはじめることになった。そんな矢先、井深の人間形成にとって大きな節目となった母、さわの再婚話がもちあがった。相手は山下汽船の元船長で、当時、神戸で海事審判補佐人(海事関係の弁護士)をしていた人だった。さわは、ずいぶん迷ったらしい。考え抜いた挙句、それとなく井深の気持ちを打診してみる気になった。 「実はね、こういう話があるけど、どうだろう。お前がいやならやめてもいいんだよ」  と、母は口ごもりがちに話しかけた。九歳になったばかりの井深は、しばらく考えてからこういった。 「母さんがいいと思うなら、賛成だよ。すこし淋しい気もするけど、ぼくに新しいお父さんができるのが嬉しい」  それを聞いたさわは、幼い井深の身体を力いっぱい抱きしめたに違いない。まさかそんな健気な返事が戻ってくるとは思っていなかったからだ。やがて話がまとまり、さわは神戸へ嫁いでいった。幼い井深を残していくのは、身を切られるほど辛かったはずである。子供心にそれがわかったとみえ井深も努めて明るく振舞ったという。  現実に母かいなくなってみると、井深は心に大きな空洞ができたような思いに駆られた。それから井深の孤独との戦いがはじまる。もちろん、井深はいつもと変わらない表情で地元の小学校に通っていた。そんな井深を見かけた近所の人が「こんな小さな子供がいるのにネ」と同情の声を漏らした。たまたまそれを耳にした井深は、幼い子を残して再婚した母を非難する声の主にひどく反感を覚えたという。母をそんな目で見てほしくないと思ったのである。  しかし、心のなかは口では表現できないほど複雑だったはずだ。もっていき場のない心のいらだちのはけ口を、井深は、算数や理科の学習、好きな機械いじりに求めた。問題の本質を自分で納得できるまで見定めようと、子供なりに執念を燃やした。こんなことがあった。  小学校三年のとき、時計屋のショーウインドウに電鈴(ベル)が陳列されているのを見かけた。井深はそれがほしくてたまらず、さっそく、祖父にねだって、電池とベルを一揃え買ってもらった。そして夜中にそれをリンリン鳴らし、だいぶ叱られたという。  この程度ならいたずらの域を出ないが、井深の場合は、それからもっと独創的な遊びに発展する。井深自身は次のように語っている。 「ベルと電池をつなぐ電線を長くしますとね、電池が一・五ボルトなので、鳴らなくなっちゃうんです。その頃は電線の内部抵抗が働くなんて知らなかった。電線を延ばしてどのくらいの距離までなら鳴るか、なんて調べたりしましてね。そのうちベルを鳴らしている電磁石を使って電信機をこしらえ、勝手な信号を決めて、隣の家の友達と交信したりして遊んだものです」  単なるベルが、井深の手にかかるといろんなものに化けていく。  好奇心がつのると、ときとして危ない目にあうことがある。電池の両極をつないでいた電線が火傷するほど熱せられることを覚えたのもその頃だし、祖父の使っていた自転車についていた灯火用のアセチレンランプの構造が知りたくて、分解しはじめたら、何かの拍子で爆発し、すんでのところで大怪我するところだったという失敗も演じている。  この時分は本もよく読んだ。中学初期の児童を対象にした『理科少年』という雑誌を、毎月定期購読していたし、『婦人画報』や菊池幽芳の『己が罪』『お夏・文代』、小杉天外の『魔風恋風』、徳富蘆花の『思い出の記』という大人向けの小説も、むさぼり読んだという。小学校三年前後のことだけに、その内容をどれだけ理解していたか知る由もないが、ずいぶんませていた子供だったことは確かである。  小学校時代は字が下手であったが、文章を書くのは好きで、作文はいつもいい点を取っていたという。苦手な科目は習字と国語、その代わり算数と理科は学年を通じて常にトップの座を譲らなかったそうだ。幼稚園時代に芽生えた科学への関心は、この頃から次第に大きくふくらみはじめた。  ヒューズと井深  井深が中学受験を意識し、真剣に勉強をはじめたのは小学校五年になってからであった。だが、田舎の学校とあって、なかなか実効が上がらない。そこで祖父や母と相談し、母の嫁ぎ先である神戸の小学校に転校することになった。小学五年の学期末のことである。  新しく通いはじめた学校は、諏訪山小学校といい、神戸の名門校「神戸一中」(現神戸高校)をめざす生徒をスパルタ式教育で鍛えることで評判の学校だった。それだけに井深も、最初は不安感を抱いた。田舎育ちの自分がレベルの高い都会の生徒と対等に勉強していけるだろうか、心配だったのである。新学期がはじまるとそんな懸念はいっぺんに吹っ飛んでしまった。通常の授業のほかに受験のための補習が、毎晩遅くまで続き、そのうえ、うんざりするほど宿題を出され、徹底的にしごかれる。向学心の旺盛な井深にとっては逆に刺激になって、よけいな心配をする暇がなくなってしまった。 「あれは私にとっていい思い出だった。先生の教え方もきびしかったが、押しつけられているとか苦しかったという気分はまったくなかったですね。それに『これができた人は家に帰ってよろしい』と、先生にいわれ、一生懸命に問題を解いて、一番先に教室を出るときなんかは、優越感を感じたことをいまでも覚えていますよ」  と、井深は当時を振返り苦笑する。努力の甲斐があって、井深は神戸一中に入学することができた。  こうして彼は思春期を母の再婚先で過ごすことになる。その間「養父から可愛がられもしなかったが、辛くもあたられなかった」と、述懐している。見方を変えれば井深にとって淋しいことであった。養父との心の交流がなかったともいえるからだ。だが、井深のことを何もかも知りつくした母がいた。それだけに神戸での新しい生活も、井深にとってはそれほど苦でなかったのかもしれない。中学一年になったばかりの井深は、さめた大人の心で養父に接していたのではないだろうか、とも考えられる。  ある人文学者の説によると、児童期にしばしば環境が変わる人物は、二つの異なった性格に分かれる可能性が強いという。一つは、環境が変わるたびに内向的になり、自己喪失するタイプ。もう一つは、逆に自己主張が強くなり、社交的で、いわゆる、大物になる人間ができるというのだ。数からいうと、前者が圧倒的に多い。児童期にしばしば転校するのはあまり好ましくないといわれるゆえんもそこにあるという。  井深は、その〈好ましくない環境〉のもとで成長した。それも、両親の膝下でなく祖父のもとで育った期間が長いというハンデを背負っている。にもかかわらず、井深にはそういう意味での暗さはみじんも感じられない。しいてそれらしき点をあげれば、母に対する思慕の情が、脳裡に深く焼きついてはなれなかったということではなかろうか。  井深は、機械のような無機物を相手にすることで、自分の感情の不安定さをコントロールしようとした。同時に、自分がやりたいことを思いきりやってみたい、という彼の自己主張が強く前面に出るようになった。それが後年の彼の技術の創造性を強調する考えをはぐくむきっかけになったとみられるふしがある。  その辺を、前述のハワード・ヒューズと比べてみる。父親に溺愛されすぎ、母との心の交流の薄かったハワードは、父の突然の死によって、ますます孤独感を強め、自分だけの世界にどっぷり浸るようになった。身内や腹心の部下にも心をひらかず、私生活では莫大な遺産を湯水のように使い、勝手気ままにやりながらも事業を拡大していった。しかし、人間的には、少年期のまま内気で、自己中心の気まぐれな事業家の域を出ていなかった。希代の天才といわれながら、周囲から異端視され、淋しい晩年を送らざるを得なかった原因もそこにあるような気がする。  これに対し、井深は、逆境にもめげず、自分の天性を活かすことができた。祖父や母の暖かい庇護があったればこそだが、井深自身が、現実を冷静に見る大人の心をいつの間にか身につけていたことが役立ったのかもしれない。ちょっとした気配りの差が、激しく変化する環境のもとに幼児期、少年期を過ごした二人、ハワード・ヒューズと、井深の人間的な差を生じた。それを確かめる意味で、もう少し、井深の成長の記録を追ってみよう。  神戸一中に通いはじめた井深は、なぜかあまり勉強しなくなった。そしてテニスに興じたり、安城時代からの夢であった無線の研究に凝りはじめた。  当時、祖父の基は役所をやめ、恩給生活をはじめたばかり。その基が昼近くなると必ずどこかへ出かける。最初、家人もそれほど気にとめなかったが、雨が降ろうが風が吹こうがやめようとしない。不思議に思った家人がそれとなくわけを聞くと、近くの駅で正確な時間を知るためとわかった。当時はラジオもない時代であった。したがって、一般人にとって正確な時間を知ることはたいへん大儀なことであった。東京や大阪では、正午になると〈ドン〉と、号砲を鳴らし、正確な時間を知らせていた。安城にはそんなものはない。ところが、駅に行くと、正午三〇秒前に必ずベルが鳴る。地方の人はそれで正確な時間を知ることができた。祖父の基もそうしていたわけだ。  井深も、この祖父に感化されたとみえ、時間に対する関心が人一倍強かった。そんな矢先、井深は耳よりな話を人づてに聞いた。千葉県銚子の無線局が、毎晩九時に、船舶向けに時報の電波を流しているというのである。  無線少年 「よし、無線電信に挑戦してみよう……」  井深はそう思った。しかし、当時、日本の無線技術は揺籃の時代で、専門書や参考文献も少なかった。井深は定期購読をしている科学雑誌を頼りに独学で勉強をはじめた。関東地方に大地震が発生したのは、その直後の大正十二年九月一日、正午少し前のことであった。 「そのとき横浜沖に停泊していた〈これあ丸〉という貨物船から、壊滅した東京の状況を無線で知らせてきた。それが翌朝の地元新聞に大きく出たんです。あれにはびっくりした。同時に無線というのは、すごい威力があるものだなと、すっかり感心し、ますますのめり込んじゃうんです」  と、井深は当時を振り返る。  趣味とはいえ、無線電信機をつくるには金がかかる。いまと違って、その頃は、アマチュア向けの無線機器は手に入れにくかった。そこで以前から出入りし、顔馴染みになった日本無線(株)神戸出張所のサービスマンを通して、必要な機器を分けてもらうことにした。その費用は母が出してくれた。亡父が残してくれた貯えがあったからである。真空管を買うときは母に頼らず、自分のこづかいを貯めて買った。値段は一本一〇円を超えていた。それを三本もである。当時、大学卒の初任給が四〇円前後だったから、いかに高価な買い物だったかがわかるだろう。  そんな思いをして買った真空管を、井深は「宝物でも扱うように、大事にワタでくるみ、胸をはずませて持ち帰った」という。真空管をセットする前に、すでに組立て済みの手づくりの受信機の配線の具合を入念にチェックした。もし配線が間違っていれば、高価な真空管は瞬時のうちに使いものにならなくなってしまう。それを心配したのだ。  配線ミスのないことを確認した井深は、神に祈るような気持ちで受信機のスイッチを入れた。フィラメントが熱してくると真空管は、まるで電球のように輝きはじめ、部屋のなかが明るくなった。受信機からブーンという雑音が聞こえてくる。バリコンをゆっくり回し同調をとると、かすかな音声が聞こえてきた。 「できた! ……」  井深は、思わず手をたたいて喜んだ。ドンブリをスピーカー代わりに使っていたが、それに耳をあて夢中になって音声を聞いた。その夜は遅くまで受信機をいじり回し、ろくに寝なかったという。  この手づくりの受信機には泣きどころがあった。電源が蓄電池だったことである。電池の寿命はせいぜい七、八時間。本当は専用の充電器がほしいのだが、高すぎてそこまで手が回りかねた。そこで電池がなくなると、重い蓄電池を町までもって行き充電してもらう。井深はそれを苦に思わなかった。  彼の〈無線熱〉が、思わぬことから町の評判になった。そのきっかけは選挙速報を受信したことであった。大正十四年、大阪の朝日新聞社は総選挙の結果を報ずるため、出力二五〇ワットでラジオの試験放送を実施した。当時、一般の国民が選挙結果を知るのは、新聞販売店に貼り出される速報が一番手っ取り早い方法といわれていた。だが、肝心の情報は地方支局から大阪本社を経由して届くだけにどうしても遅れがちになる。ところが、井深は、その実験放送を手づくりの受信機でキャッチし、結果を近所の人にそれとなく教えてやった。これが評判になり、養父の家の周りに人だかりができた。  そんなことが井深の〈無線熱〉を、よりいっそうかきたてた。こんどは、三月に東京芝浦で実験放送をはじめたばかりの東京放送(のち日本放送協会、NHK)の電波を捉えることに的をしぼることにした。だがそのためにはアンテナがいる。ところが、当時、一般の人が勝手にアンテナを張り、無線を傍受することは、認められていなかった。それを承知で挑戦しようとしたのである。  思いたつとジッとしていられないのが、井深のもって生まれた性格である。さっそく、行動を起こした。まず自宅の屋根に何度ものぼり、どう配線すればよいか、慎重に構想を練った。数日後には外から絶対に見えないようにアンテナを張り終えてしまった。  この前後、井深は無線が取りもつ縁で貴重な友人を何人も知った。谷川譲(のち山下汽船取締役)、笠原功一(のちソニー常務)、梶井謙一(のち日本アマチュア無線連盟会長)、星野〓(のち東工大教授)、草間貫一(のち大阪朝日放送常務)など、いずれもアマチュア無線の草分けといわれる人たちであった。この人たちとのつながりが、のちの井深の人脈形成に大きく貢献するのである。  しかし、その無線通信技術で隠された才能の発掘に成功した反面、困った問題も起きた。無線に熱中しすぎ勉強がおろそかになり、成績がガタッと落ちたことである。同級生は四年で高等学校を受験し、どんどん合格するのに、井深は受験に挑戦するだけの自信がなかった。これにはさすがの井深もこたえたとみえ、無線機いじりをぴたっとやめてしまった。そして五年の新学期から遅れを取り戻そうと、猛烈に勉強をはじめた。その努力が実り成績は確かに上がった。そこで官(国)立の浦和高校(現埼玉大)と、北大予科の二校を選び挑戦したが、両方共不合格になった。身体検査で色盲の気があることがわかり、はねられたらしい。その頃の官(国)公立大学は、そんな些細な欠点を理由に合否を決めていたわけだ。  そこで井深は、早稲田の第一高等学院理科に入ることになった。早稲田を選んだのは、当時、日本の十大発明家の一人といわれた山本忠興教授が、理工学部長をしていたこと。山本教授の子息が井深と幼稚園が一緒で、遊び仲間でもあったことが理由であった。こうして井深は五年間住み馴れた母の許をはなれ、上京することになった。そして池袋の下宿屋に居を定めた。昭和二年春のことであった。  早稲田大学科学部  人生には常に運、不運がつきまとう。その場合、当事者がどう対処するかで局面も変わってくる。それを身をもって実証してみせた一人が井深である。第一志望の官(国)立高等学校の受験に失敗すると、一転して自由な学風で知られる早稲田を選んだ。それが井深自身の天性を活かすきっかけになったからである。  しかも、井深は、そこで思いがけない友人と会う。神戸一中時代、アマチュア無線を通して知り合った島茂雄(のちソニー専務)であった。島は国鉄生みの親ともいうべき島安二郎工博の次男で、兄は東海道新幹線建設の際、技術陣の総指揮をとった島秀雄(のち宇宙開発事業団理事長)技師長である。当時、島茂雄は早稲田第一高等学院理科の二年生、つまり、井深より一年先輩であった。その島が学内の掲示板に貼り出された新入学生名簿を見て、井深大の名前を発見した。  ——もしかすると、ハム仲間の井深かな——  と、島は思った。お互いに無線を通じて交信した仲だが、顔は知らない。それだけに確信がもてなかったのだ。そこで島は一計を案じた。教室の黒板にメッセージを書き残しておくことだった。 「BBB de ISH、科学部のクラブルームで会おう」  BBBは井深、ISHは島のコールサインである。ハム仲間なら、これを見れば誰から誰へあてた通信か、すぐわかる。こうして二人は、科学部のクラブルームではじめて対面した。その頃の井深は丸顔で、まだ童顔が抜けきれなかった。そんな井深を見て島は「なんだ、こんな坊やだったのか」と、興ざめする思いがした。だがそれがとんでもない間違いだとすぐ気がついた。童顔に似合わず博識だし、思ったことをズバッといってのける。論旨がハッキリしている。島はそんな井深がいっぺんに好きになった。そして科学部に入ることをすすめた。  当時、大学、高等学校の数も多かったが、科学部というクラブをもった学校は、早稲田以外になかった。部長は井深が敬愛する理工学部の山本教授であった。島以外にも多彩な人材が名を連ねていた。  西山栄蔵(のちフジテレビ技術局長)、新川浩(のち海軍技術研究所技師、国際電電研究所長)などがその代表的な人びとである。  井深が持ち前の天性を発揮しはじめるのは、科学部に入ってからであった。よき師、よき同好の士に囲まれた学園生活が井深の好奇心を刺激したのかもしれない。以来、井深は学校の授業は二の次にして、もっぱら島と科学部の部屋で過ごすことが多くなった。幸い当時はエレクトロニクスの草創期、若い理科の学生にはやりたいことがいくらでもあった。島と二人で増幅器を組み立て、スピーカーを取り付け、レコードコンサートを開くとか、体育会の対抗試合に手づくりのアンプ、スピーカー、マイクロフォンをもちこみ、応援活動を積極的にするなど、学生に重宝がられた。  遊び半分のクラブ活動も、ときがたつにつれ本職顔負けの仕事をやってのけるようになる。昭和五年、井深が理工学部に進学したとき、島と共同で明治神宮外苑競技場の拡声装置一式を請け負ったのが、その最たるものだ。これは、その年、同競技場で開催される極東オリンピックに備えるためで、早大陸上競技部の世話役を兼ねていた山本教授の依頼でつくったものである。  また、山本が関係していた東京・富士見町(千代田区)の日本キリスト教会の鐘を電気仕掛けにして鐘の音が周辺に響き渡るようにしたのも、井深と島であった。  この時期、井深の人間形成を知るうえで、見落としてならない事件は、井深が同教会の信者になったことである。第一高等学院三年のとき、親類の人にすすめられたのがきっかけだった。この富士見町教会はつい最近(昭和六十二年)創設一〇〇周年を迎えた名門の教会で、信者にも有名人が多いことで知られている。恩師の山本もこの教会の古い信者で、長老的存在であった。前に触れた電気仕掛けの鐘も、その関係で山本に頼まれたものだ。  富士見町教会に通い出したことを契機に、井深は池袋の下宿屋を引き払い、大学構内の近くにあった友愛学舎(早大関係のキリスト教関係者の寄宿舎)に移った。そして日曜学校の先生をするなど、それなりの奉仕活動はしたが、必ずしも信仰心の篤い信者ではなかったようだ。つまり、キリスト教の説く世界観、人間観、人生観には共鳴したが、信仰そのものにのめりこむようなことはなかった。  しかし、友愛学舎での生活は井深の人生にとって、忘れ得ぬ思い出の一つになっている。たとえば、舎監をしていたベニンホフというアメリカ人宣教師の教導姿勢が手ぬるいといって、仲間と一緒に「信仰を本物にせよ」と、要求をつきつけるなど、反骨ぶりを発揮している。のちに一緒に仕事をするようになる小林恵吾(ライオン歯磨創業者の一族、のちコッス測定器社長)、迫田俊郎(のちソニー取締役)と出会い、人生論を論じ合ったのも、この宿舎であった。  よき師、よき友に恵まれた井深が、本格的に勉強に打ち込みはじめたのは、理工学部に進学してからである。彼は、当時電気工学の主流であった強電でなく、弱電の世界を選んだ。将来、学者として身をたてるより、好きな技術の道にすすんだほうが、自分の天性を活かせると思ったのだ。  主任教授の堤秀夫の指導でケルセル(光の強さを、音声の強さ、弱さに合わせてコントロールする技術)の研究に取り組んだ。この技術はのちに映画のトーキー用に使われるようになるのだがそれはまだ先の話になる。  井深が『ケルセルの光変調』の原理を応用してつくった成果の一つに「光電話」がある。これは理工学部三年の秋に発明したもので、実験は早稲田大学と牛込矢来町(新宿区)の新潮社屋上の間で行なわれた。このニュースがマスコミに取り上げられ、「学生発明家・井深」の存在は一躍有名になった。その直後のある日、実験室でネオン管に高周波電流を流していると、周波数が変わるごとに光の長さが伸縮することを偶然発見した。これに興味をもった井深は、現象の理論づけよりも、まず応用製品の開発を思い立った。そして光を自在に変調することのできるネオン装置をつくりあげることに成功する。  それまでネオンといえば、ただ明るく、光っているだけの代物だった。これに対し井深の発明したネオンは、まるで光が動いているように見える。そこで井深は、このネオンを「走るネオン」と名づけ、特許をとった。この装置はのちにPCL入社後、たまたま開催中のパリの博覧会に出展したところ、優秀発明として金賞を贈られた。新聞が「国際的栄誉に輝く、天才的発明家」と、派手に報じ、評判になったのはこのときであった。 2章  PCL入社  学生時代、「天才的発明家」の異名を与えられた井深であったが、就職先を探すのにだいぶ苦労している。当時は昭和四年の世界大恐慌の余韻のさめやらぬ不安定な時代とあって、技術系大卒者の就職は容易でなかった。それに電気関係といっても、脚光をあびているのは電力会社や電機メーカーの重(強)電部門で、歴史の浅い弱電専攻の学生に門戸を開いている企業は、数に限りがあった。  それを案じた北海道の親類から、「函館水電という会社で技術者をほしがっている。就職する気があるなら北海道に来るように」と、誘いの声がかかった。この親類は井深の父の従兄弟で、函館市内で海産物問屋をしている太刀川善吉という人だった。井深が大学に進学してから、毎月五〇円ずつ学費を援助してくれた恩人でもある。だが井深にはその気がなかった。学校の紹介で東京電気(昭和十四年、芝浦製作所と合併し東京芝浦電気となる)の入社試験を受けることにした。しかし、ものの見事にはねられてしまった。片寄った勉強の仕方が敬遠されたらしい。それに関連して井深自身は次のように語っている。 「学校から二人推薦されて受けたんですが、一人が強いコネをもっていた。私もコネがなかったわけじゃない。その頃東京電気の重役(のち社長)だった山口善三郎さんという人は、私の父が古河製銅所にいたときの工場長だった。私が『井深の息子です』と頼みに行けば、なんとかなったかもしれない。私はそれをしなかった。負け惜しみじゃないが、それほど魅力のある会社とは思っていなかったのでね」  ちなみに付け加えると、このとき採用された早稲田の学生は、昭和三十三年五月に完成した東芝のトランジスタ専門工場(多摩川工場)の初代工場長になった林武信である。  当時、東京電気は弱電メーカーの大手であった。だが、つくっているものはランプ(電球)が中心で、GE(ゼネラルエレクトリック)社の技術援助ではじめた真空管事業は、需要が少なかったせいか、少量生産でお茶を濁していた。井深にはそれが物足りなかったのである。  しかし、失望はしなかった。その気になれば建国して日の浅い満州に行けば、条件のよい働き口はいくらでもある。また、これまでの経験や研究成果を活かせば独立することもできる。そんな自信めいたものが井深の心のなかにあった。  そこへ思いがけない話がもたらされた。「走るネオン」の特許を出したとき、親切に面倒をみてくれた清水という審査官から、「君のような人をほしがっている会社がある。訪ねてみる気はないか」と、井深の意向を打診してきた。  その会社は、東宝映画東京撮影所の母体となったPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所、創立昭和五年)で、映画フィルムの現像と、録音を専門とする小さな会社であった。創立者である植村泰二所長は、のちに経団連会長を務めた植村甲午郎の実弟で、新しい技術に理解のあるユニークな事業家として知られていた。その植村は、井深が学生時代に手がけていたケルセルの研究に深い関心を寄せ「好きなことをなんでもやらせてあげるから、ぜひうちに来なさい」と、誘ってくれたのだ。  井深はその一言で心を動かされた。そしてPCL入りを決意する。音声を光に変え、それをまた音に変えるという仕事は、自分にうってつけのような気がしたのだ。このとき植村は「月給は帝大出並みの六〇円にしよう」と、約束してくれた。それも魅力の一つであった。こうして井深は、PCLの技術社員になった。昭和八年春のことであった。  当時、日本の映画界は活弁時代に終わりを告げ、トーキーが定着しはじめた頃である。日本でトーキー製作の機運が盛り上がったのは、大正十四年七月、新橋演舞場で、三極真空管の発明で有名なド・フォレスト博士の「フォノ・フィルム」が公開され、皆川芳造がその権利を手に入れ「ミナトーキー」の名で、数本の作品をつくったのがそもそものはじまりである。その後、本条政生のディスク式「イーストフォン」(昭和三年)を経て、土橋式トーキーが開発され、本格的なトーキー時代が到来した。  ところが、土橋式トーキーは松竹が独占していた。そのためライバル会社であった日活は、苦境に立たされた。日活は発足間もないPCLと組んで、その立ち遅れを取り戻そうと策した。その頃トーキーはアメリカのRCA方式とウエスタン方式の二つが主流であった。井深が入った頃のPCLは、その二社の特許に抵触しない新しい録音方式の開発に力を入れていた。それだけに井深のような人材は、PCLでも貴重な存在だったといえよう。  入社して一ヵ月目に、井深はあと味の悪い体験をさせられる。入社時の約束では月給六〇円というのに、もらった月給袋には五〇円しか入っていなかった。これには井深もカチンときた。話が違うと思った。無口でおとなしいといわれていた井深も、こういう約束違反は大嫌いだった。さっそく、所長室に行き植村に抗議した。  最初、植村もなんのことかわからずポカンとした表情で井深を見ていたが、すぐ自分の度忘れに気がついた。だがそれを口にせず「そんな小さなことにコセコセするな」と、軽く井深をたしなめた。そういわれると、さすがの井深も返す言葉がなかった。  この問題はすぐ氷解した。翌月の月給袋にちゃんと六〇円入っていたからだ。やはり、植村は心の広い、さっぱりした性格の経営者だった。それだけに多くの人に慕われた。植村亡きあとも「植村会」という名称の偲ぶ会が、関係者の肝入りでつくられ、いまでも定例の会合を開いている。もちろん、井深もその会の発起人の一人であった。  このPCL時代は、井深の資質と人間性をより豊かにする大事な期間であったことを知る人は意外に少ない。そういう意味からPCL時代の井深の仕事ぶりや生活観を、エピソードを通じて拾い出してみるとしよう。  PCL砧撮影所  前にも触れた通り、井深は入社二ヵ月目から月給六〇円と破格な扱いを受けたが、その後も月給はどんどん上がり、一年目で九〇円、三年目には一五〇円の高給取りになっている。これはPCLが、井深の入社した昭和八年の五月から劇映画の自主製作をはじめたことと深いかかわりがある。  もともとPCLはトーキーの録音技術提供が目的で設立された会社である。したがって、自主製作は行なわず、ニュース映画や独立プロダクションがつくった映画の録音を請け負うという、貸スタジオ経営方式であった。のちになって、日活映画の録音を引き受ける契約が成立したのを契機に、同時録音用の劇映画専用スタジオ二棟(現在の砧撮影所のNo.1、No.2スタジオ)を建設した。昭和七年秋のことであった。  ところが、このスタジオが完成する直前、日活側の内部事情で、劇映画製作の契約が破棄された。このためPCLは、独立プロダクションからの委託製作、朝日ニュース映画の録音を請け負うことで急場をしのいでいたが、最高の設備を誇るステージを恒常的に使用できるプロダクションは、当時、皆無に等しかった。これでは完成したスタジオの維持費も捻出できない、そこでPCL首脳陣は、これまでの方針を変え、劇映画の自主製作に乗り出すことによって局面を打開しようと考えた。井深が入社する前後のPCLはこんな状況下にあった。  PCLの自主製作第一回作品は、昭和八年五月から撮影を開始したミュージカル・コメディ『ほろよひ人生』(昭和八年八月封切り)で、企画構成・製作は森岩雄、監督は木村荘十二、出演者は既成の俳優を使わず、当時、浅草玉木座で人気のあった藤原釜足、デビュー間もない新進女優千葉早智子、パラマウント俳優学校を卒業したばかりの大川平八郎、軽演劇界や寄席からは徳川夢声、古川緑波、大辻司郎、新劇の丸山定夫らを起用した。  この映画はトーキーならではの魅力を活かすため、作曲に元音楽学校教授の兼常清佐、編曲・指揮に紙恭輔、音楽効果に声楽家の奥田良三を迎え万全を期したこと、さらに製作費をカバーするため、大日本麦酒(株)と提携、ビールの宣伝を劇中に採り入れるなど、それまでの映画に見られない斬新なアイデアが盛り込まれていた。  井深は、PCLの映画自主製作の録音技術向上に欠かせない要員として採用されたわけだ。入社した昭和八年の一二月から、毎週開かれる同社の技術会議に出席を認められた。この会議はPCL技師長の増谷麟(のちのソニー監査役)邸で行なわれ、出席者はPCLの技術者だけでなく、横河電機の技師長だった多田潔、日本無線の門岡達雄技師など、斯界の一流技術者を交えた勉強会のような会議であった。  学校を出たばかりの井深が、こうした会議のメンバーになったのは、当時としても異例のことであった。井深はそれほど嘱望されていたといえる。さらに、井深は本来の仕事である録音技術の研究だけでなく、ネオンやブラウン管をつくったり、かなり自由な研究活動をさせてもらっている。それに関連して井深はこんな話をしている。 「植村さんは、非常に幅の広いものの見方をされる方でしてね。われわれに対しても『新しい技術の発見は国家的なプラスであり、人類の進歩のために不可欠である』と、口ぐせのようにおっしゃっておられた。そういう前向きな思想の持ち主だけに、直接、事業に関係なくても、日本のためになる仕事なら、大目に見てやらせてくれたんですね」  こうした恵まれた環境が、井深の〈技術する心〉を豊かにしただけでなく、人間の幅を拡げるうえで非常に役立ったはずである。幸いなことに、井深の周辺にはユニークな同好の士が揃っていた。それが仕事を楽しくする原因の一つでもあった。  その頃世間では、映画づくりに携わる人びとを〈活動屋〉と呼び、〈社会のはぐれもの〉のような目で見ていた。映画監督や出演俳優は契約者であり、それを支える製作スタッフは、一応は正規の社員だったが、映画づくりという仕事の性質上、およそ会社員らしくない暮らしをしていたからだ。たとえば、会社の組織上からは製作部員、技術部員、美術部員、事務部員などとタテ割りされていたが、実際の仕事は組織のワクを越えた形で行なわれる。いわば、タスク・フォース方式で仕事がすすめられているのである。出退勤はチーム(監督の名を付して○○組といわれていた)ごとでいろいろ異なる。服装もラフな格好をしていてもかまわない。何より大多数の社員は、活動写真(当時はこういった)が好きでたまらずこの世界に飛び込んできたものばかり。一般社会の規範に合わないのは当然であった。それが〈社会のはぐれもの〉と見られた理由であった。  一本の映画をつくるときの人事採量権は監督が握っていた。PCL時代から東宝創成期を支えた木村荘十二、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、山中貞雄、滝沢英輔、豊田四郎、熊谷久虎、阿部豊、斎藤寅次郎などがメガホンを取るときは、カメラ、照明、録音担当の技師は、彼らの好みで選ばれた。いったん撮影がはじまると、監督を中心に独自のチームワークのもとで、仕事が手際よくすすめられていく。徹夜が何日続いても平気という人間が多かった。仕事がすめばスタッフは解散し、それぞれの所属部屋に戻り、次の仕事を待つ。腕のいいカメラマンや照明、録音技師は別の監督にすぐ指名され、休む暇もなく次の仕事に駆り出された。これが、一般的な映画づくりのルールであった。  井深が在籍した頃のPCLは、自主製作をはじめたばかりで、規模も小さかった。しかし、製作本数が増えはじめた昭和十年以降になると、砧村(現喜多見町地区)周辺も次第に撮影所らしい雰囲気に変わっていった。なかでも注目されたのは録音関係の設備である。同じ頃完成した松竹大船撮影所(昭和十一年一月移転、スタジオ二階部分にレコーディングルームが設けられていた)と違い、レコーディングルームはスタジオとは別個に独立した建物をつくり、スタジオ内の移動式ブース(調整台)と専用線で結び、少ない人員でも機械を集中管理ができる斬新な設備だった。  結婚  井深が撮影所関係者とモーターサイクルを乗り回し、ツーリングを楽しんでいたのは、この前後のことらしい。愛車は赤く塗られた「インディアン」だったというから、相当なマニアである。もともと井深はクルマ好きで、これまでにも国産車、ヨーロッパ車、アメリカ車と次々に買い換え、いまではリンカーンに乗っている。  最初、免許を取ったのは昭和十年。「本当はもっと早くに取りたかったのだが、PCL入社間もなく二八〇円もするドイツ製の三五ミリカメラ『ライカ』を買ってしまったため、クルマを買う余裕がなかったから」という。その後、月給も二倍になり、賞与もたくさんもらえたので免許を取り、そのうえで大枚五五〇円を投じ、中古の「ダットサン」を購入した。この車はセコンドでないと、渋谷の道玄坂を上がれなかったというから、ポンコツもいいところだ。それをある程度使いこなしてから、モーターサイクルに切り換えたらしい。こうしてPCL時代の井深は、仕事の時間と遊びの時間を適当に使い分け、生活をエンジョイしていた。  この時分、井深がもし映画づくりに関心をもっていたら、ハワード・ヒューズ同様、この世界で有名な存在になっていたかもしれない。だが井深は映画を好きになれなかった。絵空事のように思えたからである。とはいえ、録音技術の研究はもっとやりたい、それ以外にもやってみたいことはたくさんあった。ところが、映画づくりにかかわっていると雑用が多すぎる。井深にはそれが負担になって、悩むことが多くなった。  ある日、井深は、思いきって所長の植村に自分の心情を率直に訴えた。そして、植村が一六ミリのトーキー映写機をつくるために設立したばかりの日本光音工業に転籍させてもらうことにした。昭和十一年末のことである。  ところで、二・二六事件が起こったこの昭和十一年には、井深の人生にとって節目になるもう一つのできごとがあった。井深が慈父のように慕っていた作家の野村胡堂から見合いをすすめられたことである。その頃は野村も、売れっ子の大衆小説家として有名になっており、軽井沢に別荘をもつなど悠々自適の生活を送っていた。その野村の別荘の隣が、当時、朝日新聞の論説委員として活躍していた前田多門の持ち家であった。  野村が井深にすすめた見合いの相手は、その前田家の次女の勢喜子である。その頃、勢喜子は女子美術学校在学中で、まだあどけなさの抜けきれない清楚な感じの娘だった。野村に伴われ、東京の前田家ではじめて勢喜子に会った井深は、「こんな子供でも結婚できるのかな……」と、思ったそうだ。それほど頼りなく見えたらしい。  しかし、勢喜子の父である前田多門とは意気投合し、日頃思っていることや、自分の人生観、日本の技術のあるべき姿など、いろいろ話し合った。勢喜子の母は、そんな井深が気に入り、なんとかこの縁談をまとめようと積極的に動いた。つまり、井深は前田夫妻にすっかり見込まれ、勢喜子を妻にもらい受けることになったのである。  こうして昭和十一年一二月、勢喜子と結婚した井深は、世田谷の新居から日本光音工業に通い出した。前述のように、日本光音工業は一六ミリのトーキー映写機をつくるために発足した会社だが、社長の植村は、井深のためにわざわざ無線部を設け、その主任格の技術者として登用、特殊な真空管やブラウン管の研究開発に専念させるように仕向けた。井深が弱電技術者として本領を発揮しはじめるのはそれからであった。  昭和十二年七月、蘆溝橋事件に端を発した日中の武力衝突は、次第に本格的な戦争に発展しそうな気配をみせてきた。それに伴い日本光音工業も、一六ミリのトーキー映写機ばかりつくっているわけにはいかなくなった。代わって台頭してきたのが、無線部のつくったラジオゾンデに搭載する無線機用の小型真空管や測定器用のブラウン管である。そのブラウン管を使ったオシロスコープは、業界でも高い評価を受け、いつの間にか日本光音工業の主力製品の一つになった。  おかげで井深はますます多忙になった。だが、好奇心が旺盛なだけに、社内にじっとしていない。暇をみつけては外部の関係者と交遊を重ねていた。その一人に、むかしのハム仲間である笠原功一がいた。笠原は関西学院大学を出たあと、ラジオ関係の仕事がやりたくて、七欧無線電気商会に入り活躍していた。井深も早稲田在学中から、笠原のところにひんぱんに出入りし、情報を交換したり、七欧無線でなければ入手できないラジオの輸入部品を分けてもらうなどしていた。  その頃、七欧無線の社員であった樋口晃(のちソニー副社長、相談役)は、そんな井深を何度も見かけ、顔を覚えていた。天才発明家として有名な存在だったからである。  ある日、樋口は、その井深から「日本光音で一緒に仕事をする気はないか」と、声をかけられた。一瞬、樋口はびっくりした。常々、真面目で好ましそうな人物だと思っていたが、それまで井深と直接言葉を交わしたことはなかった。その人から意外な誘いを受けた。それで驚いたのだ。同時に嬉しさがこみあげてきた。「この人はオレを評価してくれた」と、思ったのである。  樋口はそれからほどなくして日本光音工業に移り、井深のもとで働くことになった。その日本光音工業に、もう一人逸材が入って来た。井深が頼まれて講師をしていた東京・尾山台の高等無線技術学校の教え子だった安田順一(のちソニー技術部次長)であった。以来、この二人は、井深とずっと行動をともにし、ソニー発展に重要な役割を果たすことになる。  「日本測定器」設立  井深はこの時代、もう一人自分の運命を左右する大事な人と出会っている。磁気録音の交流バイアス法の発明者である東北大学教授永井健三(のち名誉教授)である。永井が高等無線技術学校の深井校長の親戚だったことで知遇を得たものだ。これを契機に井深と永井、その門下生との切っても切れない縁ができるのである。  井深にはじめて会ったマスコミの人は、誰もが無愛想でとっつきにくい人という。彼は若いとき、無口でおとなしい人といわれてきた。しかし、それは井深の一面でしかない。井深は、波長の合った人と話すときは、しばしば時間のたつのも忘れる。話題は豊富だし、ムダがない。それが相手を魅了する。井深の美点の一つは、人の面倒をよくみることであった。永井がこんな話をする。 「私が井深さんにえらいお世話になったのは、昭和十五年、大学からアメリカに行かされたときなんです。ところが、出張といっても船賃だけしかくれない。もちろん、俸給は向こうでもらえるが、困ったのは日本に残る家族の生活費です。家族には俸給の半分か、六割ぐらいしか支給されない。それですっかり困った私は、国際電電に借金に行ったわけです。そのとき心配した井深さんが、PCLの植村さんに引き合わせるなどして、お金まで工面して下さった。おかげで私も心おきなくアメリカに旅立てたんです」  当時、井深と永井の関係は、あくまでも個人的なもので、仕事上の交流は何もなかった。にも関わらず、永井のために親身もおよばぬ世話をしている。永井の名声や研究成果を利用したいという妙な下心は、いっさいなしにである。そんなところはいかにも井深らしいやり方といえよう。  永井が渡米した昭和十五年は、井深にとっても大きな変動のあった年である。それは日本光音工業の無線部を分離独立させ、日本測定器という会社を設立したことであった。きっかけは、日中戦争の長期化による環境の変化である。このため日本光音無線部は、陸海軍関係の仕事が増え、いつの間にかトーキー映写機とはまったく無縁の測定器をつくる工場に変貌していた。 「このままでは、仕事がやりにくくなる。それにもっと別なこともやってみたい」  井深はそんなことを考えるようになった。ある日、早稲田時代に友愛学舎で同じ屋根の下に起居をともにした小林恵吾を訪ねた。その頃小林は横河電機で航空計器の仕事をやっており、これまでも仕事上のことで何度も会っている。その小林に、井深は自分の構想をざっくばらんに打ち明けた。 「世の中では電気であるとか、機械であるとか、その専門を割りきって製品を出しているのが常識だが、われわれはそんなことにとらわれずに、むしろ、積極的に電気と機械の中間を歩むような会社をつくろうじゃないか。資本は日本光音から出してもらうつもりだが、君も一緒にやってみないか」  小林も喜んで参加を約束してくれた。こうして昭和十五年秋に、井深の夢を託した「日本測定器」が設立された。それに要した資金は、日本光音工業の植村社長と、小林の関係で「ライオン歯磨」が出してくれた。首脳陣は、植村が社長、小林が専務、井深は常務という顔ぶれで、総勢五〇名という小ぢんまりした会社であった。このなかには前出の樋口や安田も入っていた。  新会社は東京・五反田駅前のロータリー近くのパン屋の横を入ったところに手頃な物件を見つけ、入居した。つくるものは、機械的振動子を電気回路に組み入れた機器類である。当時、陸海軍の技術研究所にいた井深の友人や知人も、井深たちの仕事にたいへんな関心を寄せ、いろんな機器類の試作研究を依頼してくる。それを井深と小林は巧みにこなし、陸海軍の要望に応えた。  こうした一連の製品のなかで評判のよかったのは、濾波継電器である。これは特定の周波数だけに共振する継電器で、いろいろな周波数に対応するものを組み合わせ、呼び出し装置とか、無線操縦装置が手軽にできた。この装置の発信側に使ったのが、音叉と電気回路を組み合わせたものだった。この音叉と濾波継電器の変形が、次々に新しいものを生んで、会社の基礎となったのである。  そのうち、音叉にカーボンマイクロフォンを組み合わせて、三、四〇〇〇サイクルの発振器が真空管を使わないでできるようになった。これを電源にして音声を変調すると、簡単な有線電話用の秘密通話装置ができた。この装置を電話機につけると、ラインの途中で盗聴されても、盗聴している人には話の内容が全然わからない。従来、この種の装置は真空管を何十本も使わなければできなかった。それが、真空管なしの簡単な装置となったので、満州を拠点とする関東軍などから重宝がられ、結構使われたという。  やがて、太平洋戦争がはじまる。これを契機に陸海軍から電波関連兵器の機器の注文が急増し、手狭な工場では注文を消化しきれなくなった。そこで東京・月島の片倉工業の工場の一部を借り、従業員も当初の一〇倍ぐらいに増やした。  ところが、戦局の進展に伴い、腕のたつ従業員が軍隊に召集され、どんどんもっていかれる。これにはさすがの井深も音をあげた。その急場を救ってくれたのは、学徒動員で駆り出された学生たちであった。とくに上野の音楽学校(現東京芸大)の生徒は音感が鋭いだけに、仕事をすすめるうえで貴重な戦力になった。井深は次のように話している。 「音の周波数に関係のある機器の調整は、周波数測定器でやらなきゃいけないんです。ところが、学生諸君はそんなものを使わないで、自分の耳で合わせてどんどん仕事を片付けてくれる。そのくらいの音感がないと、オーケストラで演奏するなんてことできませんからね……」  学生たちは仕事だけでなく、昼休みや終業後、自分の得意な楽器をもちよって、従業員と一緒に音楽会を開くなど、職場の士気高揚にもおおいに貢献した。  出会い  昭和十八年に入ると、戦局は次第に深刻な様相を呈してきた。とくに日本軍のガダルカナル島全面撤退を契機に、アメリカ軍の攻勢は一段と激しさを増し、至るところで日本軍の劣勢が伝えられるようになった。電波兵器の優劣の差が招いた結果であることが認識されてきた。  これに伴って、日本測定器に対する陸海軍の要求は、必然的に過大になってくる。井深たちはその期待に応える成果を次々に生み出した。昭和十八年一一月、海軍航空技術廠計器部が開発した、航空機搭載用磁気探知機「三式一型」に使われた周波数選択継電器は、その成果の一つである。  これは、前述の濾波継電器に断続器を組み合わせた変形濾波継電器で、潜水艦探知を目的に開発されたものだ。  台湾、比島方面で活躍していた海軍の九〇一航空隊は、昭和十九年四月のアメリカ潜水艦探知を皮切りに、次第に威力を発揮しはじめ、多数の潜水艦を撃沈するなど大きな戦果をおさめた。  一方、これを知った陸軍もこの周波数選択継電器を使った熱線追従爆弾の開発を思いたった。現在の〈熱線ホーミング爆弾〉、あるいは〈熱線空対地ミサイル〉ともいうべき、画期的な新兵器であった。発案者は京大理学部物理教室の某教授で、これに陸軍技術本部、航空本部が目をつけた。そして東大工学部航空学科の守谷富次郎教授、東大航空研究所の糸川英夫助教授(いずれも当時)など斯界の権威を動員、具体化することになった。昭和十八年秋のことである。  井深も電子装置の開発要員の一人として、最初からこのプロジェクトに参画を命じられた。しかしこの仕事は容易でなかった。グライダー方式で滑空する有翼飛行体(爆弾そのもの)の本体は木製で、金属はボルト、ナット類に限られるという制約があったからだ。  基本構想がまとまり、本格的な開発に着手したのは、昭和十九年六月。当初の開発予算は八〇〇万円。いまの物価に換算すると、約八〇〇億円に相当する。各人の役割分担は、守谷教授と糸川助教授が飛行体、井深を中心とする電子関連技術者は心臓部にあたる熱線探知機、陸軍の技術陣が目に相当するボロメータ凹面鏡部分をそれぞれ担当した。その結果、井深らは継電器と熱電堆を組み合わせて、目標の熱源を探知する機器の試作に成功する。また一〇キロメートルぐらいの遠方から航空機や艦船の所在を発見する装置も、ともかくつくりあげた。ところが、有翼飛行体を、探知した熱源に向かわせるための方向コントロールがうまくいかず、開発は難渋をきわめた。  昭和十九年六月のサイパン島失陥で、アメリカ軍の本土侵攻は時間の問題といわれるほど切迫してきた。その前触れともいうべきB29爆撃機集団による本格的な日本本土空襲が、一一月下旬からはじまった。そして二十年一月にはB29大編隊の来襲は七回におよび、東京、名古屋周辺の軍需工場の破壊がはじまった。これを契機に日本側も軍需工場の疎開を計画する。だが、実際は構想だけでとても実行に移せる状態でなかった。  幸い日本測定器は、それを見越して以前から疎開先を物色していた。その結果、長野県須坂町(現須坂市)に、小さな製糸工場を見つけた。長野市の東、一四、五キロメートルほどのリンゴ園の跡地で、およそ七万平方メートル(二万坪)もあった。しかし、ここに工場を疎開させるには莫大な金がいる。そこで井深は神戸一中の先輩で、当時、満州重工業の理事をしていた三保幹太郎に会い、必要な資金を投資の形で出してもらうことに成功する。その出資額は全株式(資本金二五〇万円)の七〇パーセントに及んだという。会社が手がけている事業の将来性と、技術担当の井深の人柄に三保が惚れ込んだためといわれている。  月島工場にいた従業員の大部分は、疎開先の新工場に移っていった。地元の新規採用者を加え、従業員は八〇〇余名と一挙にふくれあがった。この地方は空襲の心配もなく、食糧事情もよかったので、生産意欲も高まった。  おかげで井深は、一日とて席を暖める暇がないほど多忙になった。月島、須坂の両工場の監督だけでなく、関係者との打合わせやテストの立会いもある。さらに陸海軍技術研究所幹部の提唱で、昭和十八年からスタートした軍官民合同の科学技術委員会の委員を委嘱されていた関係で、その会合にも出席しなければならない。しかし、それが井深の終生のパートナーとなる盛田昭夫と出会うきっかけになるのだから、運がよかったの一語につきる。  運命的な出会いの場となる科学技術委員会は、とかく対立しがちであった陸海軍の兵器研究体制を改め、軍官民が一致協力して兵器生産の着想を効率よく具体化しようという目的で発足したものである。井深が関係した研究会はその一部門で、電波、電子技術を使った新兵器の研究をすすめる分科会であった。  アメリカ軍の沖縄進攻作戦がはじまる直前、分科会は東京・丸の内の東京会館で初会合を開いた。出席者は陸軍の関係者、海軍のロケット誘導爆弾「奮竜」の関係者(このなかには、井深の大学時代からの親友であった海軍技研の新川浩技師もいた)をはじめ、斯界の権威や著名な技術者が多数参加していた。当時、海軍技術中尉に任官したばかりの盛田は、空技廠光学兵器部の担当部員として、この分科会にはじめて顔を出したのである。  井深はこの会を通じて知った、若いに似ずハキハキものをいう盛田がすっかり好きになってしまった。盛田も、井深の人柄と技術者としての見識の深さにだんだん惹かれていく。いつの間にか二人は、年齢、立場を越えて、親しく話し合うようになっていった。  終戦の日  その後、この分科会は何度か開かれている。だが空襲の被害が増大するにつれ、会場と食糧の確保がむずかしくなり、地方のひなびた場所を見つけて開くという有様だった。しかも、研究会の場で耳にする話は、いずれも暗いものばかり。井深も終戦が近いことを肌で感ずるようになっていた。  公務を利用して須坂の工場を訪ねた盛田も、井深と語り合ったことがある。「どんなにあがいても、この戦争には勝てない」と二人は結論を下した。科学技術の真髄を熟知しているものの実感であった。  井深がそれを身をもって体験したのは、昭和二十年七月のことである。その頃井深は青森に出張していた。試作した熱線探知機のテストのためだった。当時、日本近海の海上交通は、アメリカ軍機による相次ぐ空襲と、巧妙な機雷投下作戦で、ほとんど麻痺状態となり、熱線探知機の実験可能な港湾は青函連絡船の発着港である青森ぐらいしかなかった。  七月一四日未明、北海道東方沖に出現したアメリカ機動部隊は、早朝から艦載機を発進させ、三沢、青森、函館、室蘭などの軍事施設や工場、港湾施設に襲いかかり、激しい銃撃を加えてきた。その模様を井深は次のように述懐している。 「そのとき私は、青函連絡船を熱線でどこまで追いかけられるかという実験を、桟橋でやっていたんです。そうしたら、突然、艦載機の襲撃にあい、機銃掃射を受けました。バリバリと激しい音をたてて迫ってくる敵機を見たら誰もが震え上がりますよ。その機影が遠のくのはほんの一〇分か二〇分ぐらいだったと思いますが、その間の時間がものすごくかかったような感じでしたね」  太平洋戦争中、井深がこんな恐ろしい思いをしたのは、あとにも先にもこれだけである。やがて空襲も終わり、広場に掘られたタコつぼから這い出した井深は、思わず息をのんだ。目の前で七、八隻の連絡船が黒煙を上げてズブズブ沈みかけていたからであった。めったに弱音を吐かない井深が「くやしいが、これで何もかもおしまいだ……」と、感じたのはこのときであった。  井深が、終戦は時間の問題と知ったのは、須坂に帰ってからである。その頃軽井沢に住んでいた義父の前田多門が、近衛文麿公爵と終戦処理をめぐって密かに話し合っている事実を、それとなく聞かされていたし、自身もご法度の短波受信機を通じて、連合軍の動静をある程度つかんでいたからだ。  山梨県の身延山の近くで定例の研究分科会が開かれたのはその直後のことだ。その席で井深と盛田はポツダム宣言発表の話を聞かされ、身の引き締まる思いに駆られた。 「いよいよくるべきものがきた」と、思ったのである。  会が終わると、二人は東海道線の富士駅で別れた。そのとき「もしお互いに生きて平和を迎えられたら、手を携えて何か新しい事業をやってみたいものだ」と、話し合った。しかし、それはあくまでも井深の夢であって、簡単に実現するとは思っていなかった。勝手気ままに動ける井深と違って、盛田は愛知県の旧家の御曹司と聞いている。とすれば、身の振り方を決めるにしても、いろいろ制約や障害が出て、身軽に動けないだろう。そんな予感を井深はもっていたようである。  運命の八月一五日を迎える。この日、井深は、終戦を告げる天皇の放送を樋口や安田たちとともに須坂工場の研究室で聞いた。すでに予期していたこととはいえ、現実に敗戦となると、さすがの井深も深刻に受け止めざるを得なかった。  そのあと、会社の戦後処理を決める役員会が開かれた。そこで井深は一日も早く東京に戻ることを望んだ。固有の技術をもっていれば、どんな世の中になっても食べていけると信じていたからだ。これは戦争が終わる前から考えていたことである。これに対し専務の小林は「そんなにあわてて東京に出ることはないんじゃないか。ここにいれば当面の生活だけはなんとかなる。もう少し世の中が落ち着いてから東京に出るほうが得策」と、慎重論を唱えた。こうして首脳陣の意見は二つに割れた。だが井深は、自分の方針を変えるつもりはなかった。  井深の考え方に同調する社員もいた。太刀川正三郎、樋口晃、安田順一、河野仁、中津留要、山内宣、黒髪定などであった。仕事をする仲間ができた。それを見届けた井深は、自分の遠縁にあたる太刀川を、下見のために上京させることにした。終戦の翌日のことである。  井深が太刀川を上京させたもう一つの目的は、工場疎開のとき資金援助をしてくれた、満州重工業理事の三保幹太郎(当時は満州投資証券社長)を訪ねることだった。日本測定器の大株主である三保に、これまでの経過報告と、独立後の支援を取りつけるための布石であった。この辺の気配りは井深ならではの深慮遠謀といえる。井深は優れた技術者から、いつの間にか経営者の才覚を身につけていたのである。 3章  東京通信研究所  終戦の翌日、東京在住の三保幹太郎に会うため上京した太刀川が、数日後、長野に戻った。その報告を聞いた井深は、自分の目で東京の実情を見る必要を感じた。混乱をきわめていた交通事情のなかで手をつくして東京行の切符を手に入れた井深は、さっそく、単身上京した。もちろん、最初の訪問先は満州投資証券であった。三保の助言を仰ぐためであった。  そこでたまたま同社専務の小倉源治に会った。小倉から「これからどうする」と聞かれた井深は「とにかく東京に出て、何かやるつもりだ」と答えた。小倉は「それなら金がいるだろう」と、一万円あまりの金を出してくれた。いまの一〇〇万円に当たろう。そのうえ「事務所が必要なら、白木屋を使え」と、三階の空部屋(配電盤室)を借りられるよう、便宜をはかってくれた。当時、日本橋白木屋も、日産コンツェルン(鮎川財閥、昭和二十一年解体)の管理下にあり、小倉の一存で自由になったのである。  こうして東京進出拠点が決まった。その帰り、日本橋の大通りを通過する完全武装のアメリカ自動車隊、数十の行列にぶつかった。それを人垣越しに眺め、感慨にひたっていた井深は「日本は科学技術が劣っていたために戦さに敗れたのだから、これからは科学技術で国を建て直すしかない」と、痛感した。同時に一日も早く須坂を引き払い、上京すべきだと腹を決めた。  井深と行動をともにすると誓った部下も同じ意見だった。しかし、仕事の引継ぎがあるため、八名全員が揃って上京するわけにはいかない。そこで二班に分かれ、須坂を離れることになった。井深を中心とした先発隊が東京に向かったのは、昭和二十年九月初旬のことであった。  当時の日本橋白木屋は文字通りの焼けビルで、地下室が真空管工場、一、二階に古着屋などが雑居していた。久米正雄、川端康成、高見順など鎌倉在住の文士がつくった「鎌倉文庫」も、ここ白木屋の一室を発祥の地とした。三階以上は廃墟さながらで、入居者も少なかった、その三階の一隅に落ち着いた井深たちは、入口に「東京通信研究所」という小さな看板を掲げた。そして日本測定器から餞別代わりにもらった簡単な測定器、ボール盤と、わずかばかりの材料、部品を並べ、ともかく事務所兼工場を開くことができた。開所のための費用や最初の月給は井深が貯金をはたいて捻出した。こうして念願の東京進出を果たしたとはいえ、実際はこれから何をしてよいのか、誰にもわかっていなかったというのが実情であった。  そこで全員で何度も話し合った。ブローカーをやろうとか、ヤミ料理屋、ベビーゴルフ場をつくっては……という意見も出た。だが井深はそんな仕事に手を出す気は毛頭なかった。やはり、儲けは少なくとも、自分たちが手がけてきた技術が活かせる仕事をすべきだと主張した。その結果浮かんだ案が、短波受信機をつくることだった。  戦時中、一般国民は、海外から短波で送られてくる放送を連合国側の謀略宣伝として、みだりに受信することは厳禁されており、もし短波受信機をもっていることがわかればスパイ視され、憲兵に連行されても仕方ない情況だった。そんなきびしい制約のもとでも、こっそり盗聴し、連合国側の動きを知っていた人はかなりいた。井深もその一人であったことは前章で触れた。敗戦で短波受信も自動的に解禁された。そこで世界のニュースを聴きたい人が増えるのではという着想で、井深は短波受信機をつくる気になったのである。  ところが、これが容易でないことがすぐわかった。真空管や関連部品の入手がむずかしかったからだ。そこで、普通の受信機に接続できる短波受信用のコンバーターをこしらえた。材料はありあわせのものを使っただけに、満足できるシロモノではなかったが、それでもポツポツ買ってくれる人が出てきた。  その直後、井深は街頭で思いがけない人に出会った。義父の前田多門を通じて面識のある朝日新聞の嘉治隆一記者である。嘉治は東北大の渡辺寧教授と一高時代の同級生で、東大では嘉治が独法、渡辺が工学部電気工学科と、進路は分れたが、クリスチャンであった妹のひさが渡辺と恋仲になるほど親交があった。のちに東北大助教授になった渡辺は、大正十二年八月、ひさと結婚した。  その嘉治は東大在学中から長谷川如是閑に師事し、評論を書くほどの論客であった。東大卒業後は東京にあった満鉄東亜経済調査局に入ったが、昭和九年に朝日新聞に転じ、もっぱら政治畑で健筆をふるっていた。  戦争末期には、渡辺を介して知り合った海軍技術研究所の伊藤庸二技術大佐にはたらきかけ、駒場の一高生を目黒の海軍技研や静岡県島田の技研分室に勤労学生として大量に送り込み、明日の日本を背負う貴重な人材の温存に一役かうなど、多彩な活動をしている。井深が偶然出会った頃、嘉治は論説主幹として連載コラム〈青鉛筆〉の執筆を担当していた。  井深の近況を聞いた嘉治は「それはおもしろい。うちの記事で紹介してあげよう」と、約束してくれた。そして一〇月六日の朝刊(当時は紙不足で朝刊のみ)に「家庭に現在あるラジオにちょっと手を加えれば、短波放送がすぐ受信できるという耳よりな話」という書出しの記事を書いてくれた。これが評判になって、記事が出たその日から事務所に客が押しかけ、行列ができたほどであった。こうして発足間もない東京通信研究所もやっと仕事の緒口を見つけることができたのである。  この記事の恩恵はほかにもあった。お互いに気にしながら、終戦のどさくさで消息のわからないままになっていた盛田から手紙がきたことである。盛田も愛知県知多郡小鈴谷の実家でこの記事を読み、懐かしさのあまり、手紙を書く気になったのだ。井深も折返し上京を促す返事を書いた。井深、盛田の交際がふたたびはじまり、「東京通信工業」設立の機運が盛り上がってくるのである。  昏冥のとき  盛田と再会を果たし、前途に明るさを見出したとはいえ、はじめた事業は相変わらず一喜一憂を繰り返していた。短波受信用の真空管が思うように手に入らないのだ。みんなで手分けして新橋、銀座、上野、浅草などのブラックマーケット(闇市)を駆けずり回り、旧軍の放出品や進駐軍の払下げ品を見つけてくるという有様だった。 「これでは月給を稼ぐのも容易じゃない」  と、井深は思った。そこで短波受信コンバーターのほかに儲かる商品をつくるのが急務になった。そこで電気炊飯器に目をつけた。  その時分、小麦粉を練ってパンに焼くお粗末なパン焼き器が、ブラックマーケットに出回っていた。木箱の内側に電極となるブリキ板を張りつけ、練った小麦粉を入れ電気を通すという仕組みになっていた。井深は、パンが焼けるなら、米だって炊けるはずだ、と思ったのだ。  さっそく、千葉まで人をやり、おひつを一〇〇個ほど買って来て試作にとりかかった。おひつの底にブリキの電極を張り、といだ米を入れ、電流を流し、ご飯を炊くという商品だった。ところが確かにご飯は炊けるが、水加減や米の質によってシンがあったり、お粥のようになったりで、うまく炊けることはめったにない。これには当時の不安定な電力事情にも一因があったが、さすがの井深もサジを投げてしまった。  しかし、社員や来客はこの炊き出しを結構楽しみにしていたようだ。とくに住む家が見つからず、工場の一隅にふとんを持ち込み寝泊りしていた社員たちにとっては、大きな恩恵であった。当時、上京するたびに白木屋の事務所に顔を出していた東北大の永井も、こんな話をしている。 「あの頃、東京へ出てもメシを食うところがない。そこで井深君のところへ寄っては、メシをご馳走になったものです。よく炊出しをやっていたのでね。ただ、あの事務所は狭いうえに雑然としていた。あれには閉口した。でも働いている人たちはみんな気持ちのいい人ばかり。それだけに活気はあるし、雰囲気もとてもよかった」  ヤミ米の買出しを一手に引き受けていたのが、井深の遠縁にあたる太刀川正三郎である。太刀川は函館の海産物問屋の息子だったが、大学を卒業すると井深のいた日測に入り、総務の仕事をしていた。その経験をかわれ、東通研では総務、経理、人事全般を受け持つことになった。その最初の仕事がヤミ米の買出しだったわけだ。  もちろん、東通研が手がけた仕事はそれだけではない。この時分、井深の教え子であった安田順一が、日測時代から研究していた真空管電圧計の製品化に成功、昭和二十一年二月には逓信省(郵政省)から一〇〇台ほど受注することができた。これを契機に他の官庁や民間会社からも注文が入るようになり、事業は曲がりなりにも軌道に乗るようになっていた。 「いつまでも個人企業では、具合が悪い」  井深がそんなことを真剣に考え出したのは、この前後のことである。発端は昭和二十一年二月一七日に幣原内閣が断行したインフレ対策の強権発動である。これは金融緊急措置令と日本銀行預金令の二つからなっていた。その一つは「昭和二十一年二月一七日現在、金融機関にある個人、法人すべての預金、貯金、金銭信託その他を封鎖する」という、いわゆる『預貯金封鎖』と、第二は「現に流通する紙幣を、三月六日までに廃止し、三月七日から新たな紙幣を発行する」という『新円切換え』であった。  これをいきなり実施すると混乱を招く恐れがある。そこで第三の措置として、次のような条項がついていた。 (1)一世帯について、生活資金として、世帯主三〇〇円、家族一人一〇〇円に限り、封鎖預金のなかから、現金(新円)を引き出すことができる。 (2)給与、賞与その他は五〇〇円まで、現金(新円)で支払うことができるが、五〇〇円を超えるときは、超過分は封鎖預金の形で支払われなければならない。 (3)結婚、または葬祭のために一〇〇〇円以内、世帯を異にする学生の教育のために五〇〇円以内は封鎖預金から、現金(新円)を引き出すことができる。 (4)事業者に対しては、業務遂行に必要な通信費、交通費などは、金融機関から、現金(新円)の引出しが認められる。  つまり、どんな高額所得者も、新円の現金でもらえるサラリーは、月五〇〇円まで。それ以上は、いやおうなしに預金として封鎖されてしまうということになったのである。  発足間もない個人企業にとって、たいへん辛いことであった。井深の貯えも底をついてきたし、事業運営の資金繰りもむずかしくなるからだ。そこである日、井深は、東工大の講師をしながら無報酬で研究所の仕事を手伝っている盛田に、会社設立の相談をもちかけてみた。以前から、もし一緒に仕事をするなら井深以外にいない、と考えていた盛田も、新会社設立には双手を上げて賛成した。すでに盛田自身もそのつもりで、大学をやめる下工作をはじめていた。  そのきっかけは、昭和二十年一〇月末、GHQ(連合軍最高司令部)が発表した旧職業軍人の教職就任厳禁の通達である。これが実施されれば、当然、盛田も教職を去らなければならない。盛田はそれを見越して、主任教授に辞任の意向を伝えてあった。  ところが、主任教授は、文部省から正式通達がきていないことを理由に、辞表を受け取ってくれない。井深から新会社設立の相談を受けたのは、その直後だった。これで盛田も腹を決めた。そしてこんどは主任教授だけでなく学長にまで、辞任を許可してくれるよう積極的に働きかけた。そのねばりが功を奏し、辞表を受理されたのは昭和二十一年三月のことであった(文部省が盛田に対し教職追放の通達を正式に出したのは、それから半年後で、その間、大学当局は盛田に規定通りの給与を支給していた)。  大きな夢をもった小さな会社  井深は、盛田と手を携えて仕事をはじめることに対して、盛田自身の承諾は得たが、もう一つ片付けておかなければならないやっかいな問題があった。盛田の父の了解を取ることであった。  周知のように盛田は、愛知県で三〇〇年の伝統をもつ造り酒屋の御曹子。当然、家業を継がなければならない立場にある。その盛田を、本人の希望もあるとはいえ、もらい受けることはたいへんな難問だった。井深は義父の前田に同行してもらい、盛田の厳父・久左ヱ門に頼みにゆくことにした。二十一年四月はじめのことである。  盛田の厳父は、井深たちを丁重に迎えた。初対面の来客の緊張感を少しでも解きほぐそうとする暖かい心遣いが、随所に見られた。井深と前田は久左ヱ門に、新会社に賭ける同志の夢を率直に話し、新しい事業のために盛田が絶対欠かせない人であることを強調した。しばらく考えていた久左ヱ門は「本当は、昭夫が後継ぎとして家長となり、家業を続けてくれることをずっと望んでいた」と本心をハッキリ述べた。そのうえで井深と前田に向かってこういった。 「しかし、息子がやりたいというなら、それもよいだろう。まあ、シッカリやりなさい。あなたも食えなくなったら、いつでも小鈴谷にやって来なさい」  意外な返事に、井深も同席していた盛田も驚いた。こんなに簡単に許してもらえると思っていなかったからである。これは、当時、早大に在学中だった盛田の次弟・和昭が「兄貴がそういう希望であるならば、自分が家のことをやります」と、陰で支援してくれたことも大きな力となっていたようだ。  昭和二十一年五月、井深たちが夢を託した、資本全一九万五〇〇〇円、従業員二〇名そこそこの株式会社「東京通信工業」が誕生した。社長には、パージで文相の職を離れた前田多門、井深が専務、盛田が取締役、そのほか前田の学生時代からの親友で、戦時中金融統制会理事を務め、財界にも顔の利いた田島道治(のち宮内庁長官)、その友人で、当時帝国銀行(さくら銀行)の会長をしていた万代順四郎、PCL時代、井深が物心両面で世話になった増谷麟、盛田久左ヱ門などが、相談役や非常勤役員として名を連ねていた。  五月七日、新会社の創立式が行なわれた。当時、復興した白木屋も取扱い商品が増えたため売り場を拡張中で、井深たちの事務所兼工場も七階に移っており、その部屋も明け渡しを迫られていた。そんな切迫したなかで、井深は会社設立趣意書をはじめて披露した。  冒頭に『会社設立の目的』が次のように明記されている。 「技術者達ニ、技術スル事ニ深ク喜ビヲ感ジ、ソノ社会的使命ヲ自覚シテ、思ヒキリ働ケル安定シタ職場ヲコシラヘル」。さらに『基本的経営理念』として「不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ拡大ヲ追ハズ」と謳い、また『すすむべき進路』については「大キナ会社ト同ジコトヲヤツタノデハ、ワレワレハカナハナイ。シカシ、技術ノ隙間ハイクラデモアル。ワレワレハ大会社ノデキナイコトヲヤリ、技術ノ力デ祖国復興ニ役立テヤウ」と、高らかに宣言した。  大きな夢をもった小さな会社が、希望に燃えて船出したのである。前途は多難だった。インフレの再燃、物資不足、一向に好転しない資金繰り、工場の移転問題と、難問が山積している。これをどう克服するかが、井深、盛田の当面の課題であった。  やがて白木屋の本格的な改修工事がはじまった。昭和二十一年八月のことである。いよいよ白木屋を立ち退かなければならない。幸い工場のほうは、PCL時代から井深が世話になっていた横河電機の技師長の多田潔の世話で、吉祥寺にあった横河の下請け工場を借りることができた。それだけでは手狭すぎるので、もう一ヵ所、三鷹台のガレージを改造したボロ工場を借り、従業員を二つのグループに分けて移転することにした。  その直前、盛田の紹介で東通工の社員になったのが塚本哲男(現湘北短大)である。塚本は盛田と大学時代からの仲間で、海軍では技術中尉として、同じ釜のメシを食った。その塚本がこんな話をする。 「私は一〇月に入ったんですが、そのときはまだ白木屋だった。ところが、すぐ追い出されて、三鷹台に行ってくれといわれた。そこは車庫を改造した工場で、雨が降ると消防自動車をなかに入れなければいけない。いま考えると、よくあんなところで仕事ができたものだと思いますね。でもそこもすぐ出なければならなくなるんです」  その辺の事情にはあとで触れるとして、ともかく工場はなんとか移転できたが、営業拠点になる事務所の引越先が決まらない。井深も盛田も手蔓を求めて必死に探し回ったが、適当な物件が見つからないのである。  白木屋の改造工事はどんどん進展し、井深たちの事務所が取り壊されるのも、時間の問題となった。「それほど困っているなら、うちのビルを使いなさい」と、助け舟を出してくれた人がいた。盛田の妹・菊子と結婚式をあげたばかりの岩間和夫(のち社長、東大理学部物理科)の叔父・油田尚郎である。提供してくれたビルの所在地は、銀座の一等地(現三井アーバンホテルの近く)ということも井深たちを喜ばせた。またとない適地に事務所をもてたからだ。  岩間和夫は、出身校は違うが、盛田とは幼馴染み。戦時中は横須賀海軍工廠航海実験部出仕の技術大尉として、もっぱらラジオゾンデの研究に携わっていた。戦後は浅間山の東大地震観測所に職を得たが、盛田の妹と結婚後の六月初旬、盛田のたっての希望で開発部長として東通工入りした。  浮上のきざし  東通工は、小さいながらも有能な人材を入れ、着々体制を固めていったが、肝心の事業のほうは苦難の連続だった。仕事はあるのだが、部品材料の入手難と運転資金の不足で需要に応えられないというのが実情であった。  井深や盛田たちが「新円がほしい」と、切実に思ったのはこの頃である。そのためには右から左に売れる商品をつくらねばと、井深たちはいろいろ考えた。その一つのアイデア商品が電熱マット(電気座布団)であった。これは細いニクロム線を二枚の美濃紙の間に入れて糊付けし、これを布で包むように覆う。カバーにする布は、繊維製品が統制で手に入らないため、神田の問屋街で、本の表紙などに使われていたレザークロスを大量に買い込み、社員の家族を動員して、ミシンかけやらコードをかがる下請け仕事をやってもらった。  しかし、現在のように豊富な原材料もなくサーモスタットさえも手に入れにくい時代だけに、製品には自信がもてなかった。そこで東通工の名を出さず「銀座ネッスル(熱する)商会」という社名をつけて売り出した。  ところが、皮肉なことにこれが思いのほか売れたのである。ちょうど冬場に向かう時期だったこと、燃料不足でどこの家も暖房対策に頭を悩ましていたなど、売れる条件が揃っていたのだ。だが井深たちは内心では薄氷を踏む思いをしていた。 「ご承知のようにあの頃は電圧がひどく不安定で、夕方には六〇ボルトぐらいに下がるかと思うと夜半になると急に一〇〇ボルト以上にはね上がり、なかのニクロム線が真っ赤になって、危なくてしょうがないんです。現にお客さんから〈毛布がこげた〉なんていう苦情がずいぶんきた。その後、昭和二十四年に国宝であった法隆寺の壁画が焼けるという事件があった。その原因が電気座布団の過熱と発表されたので、たいへん心配したが、あとで調べたらうちの製品じゃなかった。それでホッと胸をなでおろしたこともありました」  電熱マットと同じ頃つくっていた電蓄用のピックアップも結構商売になった。アメリカ軍の進駐以来、巷にジャズ愛好家が増え、死蔵されていた古い電蓄を引っ張り出し、レコードを聞きたいという人が増えたためである。売り出したピックアップの材料は、焼跡から拾ってきた鉄の棒を手先の器用な中津留がきれいに磨き上げて使い、心臓部のヘッドは勘をはたらかせ、つくりあげたというもの。  これを日測以来の生え抜き社員・正東喜義が神田や秋葉原のジャンク街に売り歩いた。最初はなかなか売れなかったが、そのうち音がよいと評判がたち、のちには〈クリアボイス〉と名付けて量産するほどになった。これが縁で電蓄用のフォノモーターをつくってくれと頼まれるようになった。手づくりのピックアップと違い、きちんと設計して、型おこしからやらなければならない。東通工にとっては最初の本格的な仕事になった。  これは井深の方針でもあった。当時、日本の弱電メーカーは新型ラジオをつくるのに手いっぱいで、電蓄の部品づくりなどには目をくれようとしなかった。そんなものをつくっても、安く買いたたかれるだけで、商売にならないと思ったのだ。ところが、井深はあえて時流に逆らった。ここで他社と同じようにラジオに手を出せば、いずれは資本力のあるメーカーに食われるに決まっている。それより誰もやらない分野で地道に努力すれば、必ず道が拓けるという考え方をもっていたからだ。井深の狙いは間違っていなかった。ピックアップやフォノモーターづくりは創成期の東通工を支える大事な収入源になっていた。  東通工に新しい仕事が舞い込んだ。戦時中、陸軍が使っていた無線機を放送用中継受信機に改造してほしいというNHKからの依頼である。  その頃日本の通信施設は戦災で壊滅状態となり、国民経済はもとより、連合軍の占領政策にも大きな支障をきたすほど混乱をきわめていた。戦前、一〇〇万台あった電話は戦災で五〇万台に減り、その五〇万台も雨が降ると聞こえなくなるという惨憺たる状態であった。  一方、情報伝達のメッカであるNHKの各地の放送施設も、大なり小なりの被害を受けていた。これらの施設を修理回復し、各地に無線中継の受信所をつくり、放送の全国ネットを確立することは、日本の民主化を急ぐ占領軍の至上命令でもあった。この仕事をまかされたのが、大学時代の井深の親友で、NHKの技術局員であった島茂雄である。  甲府韮崎山の中腹にあった大きな防空壕のなかに、未使用の陸軍の通信機材が放置されたままになっていた。そのなかに〈チ二号〉という短波、中波用の対空無線受信機が大量に発見された。これを知ったNHKはこの〈チ二号〉を払い下げてもらい、放送用に改造して使用することを思いたった。ところが、改造を引き受けてくれるメーカーがない。  当時、大手の通信機メーカーは逓信省の最重点課題である電話事業復興に駆り出され、とてもそこまで手が回らないと、相手にしてくれなかった。もっとも、それは表向きの理由で、実際は手間がかかる割に納入価格が安すぎ、敬遠されたというのが真相らしい。困り果てた島は、いろいろ考えた末、旧友の井深にこの仕事をやらせてみようと考えた。これがのちに東通工浮上のきっかけになろうとは、島も、井深も知る由もなかった。  品川・御殿山  NHKの受信機改造の仕事が軌道に乗り出してきた頃、東通工にまた面倒な問題が持ち上がった。消防自動車と同居している三鷹台の車庫改造工場の持ち主から、立退きを要求されたことである。その理由は、持ち主が自分で使いたいということだったが、実際は電力事情の悪化によるものだった。  商工省(通産省)の調査によると、終戦直後、一日平均の発電量は三〇九〇万キロワット/時だったものが、一年後の昭和二十一年八月には倍以上の七八〇〇万キロワット/時に回復していた。この数字は昭和年代に入ってから最高であった昭和十九年の八九パーセントに相当していた。一方、電力の消費量は昭和二十年一〇月には九億二七〇〇万キロワット/時だったものが、二十一年六月には二倍近くの一七億七七〇〇万キロワット/時と飛躍的に膨脹をとげていた。しかも、この年、夏場にかけての渇水が水力発電の能力を、また、石炭不足が火力発電の能力を、いちじるしく低下させた。  そこで政府は、二十一年一一月に入って電力の使用制限を実施したが効き目がなく、一七日にはさらに大幅な使用制限を行なわざるを得なくなった。このため街からネオン灯が消え、家庭では電熱器が思うように使えなくなった。一二月に入ると電力事情はさらに悪化し、二二日からは午前七時から午後七時まで、停電を余儀なくされるという最悪の事態を招いてしまった。こうなると、昼間はラジオも聞けない。停電が解除される七時以降も、だしぬけに停電することもしばしばあった。ローソクが家庭の必需品になり、工場や映画館に〈休電日〉という名目の休日が設けられたのも、この頃である。  そんな状態なのに、東通工の社員は、昼夜をわかたず働きづめに働く。家主である車庫の持ち主はそのとばっちりで、自分の家の電気が止められはしないかと不安になった。それが工場立退き要求につながったのであった。  井深と盛田は、年の瀬の寒空の街に飛び出し、貸家を探しはじめた。創業時、ムリをして買った中古のダットサンも度重なる故障に音をあげ手放している。そのため貸家探しも、足を棒にして歩き回らなければならなかった。やっと見つけたのが品川御殿山にあった日本気化器の倉庫兼工場(現本社工場三号館)である。だが工場といってもひどいバラックで床はガタガタ、雨が降ると部屋のなかで傘をささなければならないというお粗末な木造建屋だった。  建物はお粗末でも、ここなら全員が揃って仕事することができる。そう思った井深と盛田は、そこを借りることにした。昭和二十二年一月のことであった。  引越しには金がかかる。すでに創業時の資本金は使ってしまい、二十一年一〇月に、井深にとって親代わりの存在である野村胡堂、盛田家などの出資を仰ぎ、資本金を六〇万円に増資したばかりであった。にもかかわらず、相次ぐ転居で資金は底をつき、社員の給与支給にも影響をおよぼしかねないほど逼迫していた。  そこで井深は、盛田を伴って高井戸に住んでいた野村胡堂をふたたび訪ねた。当時野村は「銭形平次」が売れている最中で、余裕ある生活を送っていた。その野村に五万円ほど融資してもらい、急場をしのごうと思ったのである。ところが、いざその場になると、金のことがいいだせない。やっとのことで井深の口から出たのは「三万円ほど拝借したいのですが……」という言葉だった。これには盛田があわてた。そして「すみません。もう一万円お願いしたいのです」と、付け加えた。  二人のやりとりを見ていた野村は、一瞬妙な顔をした。だがすぐ「いいでしょう」と、快く金を貸してくれた。不足分は、盛田の実家から融通してもらえることになり、なんとかピンチを乗り越えることができた。  急場は逃れたものの、井深の理想である世の中のためになる新しい技術を開発し、商売をしていこうという仕事にはなかなか恵まれなかった。そんな矢先、NHKの島からふたたび思いがけない仕事を頼まれた。スタジオで使う音声調整卓をつくってくれというのだ。これは放送会館(旧NHK)を接収した占領軍からの要求であった。  その頃東京・内幸町の放送会館はGHQの管理下におかれ、これはと思う部屋はCIE(民間情報教育局)と、CCD(民間検閲局)が、ほとんど取ってしまった。新聞界に睨みを利かしたCIEのインボデン少佐は一階、急進派のロス大尉を長とするラジオ課は四階、CCDは六階の一部といった具合である。そして放送局の組織運営から、人事問題、番組編成、検閲に至るまで、すべてに監視の目を光らせていた。NHKの職員が「戦時中のほうがまだまし」と嘆いた〈言論不自由時代〉はそれからはじまった。  当時の放送種目は報道、娯楽番組が中心で、日本の伝統芸術である歌舞伎の中継やマゲもの、講談、浪花節のたぐいは、事前に英訳の台本を提出し、許可を得なければ放送できなかった。  しかし、一方ではアメリカの放送システムや先進技術がどんどん現場に入り、放送技術の向上に貢献した。その推進役となったのが、ロスアンゼルスに本部をおくAFRS(米軍向け放送局)である。最初、AFRSは横浜に日本本部を設け、東京(WVUC)の三ヵ所から進駐軍向けの放送を開始した。東京のWVTRは、内幸町の放送会館の第一および第一五スタジオを占有し、またPTS(プログラム・トランスミッション・シーバース)が、第九、第一〇スタジオを使い、日本在住のレポーターがアメリカの放送網に向けて取材レポートや声の便りを送っていた。  アメリカ軍の放送は、ディスクジョッキーをおいたショー形式の番組が中心である。したがってミキサー系統の整備や放送機器の高レベル化、スタジオの改造が必要であった。最初、AFRSもアメリカから必要な機器を持ち込み、自分でやるつもりだったが、それでは費用がかかりすぎる。そこでNHKの手で改修するようにと指示してきたのである。  交流バイアス  島を中心としたNHK改良課のスタッフは、さっそく、スタジオの設計に着手した。しかし、問題はその仕事をどこにやらせるかであった。これまでNHKの仕事を手がけてきたのは東芝、日本電気、沖電気といった大手メーカーに限られていた。ところが、その大手は二十一年後半から激しさを増した労働争議で、どこの会社もその対応に追われ仕事どころの騒ぎでなかった。そこで島は〈チ二号〉の改良を引き受けてもらった井深にまかせる気になったのである。  NHKのスタジオ改修工事は、PTSが使っていた第九スタジオからはじまった。ちょうど、片山哲を首班とする社会党内閣が発足した直後の二十二年六月下旬であった。  井深たちはNHKから運び込まれた放送機器の改修に総力をあげて取り組んだ。二ヵ月足らずですべての仕事を完了することが絶対の条件だったからだ。当時、東通工の従業員は七〇名近くに増えていたが、工場は移転時そのままの掘っ立て小屋、発注者のCCS(民間通信局)のボス、ホワイトハウス准将が工場を視察に来て、そのボロさ加減に眉をひそめたのも当然だった。おかげで島は「なぜ、あんな汚い工場に仕事をまかせたのか」と、ひどく叱られたそうだ。  島は、ホワイトハウス准将をなんとかなだめて、ともかく期日通りにスタジオの改修工事をすませた。結果は上々であった。それも「ヨーロッパの水準に劣らないできばえ」と、激賞されたほど。この実績がものをいい、第六スタジオの改修もまかされることになった。以来、東京の第一スタジオ、大阪のWVTQ、東京のWVTRの改修工事を一手に請け負うことになった。  こうして会社の基礎が固まってくると、井深もだんだん欲が出てきた。官庁とかNHKの仕事のように、仕様通りにものをつくるだけでなく、素材から品質まで自分の思いのまま管理できる、大衆向けの商品をつくってみたいと思うようになった。これは東通工創業以来の井深の夢であった。  この井深の考え方に盛田も同調した。問題は何をつくるかである。それを決めるため、二人が何度も話し合った結果、手はじめにワイヤーレコーダーづくりに挑戦しようということに決まった。ワイヤーレコーダーは、一九三〇年代初期、ドイツのテレフンケン社が開発したのが最初だが、ほぼ同じ時期、井深と親交のあった東北大の永井健三教授も、安立電気と共同で似たものを完成させている。それだけに、永井の協力が得られれば商品化も夢でない、と井深は考えたのである。  この開発を担当したのは、昭和二十二年四月、早稲田大学専門部工科を出て東通工に入ったばかりの木原信敏(のち専務、木原研究所社長)であった。木原は以前から井深と顔見知りだった。井深が、戦後の一時期、専門部の講師をしていた関係で、その人となりをある程度知っていた。井深が学内の掲示板に「人を求む。東京通信工業、井深大」という求人広告を出したとき、木原がそれを見て応募する気になったのである。 「私はもともと機械科の学生だったが、無線にも人一倍関心をもち、戦後、みんながほしがった電蓄や五球スーパーラジオ、短波受信機をつくった経験もある。それで東通工がどんな会社か知っていたんです。それで興味をもち、会社に入れてもらったわけです。だが井深さんがその会社の社長だったことは知らなかった。もっとも、最初は腰掛け程度にしか考えていなかった。それがいつの間にか東通工から離れられなくなったのだから、不思議な縁ですね」  と、木原は述懐する。仕事がおもしろかったことと、井深、盛田を中心とする技術者集団の織りなす独特の雰囲気に魅せられたからであった。  しかし、残念なことに木原の挑戦は実を結ばなかった。機械本体は、井深の旧知である日本電気の多田正信(のちソニー常務)が提供してくれた旧陸軍の「鋼線式磁気録音機」。盛田がアメリカの友人に無理をいって譲り受けたワイヤーレコーダー(ウェブスター製)のキットなどを参考に、独自のものをつくりあげたが、肝心の、録音特性のよいワイヤーをつくってくれるメーカーが、どこにもなかったからである。  井深がNHKでテープレコーダ(ウイルコック・ゲイ社製)を見せられたのは、その直後の昭和二十二年秋頃であった。CIEのヘイムズという将校の部屋にあったものを偶然見つけ、試聴させてもらった。それが井深の脳裏に焼きついた。そして、いつしか「われわれのつくるものは、これしかない」と、思うようになった。  もちろん、この意向は盛田にも打ち明けた。盛田も現物を見てすっかりその気になった。テープレコーダを実用化するには、東北大の永井教授が発明した交流バイアス録音法を使ったほうが有利なこと、さらにその特許実施権は、永井教授と共同研究した安立電気が保有していることなどがわかった。  そこで井深は、安立電気にはたらきかけ特許権の買収交渉をはじめることにした。幸い、当時の安立電気の磯英治社長は、井深が神戸一中に通っていた頃のハム仲間であったので、話もしやすかった。ところが、最終的に磯が提示した条件は五〇万円、それ以上はまけられないというのである。  その背景には安立電気の特殊事情がからんでいた。周知のように、安立電気は通信機器メーカーとして著名な存在であった。昭和十三年、永井教授が取得した交流バイアス法の日本特許は、弟子の五十嵐梯二(のち安立電気)と、安立電気の石川誠の三者共同研究の成果であり、その年にはいまのテープレコーダの原型である磁気録音機を完成させていた。そんな実績をもった安立電気であったが、戦後は民需転換への立ち遅れ、労働争議の続発などで経営危機に見舞われ、昭和二十四年には従業員の全員解雇、工場閉鎖という最悪の事態を招いてしまった。それだけに少しでも多くの金がほしかったのだ。  しかし、買い手である井深にとっても五〇万円は高すぎた。ひと頃と比べ業績がよくなっているとはいえ、東通工の現状ではそれだけの金を動かす余裕がなかった。結局、その日は「少し考える時間がほしい」と、引き下がるしか手がなかった。その直後、たまたま会った日電の多田正信に話すと多田は「うちもいずれ磁気録音をやりたいと思っているので、その権利を日電が半分持ちましょう」と、助け舟を出してくれた。こうして東通工は二五万円の出費で、永井特許を手に入れることができたのである。 4章  異色の技術者集団  井深は強運の人である。不遇な環境にもめげず、自分の力で天分を発揮できる道を探し、知識を拡げる努力をしてきた。それがよき師、同類の友の知遇を得るきっかけになる。井深はそうした人びととの交友を大事に育ててきた。常に相手の立場を尊重し、出すぎた振舞いはいっさいしなかった。  井深を知る人が「井深さんは、本当にいい人、信頼に足る清潔な人」と、口を揃えていうのもそのためである。そうして培ってきた人間同士の絆が、戦後、事業を起すのに役立った。井深の人柄ゆえといっても過言でない。  井深がもって生まれた才能を発揮しはじめるのは、戦後、事業家として第一歩を踏み出してからであった。前にも触れたように、井深は、何かほしいものがあると、なんとかそれを自分のものにしようと努力し、結局、手にしてしまう独特の才能をもっていた。磁気録音の基本技術である永井特許を手に入れるときに発揮したねばりなど、その典型的なケースかもしれない。井深の深慮遠謀ぶりを、改めて振り返ってみよう。ソニー発展の源泉をそこに垣間見ることができるからである。  安立電気のもっていた永井特許を、日本電気と共有することで話を決めた井深は、さっそく盛田と相談し、二五万円の分担金をどうやって捻出するか検討をはじめた。  当時、東通工の財布のヒモを握っていたのは、盛田家からお目付け役として派遣されていた長谷川純一と、総務担当の太刀川正三郎であった。二人とも、創業以来の金繰りでさんざん苦労をしている。それだけに二五万円もの大金をおいそれと出してくれるはずがない。それをいかに説得するかが、井深、盛田の悩みのタネだった。井深はCIEのヘイムズに頼み、問題のテープレコーダを借り出すことを思いついた。  井深の話を聞いたヘイムズは「貴重品だから貸すわけにはいかない」と断わった。だが井深は執拗にねばった。その熱意に根負けしたヘイムズは「機械をもって、キミの会社を訪ねる」と、渋々承知してくれた。こうして東通工の社員ははじめてテープレコーダの現物を見ることができるのである。そして井深がこの機械の国産化に執着する気持ちがわかりかけてきた。井深の洗脳作戦は見事に成功したのである。  一方、ワイヤーレコーダの開発を手がけていた木原は、井深の話をヒントに、テープレコーダの開発研究をひそかにすすめていた。 「話を聞くと、茶色のピカピカと艶のあるテープだという。それで酸化鉄を使ってるなとすぐわかった。問題はその酸化鉄の処理法とテープベースのつくり方だった。何しろ、あの頃はこれといった資料も教科書もない。しかも、現物を見たのは井深さんただ一人。それを頼りに推理するのだから苦労しました」  と、木原は当時を振り返る。考え抜いた木原の結論は、OPマグネットを素材にして磁性材料をつくることであった。OPマグネットは東京工大の加藤与五郎博士が発明した磁石で、コバルト系の酸化鉄の黒い粉を固めてつくったフェライト磁石である。木原はこのOPマグネットを擂り潰し、粉々にして、それに接着剤をまぜ、ありあわせの紙テープに塗ってみた。そして試作中のワイヤーレコーダにかけ、テストしてみたが、雑音が多すぎて、期待するような音はまったく出なかった。コバルト系酸化鉄の抗磁力が強すぎ、録音には不向きだったのである。  CIEのヘイムズが井深に約束したテープレコーダをもって、品川・御殿山のボロ工場に姿を見せたのはその頃であった。現物を見た木原は、ふたたび開発意欲を燃やし、これはと思う文献を片っ端から調べた。するとある書物に「蓚酸第二鉄から水蒸気と炭酸ガスをとると、非常に細かい酸化鉄の粉ができる。その粉を棒状に固め、磁石にする」と、書いてあるのを発見した。木原は「これだ!」と思った。できる磁石が強力でないという点が気に入ったのだ。  木原は自分の着想を盛田に話した。盛田は「心あたりがある。木原君、一緒に行こう」と、木原を誘い、神田まで出向いた。神田鍛冶町(現内神田)界隈は、むかしから薬種問屋街として知られている。そこに行けば、試薬ビンに入った蓚酸第二鉄が入手できることを盛田は知っていたのだ。  小さいながらも、技術の本質を知っている人材を揃えた東通工の強味はそこにあった。いずれも既成の観念にとらわれず、行動できるフレッシュな感覚をもった技術者集団。これはと思えばすぐ行動に移ることができる。その機動性が東通工飛躍の原動力になるわけだ。もちろん、当時、それを意識した東通工の社員は一人としていない。そんなことより「誰もやっていない技術を生み出して、日本の技術を再構築したい」という創業の理念をいかに実現するかで精一杯だったのである。そんななかにあって、人一倍闘志を燃やし続けていたのが、テープレコーダの開発をまかされた木原であった。井深同様、小さいときから機械いじりが好きだった木原は、未知の分野に挑戦することが自分の使命と割切る、異色の存在であった。  木原は、最初、井深を単なるアイデアマンで、実務家でないとの印象をもっていた。ところが何度か井深と接触しているうちにそれが間違いだと気づく。実務的な細かい点まで熟知した、本物の技術者であることを身をもって知ったからである。以来、木原は、井深のもつ人間的魅力のとりこになり「この人のために思いきり仕事をやってみたい」と、考えるようになっていた。  人材育成  木原はもともと寡黙な人である。だが、思いついたことは必ずものにしないと気がすまないという独特の職人気質をもった技術者でもあった。井深は木原のそんな性格をいち早く見抜き、好奇心をそそるような開発テーマを、それとなく与えた。木原は、翌日になると「こんなものができました」と、井深の予測を上回るものをつくってもってくる。これには井深も兜を脱いだ。井深が大学専門部を出て二年足らずの若者を主任研究員に引き上げたのも、その内に秘めた才能をフルに発揮させてやろうと思ったからであった。  それが井深流〈人材育成法〉である。それとなくあたえたヒントを、むずかしいといって手をこまねいている技術者を、井深は信用しない。また、押しつけた課題通りのものをつくってきた場合も同じだ。できて当たり前というわけだ。井深は、自分の考えを越えるものをつくれる技術者でないと重用しないのだ。つまり、井深はきびしい評価者でもあったわけだ。  井深が井深なら木原も木原である。井深の気質を知り抜いているだけに、テープレコーダづくりに挑戦した木原は、いつになく慎重な姿勢で実験に取り組んだ。買ってきた黄色の蓚酸鉄の粉をありあわせのフライパンであぶり、適当なところで水を入れ蒸発を止め、茶色の酸化鉄の粉をつくる。それをラッカーにまぜ、スプレーガンに入れる。そして入社直後につくったヘルシュライバー(鍵盤式模写電信機)で使用した八ミリ幅の紙テープに吹きつけ、ともかく、録音用テープらしきものをつくりあげた。 「ヘッドは、ワイヤーレコーダの試作である程度わかっていたので、パーマロイを使った。それを切ったものを合わせてハンダ付けした。あとで考えると、あのときなんでハンダ付けしたのかと悔やんだが、当時はそれがいちばんいいと思っていたんですね。それを油砥石で一生懸命磨いてギャップをつけた。そして実際にテストしてみたらいい音が出る。〈ワァー、できた〉と、みんなで大騒ぎしたのはこのときですよ」(木原信敏)  だが、本当の苦労がはじまるのはそれからであった。メカニック部分、磁性材料の改良、塗布の方法、使用する溶剤の研究と難問が山積している。これらを木原一人で解決するには荷が重すぎた。そこで井深と盛田はつてを頼りに、化学、物理、電気、メカニックなど、これはと思う人材を何人も入れた。  テープの試作を手がけた戸沢圭三郎も、その一人であった。戸沢は旧華族の出で、盛田とは遠縁の間柄。昭和十七年九月、名古屋大学工学部航空工学科を繰り上げ卒業し、海軍の短期現役士官(技術科三二期)となった。盛田の義弟、岩間和夫とは中国山東省青島で同じ釜のメシを食った仲間である。その戸沢は二年間の現役生活を終えると、就職内定先の三菱重工に戻り、河野文彦技術部長(のち社長)のもとでゼロ戦の改良設計に携わるようになった。  やがて終戦。戸沢は、一時芝浦工機に籍をおいたが、昭和二十三年に独立した。しかし、つくった会社は、可もなし不可もなしといった程度。それで嫌気がさし、古巣の三菱重工に戻ろうかと考えはじめる。盛田と会ったのはその直後のことであった。 「いろいろ話をしているうちに、盛田さんが机の脇においてあった変な機械(テープレコーダ)を指して『戸沢さん、これなんだか知ってますか』という。いや知らないと答えたら『これであなたの話を録音した。再生してみましょう』といって、私の声を聞かせてくれた。これには私も驚きました。そのうえで、実はこのテープを開発するんだけど手伝ってくれませんか、と切り出された」  戸沢はとっさのことだけに返事に詰まった。しかし、すぐ「これはどこかでやっているのか」と、聞いてみた。すると盛田は得意気な顔で「日本じゃどこも手がけていません。それをわれわれがやろうとしている。資料も、これといった文献もないんです」と、答えた。  これを聞いて戸沢は、興味をもった。「資料も、虎の巻もないなら、シロウトのオレにもできるかもしれない」と、思ったのである。これが戸沢の東通工入りのきっかけになった。  戸沢が東通工に通いはじめた直後の昭和二十四年一二月、樋口を訪ねてきた中年の男がいた。階級章のない洗いざらしの陸軍の軍服に、軍靴をはいたその男は、日本光音時代、井深のもとで働いていた島沢晴男である。島沢は、井深がPCLにいた頃よく出入りしていた神田末広町のオートバイ屋の店員で、手先の器用な働き者であった。それに目をつけた井深が、日本光音入りをすすめたという間柄だった。 「日本光音に入ってしばらくしてから、満州に行ってくれといわれた。満州で一六ミリの映写機をたくさん売るんだというので、私はサービスマンとして派遣されたわけです。派遣された会社はその後、現地法人に昇格した。社長は大杉事件で有名になった甘粕元憲兵大尉でした。私は昭和十八年に召集で、関東軍に入った。だが二年足らずで終戦となり、ソ連軍に抑留されシベリア送りになった。そして四年ぶりに帰国を許されたんです」(島沢晴男)  帰国後、しばらく兄の家で休養生活を続けていたが、井深の消息を耳にし、矢も楯もたまらず樋口に就職を頼みに訪れたのである。樋口も、島沢のことをよく覚えていた。それだけに復職させても問題はないと思った。しかし、一応、盛田に事情を話し面接してもらうことにした。  盛田は、島沢の履歴書に目を通すと、いきなり「キミ、共産主義をどう思うかね」と質問した。これには島沢のほうがびっくりした。 「たぶん、履歴書にソ連抑留と書いてあったので、そんな質問をされたんでしょうね。あの頃は朝鮮戦争がはじまる前で、まだ共産党は隠然たる力をもっていましたからね。それなのに平気でそんな質問をされる。私はそういう骨っぽいところが好きなんです。もっとも、盛田さんも当時のことは忘れているかもしれない。私もなんと答えたか記憶に残っていないが、ともかく、採用していただき、戸沢さんに引き合わされたんです」  旧海軍の技術士官である戸沢と、シベリア帰りの島沢が前人未到の磁気テープづくりに挑戦をはじめたのはそれからであった。東通工が最初に借りた掘っ立て小屋が仕事場だった。創業当初 からこのボロ工場で働いていた社員は数ヵ月前に完成した木造二階建ての新工場に移り、空家になっていた。そこにテープ開発室を設営することになったのである。 〈テープ開発室〉と、格式ばった名称がつけられたが、屋根は杉皮ぶき、壁は渋板というあばら屋同然の建物。部屋には事務机一つない。そこで戸沢は、ありあわせの木箱と板切れを利用して机と椅子をつくり、当座をしのいだ。  開発  戸沢から仕事の手順を教わった島沢は、さっそくテスト用のテープの試作にとりかかる。しかし、何度やっても納得のいくテープができない。テープベースが悪すぎるのである。その頃アメリカでは、プラスチックをベースに磁気テープをつくっていたが、日本にはアセテートの薄いフィルムさえなかった。戸沢はやむを得ず市販のセロファンを使って試してみたが、伸び縮みが激しいうえに、吸湿性が高く、まったく使いものにならない。そこで、これを硬化する方法を考えるなど、いろいろ挑戦してみたが、いずれも失敗に終わった。やはり、紙をベースにするしか方法がないとの結論に達した。ところが、その紙を供給してくれるメーカーがない。テープベースは幅六ミリで、相当の張力に耐えるものでなければならない。しかも、テープ一巻の所要時間が決まっているので、厚さにも制約がある。厚ければ巻いたときに大きくなりすぎるのだ。また磁性材料をまぜた塗料を塗る関係で、テープ表面は平滑さが要求されるなど、面倒な制約があるため、発注したくてもどこの製紙会社も相手にしてくれなかったのである。 「本州製紙に僕の従兄弟がいる。彼に相談してみよう」と、盛田がいいだした。そして戸沢とともに大阪に出向いた。井深が、知り合いの宣教師ロバート神父(明治学院大教授)から譲り受けたアメリカ製テープレコーダをかついでの出張であった。現物を見せて説得しようというのだ。  企画課長をしていた盛田の従兄弟の手引きで、本州製紙の首脳陣に会った盛田は、話合いの模様を録音したテープ(スコッチ製)を、その場で再生してみせたうえで、次のように訴えた。 「私どもは、いまこれと同じ機械を開発しています。このテープをつくろうと思っていますが、ベースにいいものがなくて困っています。こちらで、なんとかつくっていただけないでしょうか……」  このデモンストレーションと盛田の巧みな説得に、本州製紙の首脳陣は異常な関心を示した。自分たちの声がその場で聞ける便利な機械と、その開発に賭ける若い事業家、技術者の情熱にうたれたのである。そして、同社の淀川工場に全面協力させると約束してくれた。  その頃、木原を中心とするテープレコーダ開発陣は、二十四年九月につくりあげた原型機をたたき台に、改良型の試作を急いでいた。設計を担当したのは井深がスカウトした三好謙吉(元東京計器技師)と木原で、ヘッドは東北大と東北金属の協力を仰いだ。駆動部のモーターは、日本電気音響(通称電音)が開発したヒステリシスモーターを導入。問題の多かった伝導ベルトは、専門メーカーを探し、人造ゴム製のベルトをつくらせた。こうして、ともかく国産初のテープレコーダ(録音時間六〇分)「G1型」の一号機を完成させることができた。昭和二十五年一月のことであった。  東通工技術陣は、これでコンシューマ商品開発の突破口を開いたわけである。しかし、これを本物にするには問題がいくつか残っていた。なかでも最重点課題は、録音テープの量産体制をいかに確立するかであった。  昭和二十五年四月、テープ開発室に何人かの新人が入ってきた。東大工学部応用化学科出身の天谷昭夫と、同じく法学部出身の徳本慎一などがその代表的な人物である。天谷は一高在学中、海軍航空技術廠に勤労動員され、盛田のもとで働いた経験があった。その関係で白木屋時代もアルバイト学生として、何度も東通工に出入りし、幹部とも顔見知りだった。もう一人の徳本は、法律事務所を開いていた親の意向で法科に進学したが、根っからの発明狂で、在学中から駒込の理化学研究所に出入りし、いくつかの特許を取得するといった変わった経歴を持っていた。たまたまそれを知った井深が、その才能を見込んで東通工にスカウトしたものである。  その頃になると、掘っ立て小屋まがいのテープ開発室も少しはマシになり、化学実験室らしい雰囲気が整ってきた。そんなテープ開発室に配属された天谷と徳本は、戸沢から仕事の段取りを教わり、磁性粉と溶剤の量産研究に着手することになった。 「当時、直径五〇ミリ、長さ一メートルぐらいで、一方が封じられた石英チューブのなかに、蓚酸鉄の入った長さ二〇センチ、幅三センチの金属ボードを入れ、小さな電気炉で粉を焼いていましたね。それをやっていたのは、高田君という中学出の坊やだった。私はその坊やに教わって粉焼きをはじめたが、最初はどうもできが悪い。取り出すと燃えてしまったり、焼きが甘いとかでなかなかうまくいかない。燃えてしまうと肝心の磁性がなくなりますからね」(天谷昭夫)  できる粉は一回に二〇グラムが限度。そこで天谷は自分なりに考え、手づくりで回転炉をつくった。最初につくったのは容量一キログラム程度のもの。だが、粉の使用量が多くなったため、翌年には容量一〇キログラムにスケールアップせざるを得なくなった。  テープづくりに必要な一連の設備も、全部、戸沢や現場の担当者が考え出した手づくりの機械である。しかし、作業場の環境は最低の一語につきる。部屋のなかを人が通ると磁性粉がパーッと舞い上がる。おかげで頭はかゆくなるし、シャツの袖や襟は一日で茶褐色に変色してしまう。身だしなみのよいことで定評のあった戸沢も、これには手をやき、テープベース用の紙を折って襟元にはさみ、汚れを防ごうとしたが、ほとんど効き目がなかったと述懐するほどであった。  そんな思いを重ねてつくったテープなのに、木原たちから「スコッチの紙テープに比べ、うちのテープは塗りムラやノイズが多すぎて、とても使えるシロモノじゃない」と、酷評される。それが戸沢たちテープ開発室の面々の発奮材料になった。  テープレコーダ「G‐1」の自負  井深や盛田は、G型の最初の試作機をかついで積極的な啓蒙活動をはじめた。当時、東通工は、テープレコーダの商品化を実現するため、三六〇万円の資本金を一〇〇〇万円に増資する計画を立てていた。しかし、会社は知名度の低い非上場会社だけに自分たちの才覚で新しい出資者を募らなければならない。そこで盛田は、母の縁を頼りに関西の財界人にテープレコーダを見せて歩くことを思いついた。それも、遠縁の大日本紡績の元社長、小寺源吾(当時相談役)とか、阪急の創始者、小林一三など大物ばかりである。  傑作だったのは小林に会ったときであった。その日、例によって盛田が会見の模様を録音し、その場で再生してみせた。すると小林は「ホウ、世の中にはワシと同じようなことをいうやつがいるものやな」と、目を丸くして驚いた。だが、そのあとで自分がしゃべった言葉だと教えられ、大笑いしたというエピソードが残っている。当時、テープレコーダに対する一般の認識は、その程度のものだったようである。  機械をつくる東通工開発陣も、テープレコーダの技術を完全にマスターしていたわけではない。そのために思わぬ失敗を演じている。自社のテープとスタンダードテープの幅が違っているのに気づかなかったことである。それがわかったのはG型の原型をつくった直後だった。当時、自社製のテープは試作の域を出ていないため、テストにスコッチ製の紙テープを使用した。ところが、何度試しても機械にかからない。これには木原たちもあわてた。入念に調べたら、ほんのわずかだが、テープの幅が違っていることに気付いた。 「スタンダードのテープは四分の一インチ(六・三五ミリ)なのに、われわれは六ミリでつくっていたんですよ。たぶん、ノギスか何かではかった寸法をそのまま鵜呑みにして、テープとメカをつくってしまった。それがいけなかった。しかし、発売前だったからまだよかった。もし売り出したあとだったら、大問題になっていたでしょうね」  と、井深は苦笑する。この事件は、井深をはじめ東通工技術陣に貴重な教訓を残してくれた。コンシューマ商品をつくる場合、規格標準化がいかに大切かを学んだことだ。以来、井深は商品規格の標準化には、人一倍神経を使うようになった。後年、それを裏書きするような話が出てくる。昭和四十四年のことだ。  この年の春、井深はマイクロカセットの規格問題で、オリンパス光学の内藤隆富社長(当時)から、「うちの方式で規格を統一してもらえないか」と頼まれたことがある。その頃、ソニーをはじめ各社がいろいろな方式を開発、主導権争いを演じていた。それだけに、井深も即答を避けた。しかし、オリンパス方式のカセットが先行しているのを自分の目で確かめた井深は、金型までおこしていた自社方式をあっさり断念、内藤の提案を受け入れることを決めた。コンシューマ商品の場合、互換性がいかに大切かを知っていたからにほかならない。  ベータマックス、VHSにみられるVTRの規格紛争も、開発両者に互譲の精神がなかったことに端を発していることは、周知の通りである。その辺のいきさつにはあとで触れるとして、話題を元に戻そう。  井深と盛田が、G型のデモンストレーションを展開しはじめた頃、もう一人、テープレコーダに自分の運命を賭けてみようと、ひそかに考えていた男がいた。のちにソニーの総務部長、常務などを歴任した倉橋正雄である。倉橋は、東京の成城高校、神戸商大を出た元陸軍主計大尉。戦後は徳川義親元侯爵に懇望され、尾張徳川家の財産管理をする八雲産業(本社、東京・目白)の役員として活躍していたやり手であった。  その倉橋が、八雲産業の相談役を兼ねていた田島道治から「私の関係している東通工という会社がある。ここで、しゃべるとそれが記録され、それをすぐ聞くことができる、おもしろい機械を研究している。この会社は、いまは名もない小さな会社だが、若くて優秀な人材を揃えているから、将来、きっと伸びると思う」という耳よりな話を聞かされた。  倉橋は、この話にことのほか興味を示し、取りあえず、五〇円株を一万株購入することを決めた。そして田島の「出資するなら、一度、工場を見て来られるといい」というすすめに従い、さっそく品川・御殿山の工場を訪ね、井深と盛田にはじめて会った。  話合いは思いのほかはずんだ。倉橋も話術にかけては人にひけをとらないと自負していたが、井深と盛田の話しっぷりはそれをはるかに上回り、テープレコーダに賭ける熱気がひしひしと感じられた。倉橋は二人のひたむきな情熱にすっかり魅せられてしまった。  そのあと倉橋は、G型の試作機や、これまで東通工が手がけてきた製品を一通り見て、御殿山をあとにした。倉橋の頭は、たったいまみたばかりのテープレコーダのことでいっぱいだった。 「田島さんのいう通り、あれはおもしろい機械だ。できることなら八雲産業で売ってみたい」と、思うようになった。  これはと思うことにぶつかると倉橋は、自分の判断でどんどんことをすすめてしまう。それがときとして相手に警戒心を起こさせることもあった。その後、倉橋が東通工に二度、三度足を運び「この機械をうちの会社で売りたい」と働きかけたが、井深たちはなかなか色よい返事をしなかった。  やがて、戸沢を中心としたテープ開発チームの血の滲むような努力が実り、なんとか使用に耐えるテープができるようになった。朝鮮戦争が勃発した直後の昭和二十五年六月下旬のことである。これを契機に、開発室はテープの生産体制を整え、本格的な量産を開始した。とはいえ、生産は一分間に二〇メートル、一〇インチリールにして一日二〇〜三〇巻程度。だが、原材料、薬品類のグレードが低く、しかも、入手困難な時代背景を考えると、画期的なことであった。  こうして、ともかく八月には、国産初の磁気録音テープレコーダ「G‐1型」は、市場にお目見得することになった。東通工はこれを機会に名称を「テープコーダ」に統一、商標登録をした。発表された小売価格は一六万円。ちなみに、二十四年一二月に入社した島沢の給与は七〇〇〇円、毎日新聞社発行の週刊誌「サンデー毎日」が、二〇円であった。  そんなことを考え合わせると、「G‐1型」一台一六万円の価格は高すぎた。だが、井深たちは「必ず売れる」と確信をもっていた。「簡単に自分の声が記録され、すぐにその場で聞くことができる。こんなすばらしい機械を世間が注目しないはずがない」と自負していたのだ。確かにものを見た人は、一様に驚き、興味を示すが、買おうという奇特な人はなかなか現われない。一六万円という価格がネックになっていたのである。  東京録音  倉橋が「八雲産業で五〇台まとめて買う」と申し入れてきたのは、その直後であった。かねての念願通り、八雲産業の手で売って、ひと儲けしようと思ったのだ。一台当たりの卸値は一二万円で、総額六〇〇万円の取引きである。 「これで東通工はずいぶん助かったはずですよ。在庫はさばけるし、運転資金もできるしでね」と、倉橋はいう。それは事実である。当時、東通工は資本金一〇〇〇万円、従業員一〇〇名そこそこの小規模企業。これから会社規模を拡大してゆくには、社運を賭けてつくった「テープコーダ」を売るしか道がない。八雲産業の払った金は、旱天に慈雨のような価値があった。  一方、いっぺんに五〇台もの機械を引き取った倉橋も、自分の見通しの甘さに気づいた。最初、倉橋は、徳川家から紹介をもらえば少々高くても必ず売れると、安易に考えていた。小売値を一六万八〇〇〇円に設定したのもそのためだった。しかし、一台も売れなかった。これには音をあげた。えらいものを背負い込んでしまったと思ったのだ。  売れない「テープコーダ」を、最初に買ってくれたのは、東京八重洲口のオデン屋の主人であった。この人は、以前大きな会社の幹部だったが、戦後は会社勤めをやめ、一時、徳川家の顧問のような仕事をしていた。その関係で商談がまとまったもの。自分の経営している店に機械をおき、酔客の歌を録音し、その場で聞かせようと考えたわけだ。  これをはずみにと、倉橋は、ふたたび足を棒にして買い手を探したが、さっぱり、成果が上がらない。倉橋の苦戦ぶりをみるに見かねた盛田は、手あきの社員を動員し、積極的な啓蒙活動を展開しはじめた。一ヵ所でも売れる緒口を見つけ、倉橋の負担を軽くしてやろうと思ったのだ。しかし、この支援活動も、苦労した割にあまり効き目がなかった。  その直後の一一月五日に、国会図書館で「新しい日本の技術展」という催しが開かれた。東通工にも出展要請があり、G型など数点の製品を出品することになった。当日、会場に皇后陛下、貞明皇太后、内親王方がお揃いで顔を出され、各社の展示品を熱心に見て回られた。ところが、東通工の展示場の前まで来ると、足を止められ、G型を興味深げにご覧になった。待機していた説明員の倉橋にも何度か質問された。抜け目のない倉橋はその模様を録音していた。  それを再生してお聞かせしようと、テープを巻き戻し、プレーのボタンを押したが、肝心のレコーダはウンともスンともいわない。あわてふためいた倉橋は、場所柄もわきまえず、機械のあちこちを叩きはじめた。その様子がよほどおかしかったとみえ、皇后陛下がお笑いになった。 「たぶん、真空管の接触が悪かったのだと思うが、あのときは、本当に冷や汗が出ましたね。幸い機械もすぐ正常に戻り、お声を聞いていただくことができたが、当座は、気が転倒してしまい、自分で何をやったか全然覚えていないほどでした」  と、倉橋は述懐している。ところが、翌日の新聞には、そのときの写真が掲載され「ご自分の声を聞いて、お笑いになる皇后陛下」という説明文までついていた。これを見た倉橋は、穴があれば入りたいような気持ちに駆られたという。  このできごとが幸いを招くきっかけになった。国会図書館が一台購入してくれたのである。これは、徳川義親の口利きがものをいったのだ。そのうえ、尾張の殿様は、倉橋のために名古屋高等検察庁の長官を紹介してくれた。倉橋に会った名古屋高検長官は、G型を一台購入したうえで、東京高検の幹部を紹介するから訪ねてみなさいとすすめる。速記者が不足して、裁判の進行がままならないで困っている。それだけに売り込みやすいのでは、というのである。  この助言を頼りに、井深と倉橋は東京高検の首脳を訪ね、交渉をはじめた。話がまとまるまでには、若干時間がかかったが、いちおう二二台のテープコーダの売込みに成功した。東通工や八雲産業は、これで一息ついた。  気をよくした倉橋は、ふたたび販路の開拓に努めた。その結果、朝日新聞社、文藝春秋社、三越本店などへの売込みに成功する。だがそのあとが続かない。困り果てた倉橋は、盛田と会い、販売方法を根本から練り直すしか手がないのではと提言した。倉橋の人柄がわかってきた盛田もそう思った。その場合、倉橋の処遇をどうするかという問題が残った。  昭和二十五年一一月、社長に就任し、経営の全責任をまかされている井深と、専務に昇格した盛田は、いろいろ話し合った末、倉橋を東通工に迎えるのがいちばん望ましいとの結論に達した。ところが、東通工と八雲産業の相談役を兼務する田島は、頑として首をタテに振らない。「倉橋は徳川家のために雇った人間。だからキミの会社にやるわけにはいかん。それに、私は、人身売買のような人の引き抜きは嫌いだ」というのである。だが、井深と盛田はこれから会社を伸ばしていくためにも、倉橋はどうしても欠かせない人材だ、と根気よく説得し続け、ともかく、もらい受けることに成功する。昭和二十六年一月のことであった。  そのうえで、井深は、東通工一〇〇パーセント出資の会社「東京録音」を設立する。この会社の目的は二つあった。一つは映画用磁気録音装置の製造と、その宣伝。もう一つは、開発中の普及型テープコーダを売ることである。つまり、井深は、この時点で磁気記録技術を使えば映画界に革命的な変化を起こすことも可能と読んでいたのだ。  ちなみに、この会社の社長は盛田久左ヱ門、専務は井深のハム仲間である笠原功一(東通工営業部長を兼務)、常務は倉橋正雄、録音部長は土橋武雄という顔ぶれで発足している。  土橋は前にも触れたように本格的トーキー映画『マダムと女房』(松竹作品)を実現させた〈土橋式トーキー〉の発明者で、夫人は名バイプレーヤー飯田蝶子である。しかし、戦争末期、映画界から身をひき、以来、職についていなかった。それを知った旧知の笠原が東京録音入りをすすめたものだった。録音技術の応用知識の乏しいシロウト集団に欠かせない指導者だと思ったからである。  技術と人材  東通工の井深と盛田は、新任の倉橋を交え、テープコーダ販売のあるべき姿について、何度も協議を重ねた。その結果、買いやすい手頃な価格の商品をつくるべきだと結論した。それに関連して井深は次のようにいう。 「うちがテープコーダをつくったときは、あらかじめ使う目的とか、需要を深く考えてつくったのではなかった。〈ラジオの次にわれわれの持てる技術を活かしてできるものは何か〉ということからスタートしたわけです。だから、少々値段が高くてもこんな便利なものが売れないはずはない、と単純に思い込んでしまった。それが間違いのもとだった。そこで、こんどは発想を逆にして、需要を喚起するにはどうすべきか。どんなものをつくれば消費者に喜ばれるかを、もっと勉強しなきゃという結論に到達したんです」  幸いアメリカのテープレコーダについていたマニュアル〈テープレコーダ99の使い方〉が手に入った。中身は、いろんな分野での使用法を簡単に列記した程度のものだったが、盛田や倉橋にとっては、貴重な参考書になった。  二人は、この小冊子をたたき台にして検討を重ね、独自のマニュアルをつくってみた。それも、教育用、事務用、放送演劇用、宣伝用、慰安・娯楽用、通信用、研究・測定用、盲人のためのトーキングブックなど、多彩な分野に及んでいた。  あとは、機械を小型軽量にして使いやすくすることである。井深の内意を受けた開発担当の木原は、帰宅後、夜食もそこそこに、考えはじめる。構想がまとまったのは東の空が明るくなりかけた頃だった。ちょっと仮眠し、定刻に出社するとすぐ図面引きにかかる。それをもとに、たちまち二台のバラックセットをつくりあげた。昭和二十五年八月下旬のことである。 「それを井深、盛田のご両人に見せたんです。そうしたらすぐつくれという。そこで関係者を熱海の旅館に集め、合同会議を開くことにした。技術的な問題点とか、工作上の段取りを、いろんな角度から検討して一気に生産に入れるようにするのが目的でした」(木原信敏)  会議に出席したのは、井深、盛田をはじめ、木原、北条、法眼、関根、竹内、稲賀といった面々で、いずれも設計、工作の各部から選ばれた気鋭の技術者であった。  このうち、井深と盛田は、最初の一晩だけ同席、翌日東京に戻った。その帰り際、井深は「ものができる確信がもてるまで帰ってくるな」と厳命した。〈東京にいると、雑事に追われ仕事がはかどるまい。だからここで納得のいくまで問題の解決に専念しろ〉というわけである。  木原が、H型と称するポータブル形式の試作機をつくりあげたのは、二ヵ月後の一一月中旬。それをもとに厳密なテストを重ね、問題箇所は改良し、一二月には五〇台の見本生産をはじめるというスピードぶりをみせた。  そのため生産現場は火事場のような騒ぎになった。G型の改良機の生産と平行し、普及機のH型が割り込む形になったからだ。最たるところは、木造三階建て新社屋の二階に設けられた組み立て現場である。外注部品が間に合わなかったり、配線ミスに気づかず組み立て、感電するというアクシデントがしばしば起きた。そのたびにどなられるのは、外注部品を受け持つ購買担当者か電気知識の乏しいメカ屋たちであった。 「あの頃は、ひとくせもふたくせもあるサムライが多かったせいか、どなり合いやケンカ沙汰はしょっちゅうありました。それも、一刻も早く製品をつくりあげたいという気持ちから出たものだし、変なシコリを残すようなことはまったくなかったですね」(北条司朗)  あわただしい思いをしながら、ともかく、五〇台の普及機〈H型〉をつくりあげた技術陣は、その余勢を駆って本格的な生産に乗り出した。当面の目標は月産二〇〇台、四月の入学シーズンに間に合わせようと考えたのだ。ところが、実際に生産されたのはその半分の一〇〇台。量産技術が未熟だったこと、外注の関連部品に問題があったことなどが原因であった。  井深は、日本の磁気録音機技術の草分けで、旧知の多田正信(当時、日本電気技師長)を技術部長として東通工に迎え入れることにした。また阪大、海軍技術士官時代、盛田と同じ釜のメシを食った児玉武敏(当時、阪大理学部助手)も、盛田のたってのすすめで東通工に入ることになった。このように、東通工はこれはと思う有能な人材を随時スカウトし、ウイークポイントの補強に努めていた。だが外注部品の質の悪さまでには手が回らない。入社早々、岩間製造部長づきとして、メカニック関係のまとめ役をまかされた児玉は、当時の問題点を次のように振り返る。 「H型の量産でいちばんのネックだったのは、モーターとゴム、それと外箱だった。電気部品とか、機械部品はなんとか一応のレベルのものが揃った。ところが、肝心のモーターは一日に一〇台ぐらいしか入ってこない。そのうち使えるのはせいぜい二台。これじゃ量産なんてとてもできません。ゴムもまったく同じ。あの機械には合成ゴムがいろんなところに使われている。たとえば、動力を伝えるベルト、ピンチローラー、アイドラー、それとモーターの振動を押さえるクッション材料などだが、合成ゴムのいいのがなかなか手に入らない。それが悩みのタネでした」  そこで児玉はつてを求めて名古屋に飛んだり、高等学校時代の後輩を訪ね、研究を委嘱するなど、ゴム材の改良に努めた。その後になって、東通工がテープコーダで他社を引き離し、優位を保てたのも、ゴムに関する隠れたノウハウを数多くもっていたからである。 5章  市場創成  盛田が八雲産業から倉橋をスカウトして「東京録音」を設立した頃、GHQのCIE(民間情報教育局)は、AVE(オーディオ・ビジュアル・エデュケーション、視聴覚教育)の普及に力を入れはじめた。戦前の観念的教育から視聴覚教育に切り換え、戦争放棄の思想を、視聴覚的に子供の時代から植えつけていこうという政治的な狙いが含まれていた。  CIEはその一環として〈ナトコ〉という一六ミリトーキー映写機を数千台用意し、各都道府県の教育委員会を通して小、中学校に貸し出すと発表した。オーディオを担当するNHK(当時、日本放送協会)も、局内に放送教育研究会を設け、学校向け放送の質的向上をはかる体制づくりに着手した。倉橋はこれに目をつけた。学校向け放送の教材にテープコーダを使ってもらいたいと思ったのである。  井深、盛田の了解を取り付けた倉橋は、さっそく、文部省とNHKに働きかけた。もちろん、両者とも異論をさしはさまなかった。倉橋は東通工社内に録音教育研究会という任意団体をつくり、全国の小、中学校を片っ端から訪ね歩いた。そして機械の存在を知らない教師に現物を見せ、テープコーダが視聴覚教育にいかに役立つかを熱心に説いた。  このデモンストレーションは、大きな反響を呼んだ。東通工に問い合わせや、注文が殺到しはじめた。前述のH型はこの教材用につくられた機械だったわけだ。  井深と盛田は、マーケット・クリエーション(市場創成)の大切さを身をもって知った。同時に製品の販売ルートの確立が急務であることを痛感する。その頃の東通工の販売部門は東京の丸文と、盛田の実家が経営する大阪の山泉の二社が担当していた。少数のマニアを対象に商売するならそれでこと足りたが、全国の小、中学校が対象となると、もっと信用のある有力代理店の協力をあおがないと商売に結びつかない。盛田が目をつけたのが「ヤマハのピアノ」で知られる日本楽器製造(現在、ヤマハ)であった。  ヤマハは、全国の学校にピアノを納めていた関係で教育界には大きな影響力をもっていた。しかし、取り扱う商品は自社製品に限ると決めている。それをどうやって説得するかが問題だった。盛田はこの仕事を倉橋と営業部長の笠原にゆだねた。当時、ヤマハは、三八歳の川上源一が厳父嘉市のあとを継ぎ、四代目社長に就任したばかり。その川上を浜松市の自宅に訪ねた倉橋と笠原は、テープコーダを見せながら「これは音楽教育にも必ず役に立ちます」と、熱っぽい調子で訴えた。はじめ難色を示した川上も、倉橋のねばりに根負けして、自社の支店、代理店を通じてテープコーダを売ることを承諾した。  これを契機に、盛田は、丸文と山泉を合併させ、販売代理会社「丸泉」を発足させる。こうして、ヤマハと丸泉による二社販売体制ができあがった。この提携関係は昭和三十一年で終止符を打ったが、この間、東通工は、ヤマハが長年にわたって築き上げた商売上のノウハウを、数多く学ぶことができた。しかし、ヤマハは、もともと楽器をつくり販売するのが本来の仕事だけに、電子機器の取扱いに馴れていない。そのためちょっとした故障でも、東通工から技術者を差し向けなければならない。そのわずらわしさを排除するため、東通工は地区ごとに技術者を常駐させ、巡回サービスを実施するように仕向けた。この経験が、修理サービスの在り方について数多くの教訓を残してくれた。  また販売先を学校や特定の地域だけに頼っていると、思わぬ落とし穴があることも知った。たとえば、学校では、予算切換え前後の二〜六月頃の間に需要が活発になるが、その他の時期はさっぱり売れない。需要の時期的偏在は、当然、生産計画にも大きく影響する。  こうして井深と盛田を中心とする〈技術者集団〉は、創成期、テープコーダの販売を通じて、商売の鉄則ともいうべき基本理念を身をもって学んだ。その教訓が「自ら計画し、自らマーケットをつくり、自らの販売計画で売るべきである」という、今日のソニーの経営理念につながったのだ。  東通工は、この前後からやっとコンシューマ商品を手がける会社らしい体制を整えはじめた。とはいえ、作業現場は雑然としていて、工程の流れが悪い。これでは生産量を増やすこともできない。そこで盛田は、代表的な量産メーカーを訪ね、流れ作業の実態を見学したいと思った。その候補に選ばれたのが早川電機(シャープ)であった。  この橋渡しをかって出たのは、児玉武敏である。早川電機社長の早川徳次は、シャープペンシルの発明者としても有名な存在だった。鉱石ラジオから真空管式ラジオ生産の豊富な経験をもっていただけに、戦後、復活したラジオ生産があたり、業績をどんどん伸ばし、注目されていた。その早川と児玉の父親は旧知の間柄であった。 「うちの親父は、クラブ化粧品をつくっていた中山太陽堂の副社長をやっており、戦前から早川さんと交遊があったんです。早川さんは関東大震災で東京を焼け出され、大阪に転居されていた。そしてしばらく中山太陽堂におられた。そんな関係で僕も早川さんを存じ上げていた。そのつてを頼って、まず盛田と私が工場を訪ねた。それも私の友人という名目で見学させてもらった。そうしたら盛田がうちの幹部にもぜひ見せたいといいだした。そうなると、私の友人じゃまずい。そこで改めて事情を話し了解を取り付けたうえで、樋口、岩間、笠原の三人に行ってもらいました」(児玉武敏)  この見学が生産ラインを見直すうえで、どれだけ役立ったかはかり知れない。早川は、その後、工場長を上京させ、東通工のために適切な助言をするよう仕向けてくれさえもしている。  大賀典雄  助言といえば、当時、東通工にもう一人、うるさいアドバイザーがいた。東京芸大の学生であった大賀典雄(のち社長)である。大賀が井深の遠縁にあたる沼津の西田嘉兵衛の紹介状を携え東通工を訪れたのは、G型の原形となった最初の試作機ができた直後であった。  その頃大賀は、芸大音楽学部の一年生。声楽家志望であったが子供のときから機械いじりが大好きで、外国の文献などを通じてテープレコーダのこともかなりくわしく知っていた。大賀が録音機に関心をもったのは、次のような動機からである。 「バレリーナが鏡の前で演技し、技能の向上をはかっているのと同じように、音楽家にも鏡が必要なんですね。それには録音機がいちばんいい。それもコスト的に考えると磁気録音機がもっとも適している。そこで私が最初に目をつけたのが、日本電気さんがつくっていたワイヤーレコーダでした。さっそく、会社を訪ね、関係者を紹介していただいた。そのときお目にかかったのが多田正信さんでした」(大賀典雄)  ところが、購入するつもりでテストしてみると、録音特性はよくないし、ブレーキ操作をちょっと誤ると、ワイヤーがからんで動かなくなる。これでは使いものにならないと判断した大賀は、購入をあきらめることにした。  そんな折、東通工がテープによる磁気録音に成功したという耳よりなニュースを、近所に住む西田家の当主から教えられた。そこで井深に会ってみたいと思ったのである。せっかくの会見であったが、残念なことに、その日は井深が多忙で十分時間がとれず、大賀が一方的にしゃべるだけで終わった。  それから数日後、たまたま倉橋が芸大にテープコーダを売込みに出かけた。応待に出た学長は「僕は機械のことはよくわからない。だがうちの学生にたいへんくわしいのがいる」といって、一人の学生を呼んだ。それが大賀だった。大賀と会った倉橋は、その博識ぶりにすっかりのまれてしまった。会社に戻った倉橋は「実は、今日、たいへんな学生に会いました」と、井深に大賀のことを話した。これを聞いた井深は「へェー、あの男がね」と思わず苦笑した。いいたいことを一人でしゃべりまくり、昂然と引き上げていった柄の大きい生意気な学生の姿が脳裏に浮かんだのである。 「もう一度会ってみよう。だが技術にくわしいといっても、しょせんは音楽学校の学生だよ。そのメッキは僕がはがしてみせるよ」  そのとき井深は、大賀をその程度にしか評価していなかったのだ。ところが、改めて話し合ってみると、開発陣が直面している問題点を容赦なく衝いている。これにはびっくりした。最後には「あなたは、テープレコーダに関して、専門家以上の知識をもっているね」と賞賛せざるを得なくなった。  これが機縁で、大賀は、東通工に出入りするようになった。大賀は勝手に工場のなかに入り込み、機械をいじくり回し、関係者に注文をつける。井深も盛田も、ものおじせず思ったことをズバズバいってのける大賀のおおらかな性格と、音楽家らしい鋭い感性を高く評価し、ますます好意をもった。そして、いつの間にか、この男をモニターとして新しい機器の開発に協力させようという気になっていた。  木原たちが芸大にG型の試作機をもちこみ、学内で行なわれる演奏活動を収録させてもらえるようになったのも、大賀の口利きであった。そして、開発した機器の性能を何度もテストし、改良すべき点は改良し、新しいG型をつくりあげた。 「最初は電力事情の関係で思わぬ失敗もあったが、機械は着実によくなった。心配していた高音も思ったよりきれいに入ってましたからね。そこで芸大でも一台購入しようということになり、予算をとってもらった。そのとき、標準仕様だといい音がとれないので、一部を手直しさせたわけです。ワウフラッターを減らすためにピンチローラーをつける、ピアノの音が聞ける程度まで質を上げて、納入させるといった具合にね。ところが、あとがたいへんだったんです」と、大賀は苦笑する。東通工から法外な代金を請求されたからだ。特別のプロジェクトをつくり製造したのだから、値段が高いのは当たり前だといいはる。これには大賀もおこった。そして「アイデアを提供し、音質をよくしてやったのは私じゃないか。だからよぶんなものはいっさい払わない」と、逆に営業担当者に噛みついた。  もっとも、大賀のほうにも払うに払えない事情があった。学校の予算枠が決まっていて、追加支出を認めてくれないからだった。そこで大賀は、井深を訪ね「こんなことじゃ困る」と訴え、とうとう予算の範囲内で納入させることに成功したという。このように、大賀は、学生時代から相手を説得し、自分のペースに巻き込む特異な才能と、人を引きつける不思議な魅力をあわせもっていたのである。  井深はそんな大賀がますます好きになった。そして、何かにつけて大賀に問題解決を依頼するようになった。新しい機械ができると、テストして悪いところを指摘してくれと声をかける。大賀も喜んで応じた。勉強になるし、趣味の機械いじりを満足させる手段になるからであった。  一進一退を繰り返していたテープコーダ技術の、発展向上を促す機運がもちあがった。発端は、昭和二十五年五月に公布された電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)の実施である。これによって戦前、戦後、国およびアメリカ軍の監督下にあった電波は、はじめて民間にも開放されることになった。その結果、全国的に民放開局ブームが起こり、弱電業界に大きなビジネスチャンスをもたらしたのである(昭和二十六年九月一日に新日本放送、中部日本放送がまず開局された)。  磁気テープ開発  その恩恵を享受した最右翼は家電業界であった。ラジオ受信機の滞貨を大量に抱え、税金も払えなかった松下電器、早川電機(シャープ)などが、手もちの在庫を一掃し、増産に次ぐ増産を重ねても需要を捌ききれないという状況になった。  もっともはなばなしく脚光を浴びたのは東通工であった。定評のあったコントロールパネル(調整卓)が売れただけでなく、テープコーダが民放の番組編成の切り札になったからである。その辺の事情を当時の関係者は次のように語っている。 「あのときナマ放送でやっていたら、民放は一年はおろか、半年で潰れたでしょうね。それを支えてくれたのがテープレコーダだった。ところが、朝鮮動乱のおかげでアメリカの機械が手に入らなくなった。そこで急遽、東通工の機械導入に切り換えたが、初期のものは音が悪くてね。ずいぶん泣かされたものです」  その頃使われたテープコーダは、放送局向けにつくられた据付型の機械で、三回路のミキサーを内蔵しているのが特長だった。関係者がこの機械を定着させるまでには、たいへんな苦労を強いられた。テープレコーダがどんな機械か知らないスポンサーが多かったからだ。  それを象徴するような話がある。ある日、某民放局の営業担当者が、東通工の技術者とあるスポンサーを訪ねた。録音したテープを聞いてもらうためである。あらかじめ何日に訪ねると連絡してあったので、当日は社長以下の重役陣が会議室のテーブルを囲んで待ち受けていた。席に着いた営業担当者は商談に先立って、まず民放の役割とテープレコーダをなぜ使うかという話をはじめた。  ところが、社長はじめ全員が「こんなものに声が入れられるわけがない」といいはる。そうなると、民放の営業担当者では答えられない。そこで東通工の技術者が「このテープには磁気を含んだ塗料がついていて、それで声が録音できる」と説明した。だが、スポンサー側はまだ信じられないという顔つきをする。そのうち重役の一人がテープを取り上げ、いじくり回していると、テープがはずれバラバラにほどけてしまった。おかげでその日はレコーダにかけられず、改めて出直すことにしたという。  失敗話もあったが、この時期、東通工のテープコーダが民放の発足に非常に大きく貢献したことは紛れもない事実である。東通工の技術陣はこれをスプリングボードとして、新製品の開発、在来機の改良に全力を上げて取り組んだ。  その成果の一つが、木原の開発したポータブル型の磁気録音機(通称デンスケ)である。昭和二十六年、太平洋戦争の講和会議の取材のためアメリカに出張したNHKの藤倉修一アナウンサーがサンフランシスコ空港で、ソ連のグロムイコ外相の声を収録できたのも、このデンスケがあればこそであった。  視聴覚教育で基盤づくりを終えたテープコーダの需要が放送分野にまで拡がると、磁気テープの質的向上が重要な課題になってきた。前にも触れた通り、東通工が売り出したクラフト紙をベースにした磁気テープは、音声の録音ではあまり問題はなかったが、音楽の録音、とくにカスタネットのような高い音の場合は、アメリカ3M(スリーエム)社の「スコッチ」テープに比べいちじるしく劣っていた。これはテープ面と磁性粉の抗磁力特性が悪いためであった。  テープ開発の責任者である戸沢は、化学屋の天谷、徳本を督励して、磁性粉の改良と開発に取り組ませるかたわら、自身も磁性粉の針状結晶の研究に力を入れていた。  その直後、井深宛に一通の手紙が届いた。差出人は東北大学計測研究所の所長、岡村俊彦教授だった。 「貴社は磁気テープを開発、商品化されたが、当研究所でも磁性鉄粉並びに、その酸化物の研究を行なっている。同じ方面の研究であるから一度討論してみたい。当研究所の磁性粉を同封したので批評してもらいたい。またよろしければ、貴社の磁性粉も測定してみたい」  東通工と岡村教授の交流はそれからはじまった。岡村教授の研究するフェライト系磁性材料は、テープレコーダのヘッドや磁気テープの製造に必要欠くことのできない貴重なものと判断したからであった。盛田の実弟で、その年(昭和二十六年)東京工大電気化学科を卒業、東通工の一員になったばかりの盛田正昭(のち副社長、相談役、ソニー生命保険会長)を、技術習得のため岡村研究室に派遣したのも、将来への布石の一つであった。  民放の開局ラッシュが最盛期を迎えた二十六年後半になると、日本の放送界もスコッチ製のアセテートベースの録音テープを使いはじめた。テープ表面が平滑で、周波数特性が格段に優れているからだ。そこで東通工もアセテートベースの入手を考え、富士写真フィルムにはたらきかけるなど八方手をつくしたが、いずれも実らなかった。二十七年に入ると、アメリカ製のアセテートベースの録音テープの輸入規制が解禁され、市場に出回るようになった。このため東通工は次第に窮地に追い込まれる。この急場を切り抜けるにはアセテートベースを輸入するしか手がない。だが当時、戸沢たちはどのメーカーのものを、どこを通して買えばよいのかまったく知らなかったのである。  そんなある日、戸沢は、所用があって購買課に顔を出した。すると、「戸沢さん、戸沢さん」と、誰かに呼び止められた。振り返ると、見馴れぬ外人を連れた井深が足早に部屋に入って来た。そして「この人がセラニーズ社のアセテートベースを輸入してあげるというんだ。一緒に話を聞かないか」と、はずんだ声で戸沢を誘った。  その外人は在日貿易商「二〇世紀商会」のパーシィ・プリーンという人で、セラニーズ社の駐日代表を兼ねているという触込みであった。ある程度、日本語も話せる。おかげで話もトントン拍子にすすみ、アセテートベースの購入話がやっとまとまった。  やがて、待望のアセテートベースが入荷する。戸沢たちはそのテープをベースに磁性粉を入れた塗料の試し塗りをしてみた。ところが、なぜか塗料がペロッとはがれてしまう。テープ表面が平滑すぎるのである。戸沢たちは連日のように会議を開き、対応策を検討した。その結果、ビニールホルマー系の塗料を開発、それで下塗りし、その上に磁性材塗料をコーティングする方式を考え出した。こうして日本でもアセテートベースの磁気テープができるようになり、テープレコーダの普及にいちだんとはずみがついたのである。  トランジスタ  昭和二十七年三月、井深は海外事情視察のため、三ヵ月ほど渡米することになった。アメリカにおけるテープレコーダの使用状況、メーカーの対応などを調べ、参考にしたいというのが主たる目的であった。  羽田で家族や会社の人に見送られ、井深はノースウエストの定期便に乗り込んだ。四発のプロペラ機である。機上の人となった井深は珍しく緊張していた。はじめての海外旅行だし、読み書きはある程度できても、会話が心もとない。それが緊張感を誘ったのだ。  定刻、羽田を飛び立った飛行機は機首を北北東に向け飛び続ける。途中、アリューシャン列島沿いの小島に立ち寄り、燃料を補給、翌朝、アンカレッジに到着した。ここで井深は鼻白む思いを味わった。入国審査の手続きを、白人、黄色人種、黒人ごとに差別していたからだ。クリスチャンでもある井深はこれにはショックを受けた。アメリカ人のいう民主主義とはこんなものなのかと思ったのである。  後味の悪さをふっきるように入国ゲートを出た井深は、ロビーを横切り、ノースウエストのカウンターまで足を運んだ。予定のコースは、アンカレッジからシアトルに飛び、ニューヨーク行きの便に乗り換えることになっている。ところが、肝心のニューヨーク便は、四日ほど待たなければないことがわかった。もっとも、その間は、航空会社の負担でホテルに泊めてくれ、市内観光までさせてくれたので、それほど不自由をしなくてすんだ。  やがてニューヨークに着いた井深は、はじめて接する大都会に思わず目を見張った。道路には車があふれ、街中は活気に満ちている。夜ともなれば、さまざまな色のネオンや照明灯がこうこうと輝き、巨大な不夜城に一変する。 「これはたいへんな国に来たものだ」と、井深は驚いた。さらに井深の目を奪ったのは、中古車販売店にズラッと並んだ自動車だった。年式が古いとはいえ、日本なら高級車として十分通用する大型車ばかりだ。もともと車好きの井深は、よぶんな金があれば、買って乗り回してみたかったに違いない。残念なことに、その頃日本は出国が規制され、外貨の持出しもきびしく制限されていた。一日の滞在費も一〇〜二〇ドル程度で、うかつにタクシーにも乗れないというのが日本人旅行者の実情だった。  井深が、ニューヨークに到着後、最初に訪ねたのは日商(現日商岩井)のニューヨーク支店である。義父の前田の友人で、当時、日商の社長をしていた西川政一の紹介で、山田志道という人に会うためであった。山田は戦前、日商の社員として活躍していた日系アメリカ人で、退職後もニューヨークにとどまり、株の仲買人をして生計を立てていた。人柄がよかったせいか、現地の人の受けもいいし、アメリカの事情にもくわしい。井深にとってはうってつけの案内人だったわけである。  山田は、井深のために労を惜しまず世話をやいてくれた。「手もちの外貨が少ないので、ホテルに泊まるのがもったいない」といえば、手頃なアパートを探してくれる。こういう工場が見たいといえば、アポイントをとって連れて行ってくれる。好奇心の旺盛な井深にどれだけ役立ったかはかり知れなかった。井深は、旅先から日本にいる木原に、こんな国際電話を入れている。 「木原君、今日は、オーディオフェアですごい音楽再生を聞いたんだ。演奏は両耳の位置にくるよう二本のマイクロフォンを離してセットして、音を二チャンネルで録音し、再生のときはそれを別々に両耳のイヤフォンで聞くようにしている。これ、いまのうちの録音機にちょっと手を加えればできるような気がするので、僕が帰るまでに調べておいてくれないか」  電話をもらった木原は、井深が何をいわんとしているかすぐわかった。さっそく自分なりのアイデアを加え、機械の開発に着手した。これがのちに立体録音機「ステレオコーダ」に発展していく(拙著『日本の磁気記録開発』参照)のだが、もう少し、ニューヨーク滞在中の井深の行動を追ってみよう。東通工を世界の檜舞台にのしあげるきっかけになったトランジスタとの出会いにつながるからだ。  ウエスタンエレクトリック(WE)社が、「トランジスタの特許を望む会社に特許を公開してもよい」といいだしたのは、この前後のことだった。井深はこのニュースをアメリカの友人から聞いた。友人は、わざわざ関連書類を取り寄せ、井深のアパートまで届けてくれた。書類に目を通すと、特許使用料は二万五〇〇〇ドル(九〇〇万円)と書いてある。 「トランジスタか。おもしろそうだが、はたしてものになるかな」  そのとき井深は、その程度の考えしか浮かばなかった。とはいえ、トランジスタを全然知らなかったわけではない。それどころか、昭和二十三年から二十四年にかけ、日本の物理学会や一部の電気技術者の間でトランジスタ論議が活発になった頃、製造部長の岩間とその可能性について話し合ったことがある。「現段階では将来性はない」というのが二人の結論だった。学生時代、無線の研究で使った経験のある鉱石検波器を連想してそう判断したのである。  鉱石検波器は、方亜鉛鉱など特種の鉱石の表面に針を立て無線波を検波する装置で、鉱石ラジオに昭和初期から応用されていた。真空管が発明されてからは、ごく限られた用途に使用されているのみだったが、真空管自体の性能がまだ不安定であり、ガラス管が割れたりすることも多かった。そのため戦時中は鉱石検波器がレーダーの検波器として重用されたこともある。しかし鉱石検波器は取扱いが面倒で、ちょっとした操作ミスでも感度に微妙な影響が出た。そんなところは戦後にベル研が発明した点接触型トランジスタと非常によく似ている。井深はそれを思い出し将来性がないと判断したわけだ。  しかし、知人が届けてくれた文献を見ると、発明された当時と違いトランジスタの性能もよくなり、実用化の道も拓けてきているらしい。案外、トランジスタはおもしろい素材かもしれないと、井深は思い直したが、そのときはトランジスタの将来性についてそれ以上落ち着いて考える暇がなかった。  特許権防衛  帰国の日がだんだん迫ってくる。連日多忙な日を送ってきたせいか、疲れも目立ってきた。だが井深は、下宿先のアパートに戻っても、頭が冴えて眠れない夜が多かった。これまで見聞きした情報やできごとをどうやってみんなに知らせるか、それをいかに活用するかといった考えが、脳裏に次々に浮かんでくるからだ。気を紛らすつもりで、改めて東通工の将来を考えることもした。いま確かにテープコーダは売れている。だが、そのために大学、高専出の若い優秀な技術者を何人も抱え込んだ。この人たちを将来、活かすにはどうしても次の目標が必要だ。それを何にするか。 「トランジスタの実用化がいい、技術的には未解明の問題がたくさんありそうだが、うちの技術者は新しいものに首を突っ込むのは大好きだ。この仕事はうってつけかもしれない」  考えがまとまるとアクションは速い。井深の若いときからの生活信条であった。通訳兼案内人の山田に自分の考えを打ち明け、WE社に連絡してくれるよう頼んだ。山田はさっそくWE社の特許関係の人と接触をはじめたが、なかなか面会の日取り調整がつかない。そのうち井深が日本に帰る日がきてしまった。そこで井深は、後事を山田に託し帰国することになった。  三ヵ月ぶりに日本に戻った井深は、ふたたび多忙な工場生活に戻った。もちろん、トランジスタ実用化の話も盛田に打ち明け納得してもらった。しかし、それはまだ先の話で、当面の課題を解決することが先決だった。やっかいな問題が一つあった。アメリカの在日輸入業者「バルコム貿易」と特許がらみの論争を起こしていたことである。  民放の開局ラッシュで、テープコーダの需要が急速に拡がったことは前にも触れたが、これに着目し、アメリカ製のテープレコーダを、事務用品、自動車部品、または在日外国人向けとして通産省から輸入許可を受け、百貨店など国内販売業者を通じて売りはじめた貿易会社があった。アンペックス社の代理店と称する「バルコム貿易」がそれである。  これを知った井深と盛田は、さっそくそのテープレコーダを購入、分解してみた。その結果、東北大の永井教授の発明した交流バイアス法とまったく同じ技術でつくられていることがわかった。井深はおこった。東通工の保有する特許権を侵害していると判断したからだ。 「永井先生は、戦前、日本で特許を取ったあと、すぐアメリカにも特許を申請されたが、太平洋戦争のおかげでウヤムヤになってしまった。それから一年半ほどしてアメリカのM・カムラスという人が、永井方式とまったく同じ内容の技術を考え出し、アメリカで特許を取った。同時に日本以外の主要国にも特許を出願し、権利を取得していたんですね。しかし、日本では永井先生の権利が確立している。そこで私どもはバルコム貿易に対し再三警告した。ただちに輸入をとりやめろ、それがいやなら特許料を払えとね……」  ところがバルコム貿易は、東通工の警告を頭から無視し、アメリカ製品の優位性を強調した宣伝をする。東通工が抗議すると「敗戦国のくせになまいきなことをいうな」といわんばかりの態度を取った。これで堪忍袋の緒を切った井深は、さっそく告訴の手続きをとった。昭和二十七年九月一五日の朝日新聞は、それを次のように報じた。 「選挙戦に、報道放送に、教育用に、今や〈時代の花形〉になっているテープレコーダの特許権をめぐって、日米業者間で激しい争いが行われている。この特許争いに通産省内でも電気通信機械課と特許庁通信測定課とが対立し、その成り行きが注目されている。この問題は国産テープレコーダの三分の一をつくっている東京通信工業が、アメリカの輸入業者バルコム貿易を相手どり、アメリカ製テープレコーダの輸入、販売、使用、陳列、移動などを禁止する仮処分を東京地裁に申請、その決定により十五日、東京ではバ社および日本橋高島屋の二ヵ所、大阪では心斎橋筋のミヤコ商会一ヵ所計三ヵ所の輸入テープレコーダ数十台を、いっせいに仮差し押さえしたためにたちまち表面化した」  国産初のテープレコーダの開発で注目されているとはいえ、当時の東通工は資本金二〇〇〇万円、従業員二〇〇名足らずの中小企業。その東通工が、四〇〇万円近い供託金を積み、強硬手段を取ったことに関連企業は一様に目を見張った。特許権の共同保有者である日本電気が静観しているのにである。  業界の一部には「東通工は別の意図をもっているのではないか」と、疑いの目を向ける人もいた。だが、井深、盛田はそんな下心があって強硬手段を取ったのではない。この問題は、日本の産業界全体にかかわりのある不信行為であり、これをウヤムヤにしておけば悪い先例を残す。相手がアメリカであれ、絶対にあとにひけないと、悲壮な決意を固めていたのである。  東通工の強気な姿勢に批判的だったのは、バルコム貿易にテープレコーダの輸入を許可した通産省電気通信機械課である。その根拠として次のような見解を担当課長が述べている。 「東通工は自分の権利を正しく行使した。だが、その権利を隠れみのにして、交流バイアス法によるテープレコーダの製造権を独占し、他社が正当な特許使用料を払って、同方法によるテープレコーダをつくることまで拒否している態度は、通産省としても納得しがたい」(二十七年九月二五日、朝日新聞)  これは事実を誤認した意見といわざるを得ない。交流バイアス法の特許は日本電気と共有であって、東通工一社が独占していたわけではない。テープレコーダをつくる気があるならば、日本電気と話合いをする努力さえすれば、つくることも可能だったはず。東通工を一方的に批判したのはおかしな話であった。  勝訴  もう一つの担当部局、特許庁通信測定課は逆に「東通工のとった措置は正しい」と、全面的に支援する姿勢を明確にした。その背景には、バヤリース・オレンジや日本コーラ事件などで、日本のメーカーが、アメリカから意匠・商標権の侵害などで、手痛い目にあわされたことに対する反発も多分にあったかもしれない。  とはいえ、この通産省と特許庁の対立が問題をいっそう複雑にしたことは紛れもない事実であった。その辺は、当時、NHKにいた島茂雄の話を聞いてみるとよくわかる。 「あの問題は、井深君から事前に話があったので、ある程度事情は知っていました。ただあのころは、ぼくも井深君も若かったし、非常に向っ気が強かった。正しいと思ったことはおおいにやるべきだなんていったかもしれません。しかし、ぼくはあくまでもNHKの人間。だからえこひいきはできない。したがって、バルコム貿易が売込みにくれば、一応、検討する。そしてものがよければ購入せざるを得ないわけ。そんな関係で、僕も上司の技術局長や副会長に呼ばれ、実際はどうなんだ、大丈夫なのかと、何度か聞かれたことがあります」  担当官庁や業界の受け止め方がマチマチだったせいか、バルコム貿易も黙っていなかった。占領軍の力を借りて東通工に圧力をかけてきた。井深が、東京丸の内の岸本ビルにあったGHQのパテントセクションに出頭を求められたのはそのためであった。  通知を受け取ったとき、井深は、一瞬いやな予感に襲われた。「そのまま巣鴨の拘置所にぶち込まれるかも……」と、思ったのだ。だが、それは井深の取越し苦労にすぎなかった。 「英語の達者な義父の前田多門と一緒に出頭したら、パテントセクションの大佐が意外に紳士的なんです。そこで事情を説明したら『オーケー、なんとか善処しよう』と約束し、あとはコーヒーを入れて僕等にすすめる。これでホッと一息ついたんです。おかげで翌年の五月に開かれた第一回の公判でも、われわれの主張が全部通り、その後の展開が有利になりました」(井深大)  この問題が全面的に解決するまでには、若干時間がかかった。途中からM・カムラスの特許権所有者であるアメリカのアーマー・リサーチ社が表面に出てきたからだ。同社は、アメリカをはじめ、世界二一ヵ国の特許実施権を取得していた。したがって、東通工は同社と技術援助契約を結ばなければテープコーダを輸出することができない。東通工にとって、こんな間尺にあわない話はなかった。  東通工は、アーマー・リサーチと直接交渉をはじめることにした。その場合、同社がM・カムラスの特許を取得する前に、永井特許がアメリカで公開されていた事実を証明しなければならない。その仕事をかって出た盛田は、八方手をつくして調べ上げ、やっと証拠を入手することができた。井深が飛び上がって喜んだことはいうまでもない。これを武器に、アメリカで訴訟を起こせばアーマー・リサーチの保有する特許は、社会の共有財産ということになり、効力を失うからである。  この事実を知ったアーマー・リサーチも、永井特許の合法性を認めざるを得なくなり、二十八年三月、訴訟を取り下げ、東通工の言い分通り和解することになった。  こうしてアメリカ勢の上陸を水際で防げただけでなく、永井特許を共有する東通工と日本電気は、日本で売られているテープレコーダ全部(放送局が買い上げていた大型のアンペックス製の機械を含む)から、特許使用料をもらい受けることができるようになる。また、アーマー社の責任を問わないことと引換えに、アメリカにおけるアーマー社の特許の無償使用権を得ることを認めさせた。しかもこの権利は、日本国内の他のメーカーに適用することもできる。ただし、権利を取得したメーカーが製品を輸出する場合は、その使用料の半分を東通工に払わなければならないという条件つきであった。つまり、東通工と日本電気は、永井特許を共有したことによって思わぬメリットを享受できたのである。  だが、これが業界の反発を招く原因になる。業界は永井特許の公開を求めてきた。なかには特許の盲点をついて、新しいシステムを開発、挑戦を試みるメーカーもあった。その先鞭をつけたのはオーディオマニアの技術者集団を自認する赤井電機の赤井三郎である。赤井は永井特許に抵触するのを恐れ、回路にちょっとした工夫をこらし、〈新交流バイアス法〉という技術を考え出した。そしてその回路を内蔵したオープンリール式のテープレコーダ・キット〈AT‐1型〉をつくりあげ、市場に参入してきた。二十九年八月のことである。  東通工は、さっそく赤井電機に「特許を侵害している」と厳重に抗議した。ところが、赤井は「われわれが独自に開発したもので、永井特許には抵触してない」と、つっぱねた。そこで東通工は、赤井電機を告訴し、解決を法の場に求めた。東通工対赤井のしのぎを削る開発競争はそれからはじまった。  一方、特許に縛られ、つくりたくてもつくれない同業他社は、赤井の巧みなゲリラ戦に拍手を送るとともに、東通工の頑なな姿勢を批判した。そして政治力と金の力にものをいわせ、陰に陽に圧力をかけてくる。儲かりそうなものなら意地も面子もかなぐり捨て、なんでも手がけたがる、いわゆる「技術タダ乗り論」である。それが日本の大メーカーのむかしからの図式といったらいいすぎだろうか。井深や盛田は、こうした業界の姿勢を苦々しく思っていた。ましてテープコーダは、自分たちの血と汗でつくりあげた技術であり、市場である。簡単に特許を公開するわけにはいかないと考えたのも当然であった。 6章  仮契約  話が前後するが、井深と盛田がバルコム貿易を相手に社運を賭けた争いを演じていた頃、ニューヨークでは山田志道がWE社に足繁く通い、トランジスタの特許取得のための交渉をすすめていた。しかし、最初WE社は山田の話にあまり関心を示さなかった。名もない小さな企業の代理人のいうことなど信じられないと思っていたのだ。  山田はそれにもめげず「東通工は可能性を秘めた魅力のある会社。将来、必ず伸びると思います」と、根気よく説得を続けた。その熱意にほだされたのかWE社の特許担当部長は「キミの言葉を信じ、一応検討してみよう」と約束してくれた。東通工が独力でテープコーダを開発したことに興味をもったのである。そして山田がもち込んだ資料をもとに、東通工の技術力、実績、財務内容など経営内容全般についてひそかに調査をはじめた。その結果、山田のいう通り、東通工は非常にユニークな存在であることを知った。 「あなたの会社に特許を許諾する用意がある。話合いによって、貴社をライセンシーにしてもよいと考えているので、誰か代表者を派遣してほしい」という内容のエアメールが東通工に送られてきたのは昭和二十八年初夏のことであった。  これを見た井深も盛田も手放しで喜んだ。しかし、契約をまとめるには外貨割当てが必要になる。東通工は幹部の一人を通産省に差し向け、それとなく通産当局の意向を打診してみた。応待に出た担当官は「とんでもない」と頭ごなしに拒絶した。真空管をつくっているならまだしも、たかだかテープレコーダであてた程度のちっぽけな企業に、貴重な外貨を割り当てるわけにはいかんというのである。それは表向きの理由であって、その背景にはテープレコーダの特許公開問題で通産当局の意向を無視していることに対するしっぺ返しのような気がしないでもなかった。  そんな事情があるとは知らないWE社は「当方は契約を取り交す準備が整っている。貴社の代表者はいつこちらに来るのか、至急連絡してほしい」と催促してきた。  通産省のすげない態度に困惑していた井深は、この手紙で腹を決めた。「一応、仮契約だけして、通産のOKが出たら正式にサインすればいいじゃないか」と決断し、交渉の全権を盛田に託した。  盛田にとってはじめての海外旅行である。三ヵ月の予定だった。井深に劣らず好奇心の旺盛な盛田は、この機会に先進国の実情を自分の目でシッカリ見ておきたいと考えた。そこでアメリカでの所用をすませたあと、ヨーロッパまで足を伸ばす計画を立てていた。  ところが、アメリカについた盛田は自信を失いかけた。何もかもが大きく、広く、多様だったからである。「こんな国を相手に戦争をしたことが、そもそも間違いのもとだった」と、腹の底から感じた。  盛田がニューヨークで会った最初の日本人は、井深とむかし馴染みのハム仲間であった谷川譲である。当時、谷川は山下新日本汽船のニューヨーク支店に勤務しており、現地に着いたら訪ねるようにいわれていたのだ。すっかりアメリカ人になりきっている山田志道と違い、着任間もない谷川は別のアメリカ観をもっているかもしれない。それを参考に旅をすれば視野が拡がるだろうという井深の配慮でもあった。谷川に会った盛田は、忌憚のない意見を聞いてみようと思った。 「谷川さん、WE社のような大企業が、われわれのようなちっぽけなところをまともに相手にしてくれるだろうか……」  自分の胸のなかにあるモヤモヤした気持ちが、つい言葉に出たのかもしれない。谷川は、諭すように盛田を叱った。 「盛田君、それはキミの思いすごしだよ。それにアメリカ人は、そんなことは全然問題にしない。これはおもしろいと思ったら、すぐ話に乗ってくる。その辺は日本人とまるで違うね。だから向こうの人に会ったら、自分の考えてることを率直にぶつけるといい。それでダメなら、最初から話はなかったものと思えばいいんじゃないかな」  指定された当日、盛田は山田志道と一緒にWE社を訪ねた。話合いのテーブルに着くと、谷川にいわれた通り、東通工のやってきたこと、実情、問題点など正直に話した。応待にあたったWE社の担当部長も、ときどき鋭い質問をぶつけるが、熱心に耳を傾ける姿勢は終始一貫変わらなかった。やがて話合いが終わると、盛田は担当部長から分厚いファイルを渡された。手に取って見ると正式の契約書が入っている。途端に盛田は肩の荷が一度におりたような気がした。しかし、これですべてが終わったわけではない。通産省の承認というやっかいな問題が残っている。そこで盛田は、井深との打合わせ通り、「通産のOKが出たら正式なものとする」という条件をつけて契約書にサインした。  次の日、盛田はWE社のトランジスタ工場を見学させてもらった。日本人がこの工場に足を踏み入れたのはこれが最初であった。その帰り際、量産をはじめている接合型トランジスタと関連部品、それとベル研がまとめた有名な「トランジスタ・テクノロジー」というテキストをみやげにもらい、意気揚々とWE社をあとにした。サインを交した契約書は、その日のうちにエアメールで東京に送った。こうして渡米の目的を果たした盛田は、次なる視察地であるヨーロッパに向けて旅立った。  よそにないものをつくる  盛田は西ドイツ、オランダの代表的な企業を見て回り、一一月中旬、日本に帰って来た。WE社との交渉の経過、工場で見聞したことをすべて井深に報告、そのうえでトランジスタを何に使うか改めて話し合った。盛田はWE社の技術者から補聴器をつくれとアドバイスを受けている。だが、井深も盛田もはじめからそんなものをつくる気はなかった。 「トランジスタをつくるからには、広く誰もが買ってくれる大衆商品を狙わなくちゃ意味がない。そんなことを考えるとラジオがいちばんいい。盛田君、僕等はラジオに挑戦してみようじゃないか……」  井深は、盛田にそう提案した。盛田もその意見に賛成した。トランジスタの原理を考えればやってやれないことはないと判断したからである。  これは、当時としてはたいへんな冒険であった。WE社やRCAなどで実用化されたトランジスタは大半が低周波用のものだった。ラジオ向けの高周波トランジスタ(グローン型)ができるのは、まだ先のことといわれていた。にもかかわらず、井深はあえてラジオに挑戦することを決めた。創業以来のポリシーである「よそにないものをつくる」という夢を実現するためであった。  さっそく技術部長の岩間和夫をリーダーとするトランジスタ開発チームが編成された。メンバーは、岩田三郎(東大理学部物理科卒)、天谷昭夫、茜部資躬(阪大工学部機械工学科、元愛知航空機技師)などで、ちょっと遅れて塚本哲男、安田順一が加わった。そして盛田がもち帰った「トランジスタ・テクノロジー」をテキストに猛勉強をはじめた。  しかし、この仕事をすすめるには、通産省から外貨割当ての承認をもらわなければならない。そこで井深自身が通産省に陳情に出向いた。そして「当社はWE社とトランジスタのライセンシー契約を結びました。ついては特許料を払いたいので外貨割当てを受けられるよう便宜をはかっていただきたい」と申し入れた。これを聞いた電気通信機械課の担当官は、「通産省の認可も受けず勝手に契約書にサインしてくるとは、もってのほかだ」と、つむじを曲げてしまった。バルコム貿易の件があっただけにことさら拒絶反応を強めたのだ。  井深はその後、人を介し、何度も通産当局にアプローチを試みたが、担当官は取り合おうとしなかった。だが、天運は井深を見放さなかった。二十八年秋の終わり頃、通産内部で汚職事件が発覚し、電気通信機械課のスタッフが全部入れ替ることになった。これが東通工に幸いし、急転直下、外貨割当て承認がおりる見通しがついたのである。  二十九年二月、東通工が申請した外貨割当て申請は外貨審議会で正式に認可された。それを機会に、井深は岩間を伴ってふたたび渡米、WE社と正式に契約を交した。そのあとアレンタウンの工場に案内された。井深がWE社の技術者に「トランジスタをつくって何に使うつもりだ」と聞かれ、「ラジオに使う」と答えたら、「それだけはやめておけ」と忠告されたのはそのときであった。「何しろ、向こうでもトランジスタの生産をはじめて三年目なのに、歩留りが悪くて困っていた。電子交換機に使っているというので見せてもらったら、たった一本しか使っていない。それも試験的に使っているだけなんです。こんな調子だから、民生用といっても、せいぜい補聴器にしか使えないというのが向こうの言い分だったように覚えています」(井深大)  WE社と契約調印を終えた井深は、工場見学のために逗留する岩間と別れ、空路日本に戻った。残った岩間は、現地に三ヵ月ほど滞在し、毎日のようにアレンタウンのトランジスタ工場に通った。使われている製造装置を見るためだ。その過程でわからないことがあれば馴れない英語でしつこく聞く。そして夜、ホテルに戻ると記憶を呼び戻し、製造装置をスケッチし、それを報告書にまとめ東京宛に送るわけだ。 「なぜそんなことをしたかといいますとね。うちとWE社の契約は特許実施権だけで、他社のようにノウハウ契約じゃなかった。したがって、装置の仕様書とか、そういうたぐいのものはいっさいない。そこで見聞した情報をどんどん送ったんです。報告書は一回に、普通の便箋に小さな字でびっしり書いたものが五〜一〇枚、それを二日か三日おきに出していたんだから、われながらよく頑張ったものだと思います」(岩間和夫)  これがきっかけで、その後アレンタウンに出張する社員は、必ず詳細な報告書を旅先から送ることが義務づけられたというから罪つくりな話であった。  定期便のように送られてくる岩間のレポートで悪戦苦闘を強いられたのは、東京の開発部隊である。唯一の教科書である「トランジスタ・テクノロジー」には、製造装置の写真や図面はいっさい載っていない。とすれば、頼りは岩間のスケッチだけ。それをみんなで検討し、ともかく設計図をつくり、試作してみる。そういう仕事は機械づくりのベテラン茜部が担当した。  とはいえ、東通工の機械場にあるのは、小型の旋盤が二台、ボール盤一台、フライス盤一台程度でしかない。これだけの設備でものをつくるのはしょせんムリな話。そこで社外の下請け工場に依頼、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、その純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライングマシン)など、一連の装置をつくりあげることができた。  スライングマシンには、ダイヤモンド砥石と精密高速回転する砥石軸が必要だった。ところが、当時、こうした特殊な機械をつくってくれるメーカーはどこにもなかった。そこで盛田はダイヤモンド砥石だけはアメリカから調達してくれた。あとの機械本体は茜部が東京・古川橋の中古の工作機械屋に雨ざらしになっていた赤錆びだらけのスライス盤を見つけ、これを改造整備してやっとの思いでつくりあげたものだった。  歩留り五パーセント  一通り装置が揃うと、物理屋の岩田、塚本、化学屋の天谷が中心になってゲルマニウムの結晶づくりに取り組んだ。特性の測定は安田が受け持った。岩間が帰国する一週間前の四月には点接触型トランジスタ(国内五番目)、五月にはアロイ型トランジスタ(同二番目)の試作に成功する。開発陣はその余勢を駆って、七月には二つのタイプのトランジスタを使ってラジオをつくっている。もっとも、井深にいわせると、「とても商売になるようなシロモノでなかった」そうだが、結晶づくりから製品試作までのペースは驚くべき速さだったといえる。  ところで、ベル研究所のショックレー博士が発明した接合型トランジスタにはアロイ型とグローン型の二つのタイプがあった。このうちRCAで改良、工業化されたアロイ型トランジスタはつくりやすいが、ラジオ向きの高周波特性をもつものは当時、まだできていなかった。一方のグローン型は高周波特性はよいが歩留りが悪い。これはエミッタとコレクタにはさまれるベースのつくり方に難点があったためだ。  当時、補聴器などに使われていたトランジスタのベースは〇・三ミリ程度の厚さだが、ラジオ用になると〇・〇五〜〇・〇三ミリという超微薄でないと使いものにならない。これをつくるのが容易でなかったのだ。そのせいか、このあとトランジスタ製造に参入した日本の大多数のメーカーはRCAで生まれたアロイ型を採用している。これに対し、東通工は、誰も見向きもしなかったグローン型に目をつけた。理由はただ一つ。グローン型のほうが高周波特性がよく、ラジオ向きだったからである。  これは東通工技術陣にとって大きな賭けであった。テープコーダであてたとはいえ、会社ができて六年目、資本金五〇〇〇万円になったばかりの小規模企業である。にもかかわらず、海のものとも山のものともわからないトランジスタの実用化に手を出した。まさに会社の運命を左右する勝負であった。  本格的な試作に取り組むと、それがいかにたいへんであるかがわかってきた。一キログラム二〇〇〇円近くする高価なゲルマニウムを使い、テキスト通り、何回試作に挑戦しても、条件を充たすものは一つもできない。その辺の苦しさを井深は次のように振り返る。 「試作に着手して六ヵ月ほどたった頃でしたが、すでに設備投資を含めて、一億円ぐらい注ぎ込んでいたでしょうね。銀行にはラジオのことは一言もいわず、テープコーダが売れてますからといって金を借りたが、あの頃がいちばん苦しかったですね」  しかも、ラジオをものにするまで、あとどのくらい資金が必要なのか、井深にも皆目見当がつかない。そんな東通工の実情に不安を感じたメインバンクの三井銀行は、資金の貸出しを渋るようになった。そこで井深は、自ら銀行に出向き、トランジスタの原理とその可能性を三時間にわたって説明、審査部の担当者を納得させるなど、いうにいわれない苦労をしている。  井深が夜もろくに眠れないと人知れず悩んだのはその頃のことであった。だが、心の悩みをけっして表情に出さなかった。それどころか、逆に陽気に振舞うことが多かった。 「苦しいときの自分の役割は、私なりに心得ているつもりです。何かに行き詰まったり困ったことがおきると、違った角度から攻めちゃどうかとか、某君は分野が違うから新しい見方ができるかもしれない、アレを呼んで来いとか、それを現場や会議の席でやるわけ。そんなことをワァワァやっているのを、ハタで見ると、陽気に見えるんじゃないですかね」  と、井深は自分なりに分析する。そういう場面の井深は、経営者でなく、技術の表も裏も知りつくしたプロジェクト・マネジャーとして、メンバーと苦楽をともにしようと努力する。それがいまでも社員に慕われるゆえんである。  やっとトランジスタの歩留りが五パーセントになったとき、井深はラジオ生産の指令を下した。このときは、周りのものが驚いた。その無謀さにである。  とりわけ岩間をリーダーとする開発陣は〈時機尚早〉と反対した。歩留り五パーセントで生産開始すれば、墓穴を掘ることになりかねないと心配したのである。井深の親友で、NHK在職中の島も「トランジスタのような高価なものを使って、民生用の機器をつくるなんて無茶だ」と忠告したほどだった。だが、井深は自説を曲げなかった。その理由を次のように強調した。 「歩留りが悪いってことは、僕にいわせれば非常にいいことなんだよ。一個でもつくれたら、あとは努力すればよくなる可能性があるということなんだから……。それに、歩留り五パーセントは商業ベースにのるギリギリの線だと、ぼくは思う。歩留りは必ずよくなる。かりに歩留りが五〇パーセントになれば値段は一〇分の一になる。そうすれば大幅なコストダウンもできるし、大きな利潤が得られるんじゃないかな」  いわれてみれば確かに理にかなっている。そうなると誰も反対できなくなった。こうして東通工は、井深の判断にしたがってトランジスタラジオの生産に踏みきったのである。  おそらく、これが並の経営者だったら、とてもこんな無謀な決断は下せなかったに違いない。失敗が怖いからだ。オーナー経営者の井深にはそれがない。  その井深は決断という言葉を嫌う。まず目標設定をやり、それをどう詰めていけばよいかを考えれば自ら問題解決の時期に到達する。それが井深の持論であった。  それに井深は創業以来、開発担当者と苦労をともにしてきただけに、部下の気心もよく知っている。彼等のもつ潜在能力も評価できる。あとはその能力とやる気をどうやって引き出すか、そのタイミングさえ誤らなければトランジスタラジオは必ずものにすることができると、井深は自分なりに緻密な計算を立てていた。その格好な動機付けが歩留り五パーセントだったというのである。  人材スカウト  この前後、東通工はふたたび外部の人材を積極的にスカウトしている。吉田進(昭和二十年東北大工学部電気工学科、西川電波を経て二十八年入社。副社長、アイワ会長)、森園正彦(同二十四年東大第二工学部電気工学科、西川電波を経て二十八年入社。のち副社長、相談役)、高崎晃昇(同十二年北大理学部物理科、東北大助教授、金属材料研究所を経て二十八年入社。のち常務、顧問)、江崎玲於奈(同二十四年、京大理学部物理科、神戸工業、オリジン電気を経て三十年入社。筑波大学学長)、植村三良(同十四年東北大工学部電気工学科、助教授、鉄道技研を経て三十年入社。のち研究部長、マコメ研究所長)、鹿井信彦(同二十八年東北大工学部電気通信科、日本無線を経て三十年入社。副社長)などで、いずれも井深の人柄や東通工の仕事に魅力を感じ参画した人ばかり。  たとえば、吉田と森園のいた西川電波はピックアップやカートリッジなどをつくっていた音響機器メーカーである。そこへ、当時、芸大の学生だった大賀が顔を出すようになった。そのうち二人が大のオーディオマニアだったと知った大賀は、強引に東通工入りをすすめた。それが機縁で二人揃って東通工入りしたもの。  高崎の場合は、東通工が資金援助をしていた東北大科学計測研究所の岡村俊彦教授の義弟にあたる人。その岡村が、昭和二十八年、新しく開発したフェライトの特許契約の代理人をまかされたことが、井深、盛田との出会いにつながるのである。そのいきさつは、拙著『日本の磁気記録開発』(昭和五十九年一月、ダイヤモンド社発行)にくわしく述べているので省略するが、この頃、東通工は、テープコーダの市場拡大とトランジスタラジオへの挑戦という大きな課題を抱え、人手不足で悩んでいた。それだけに、これはと思う人材を見つけると、積極的にはたらきかけ、責任のある仕事をまかせるように仕向けた。外部の新しい血を導入し組織の活性化をはかろうという、井深ならではの経営戦略であった。  新しく東通工の禄を食むようになった人びとは、一ヵ月もすると生え抜きの社員と見分けがつかなくなる。うまく職場の雰囲気に溶け込み、のびのび仕事をやるようになる。高崎がその典型的なケースである。  井深、盛田のたっての要請で、仙台工場の建設とフェライトづくりをまかされた高崎は、井深、盛田の〈けれん味〉のない性格にいっぺんで惚れ込んでしまった。もともと高崎は、東京生まれの東京育ち。高等学校はPCLの近くにあった成城学園高等部(ちなみに、テープコーダの普及活動に奔走していた倉橋は、成城学園高等部時代に一年後輩だった)、仙台では、東北金属の研究課長と大学講師の二足のわらじをはいた経験もある。そんな経歴のせいか東通工入りした高崎は水を得た魚のように働き出し、仙台工場が稼働しはじめた頃にはリーダーの一人になりきっていた。これが井深、盛田の適材適所の人材活用法であった。 〈金食い虫〉といわれたトランジスタの歩留りが少しずつ向上し、トランジスタラジオの試作が可能になったのは二十九年秋頃である。そして一〇月はじめには、日本最初のトランジスタ、ゲルマニウム単結晶の披露会を東京・丸ノ内の東京会館で開いた。さらに一〇月末には、東京の三越本店でトランジスタとその応用製品の展示即売会を開き注目された。このとき出品したのは、ゲルマニウム時計、試作第一号のゲルマニウムラジオ、補聴器などであった。接合型トランジスタは四〇〇〇円、ダイオードは三二〇円という価格をつけて展示した。当日、そのトランジスタを買っていく人が何人かいた。これには井深も「いったい、何に使うつもりなのか」と驚いたそうである。  そんな矢先、東通工開発陣をガッカリさせる情報がアメリカから届いた。「世界初のトランジスタラジオ発売」というニュースが飛び込んできたことだ。二十九年一二月中旬のことであった。発売したのは、アメリカの電機メーカー、リージェンシー社で、テキサスインスツルメンツ社から規格はずれのトランジスタを買い、特性のいいものを選んで組み立てたものとわかった。すべて独自技術でつくろうと努力している東通工のラジオとは、本質的に違う。だが井深は「世界初をめざしていたわれわれのショックは大きかった」と述懐するほどくやしがった。  しかし、結果的にはそれでよかった。アメリカのラジオを上回るものをつくり、一矢を報いようという気が開発メンバーの間に満ちたからだ。そのため井深自身も足を棒にして、小型部品をつくるメーカーを探し歩いた。そして、ポリバリコンのミツミ電機(調布市・森部一社長)とスピーカーのフォスター電機(昭島市・篠原弘明社長)を見出した。 「ミツミの名前は雑誌の広告で知ったんだが、場所を探すのに一苦労した。しもた屋風の工場だし、いくら歩いてもわからない。二度目にやっと大岡山の工場を探し出したんです。フォスターじゃおこられてね。ああいうところは職人が多い。小さなスピーカーがほしいといったら、スピーカーは大きければ大きいほどいい音が出るんだと、頭ごなしにどなられたものです」  その苦労が実り、接合型トランジスタを使ったスーパーラジオ〈TR‐52型〉の試作に成功する。昭和三十年一月のことである。これを契機に東通工は、製品のすべてに「SONY」の商標を入れることを正式に決めた。これは井深、盛田が考えに考え抜いて選んだブランド名であった。 「われわれは生まれたばかりの小さな企業だが、将来への可能性を秘めた夢のある会社」ということを強調したかったのである。  意地と誇り  話は変わるが、少年時代、「SONNY」の愛称で両親や近所の人に可愛がられたテキサス生まれの風雲児ハワード・ヒューズのその後の消息に触れておきたい。  当時、ハワード・ヒューズは五〇歳、事業家としてもっとも脂の乗った年代だったはず。事実、父親の遺産ともいうべきヒューズ工作機械をはじめ、ヒューズ航空機、RKOラジオ映画、RKOシアターズ、トランス・ワールド航空の各社を傘下におさめた〈ヒューズ帝国〉の独裁者として君臨していた。しかし、ヒューズ自身の言動には、かつてのような覇気はどこにも見出せなかった。若い情熱を燃やして取り組んできた映画づくりと、未開拓の空の征服から身を引いてしまったことが、それを裏書きしている。そのせいか、エレクトロニクス部門の好況で気を吐くヒューズ航空機以外の企業は、いずれも膨大な赤字を抱え気息奄々の状態だった。「ヒューズは自らの手で帝国の清算をもくろんでいる」と一部マスコミが報じたのもそのためであった。  テキサス生まれの〈SONNY BOY〉に代わって日本の〈SONY BOY〉が、エレクトロニクス大国のアメリカを舞台に一大旋風を巻き起こすことになろうとは、当時、誰一人予測したものはいなかった。  その先兵の役割を果たすのが盛田昭夫であった。三十年二月、盛田は自社製品売込みのため単身渡米した。二ヵ月の予定だった。手にした鞄のなかにはできたばかりの国産初のトランジスタラジオ〈TR‐52型〉のサンプルが何台か入っていた。  最初のセールス活動だけに多少は苦労したが、それでも、マイクロフォン一〇〇〇個と放送用テープコーダ(デンスケ)一〇台の売込みに成功した。だがもう一つの目玉商品であるトランジスタラジオの商談は、いっこうにはかどらなかった。二九・五ドルという価格もさることながら、どこへ行っても「そんな小さなラジオは、アメリカ人は見向きもしない」というのである。しかし、盛田はそれにもめげず、小さなラジオのメリットを根気よく説きながら販路を探し回った。  時計で有名なブローバ社から「その値段で一〇万台注文してもよい」という引き合いが入ったのはその直後であった。これには盛田も肝をつぶした。いまの東通工の生産能力の数倍に匹敵する量だからである。ところが、それにはやっかいな条件がついていた。ブローバ社のブランドをつけるということだった。ブローバ社の仕入れ部長が漏らした「SONYの商標なんて誰も知らない。その点、うちのブランドは広く知れ渡っているから売りやすい」という言葉に盛田は反発を感じた。  会社は小さくとも、自分たちの仕事に誇りをもっている盛田は「これは断わるべきだ」と思った。しかし、自分の一存で決めるわけにはいかない。そこでホテルに帰ると、すぐ日本に電報を打った。 「一〇万台の注文を受けた。しかし、彼等のブランドをつけるという条件がついている。したがって、断わるつもりだ」  折り返し井深から返電が届いた。「一〇万台はもったいない。商標などどうでもいいから注文に応じろ」というものだった。これには盛田もガッカリした。いつもの井深に似合わず弱気になっていたからだ。そこでもう一度、「断わりたい」と電報を打った。ところが、本社では結論が出ないとみえ、なかなか返事がこない。待ちきれなくなった盛田は、本社に電話をかけた。 「井深さん、僕は向こうの商標をつけるべきでないと思う。そのためにわれわれはSONYというネーミングを考えたはず。だからこのままでいこうじゃないですか。それに、かりに、一〇万台の注文をもらったって、いまのうちじゃこなすことができませんよ」  この一言が井深を飜意させる決め手になった。翌日、盛田はブローバ社に出向き、自分たちの意向を伝えた。はじめ冗談かと思っていたブローバ社の社員は、それが盛田の本心だと知り一瞬、あきれた顔をした。だがすぐ気を取り直し、あざ笑うようにいった。 「わが社は五〇年続いてきた有名な会社ですよ。これに対してあなたの会社のブランドなんて、アメリカでは誰も知りゃしない。うちのブランドを利用したほうがトクに決まっている。それが商売と違いますか」  もちろん、盛田も負けずにいい返した。「五〇年前、あなたの会社のブランドは、世間に知られていなかったでしょう。いまわが社は、新製品とともに五〇年後に向けて第一歩を踏み出そうとしているところです。たぶん、五〇年後にはあなたの会社に負けないぐらい、SONYのブランドを有名にしてみせますよ」  井深も鼻っ柱の強いことでは有名だが、盛田の負けん気は、それに劣らなかった。子供の頃から盛田家の後継者としてきびしくしつけられた経営者の意地と誇りがそうさせたのである。一見、思い上がりに見えた盛田の強引な商法も、結果から見たら決して間違いでなかった。東通工の首脳陣がそれを身をもって知ったのは、盛田が帰国した直後の三十一年五月のことであった。  五月といえば、初夏である。日差しも強くなれば、気温も上がる。行楽にはまたとない季節の到来というわけだ。巷では輸出好調を反映して消費ブームが起きていた。評論家やマスコミは、それを〈神武景気〉と呼んだ。東通工もその機運に乗じ、トランジスタラジオの国内販売に踏みきる決意を固め、TR‐52型の生産を開始した。そんな矢先、現場から思いがけない報告がもたらされた。キャビネット前面に取り付けてある白いプラスチックの格子に異常が発生したという内容だった。  生産中のTR‐52型はその外観から「国連ビル」という愛称で呼ばれていた。異常が起きたという白い格子状のプラスチックの形状が、国連ビルによく似ていたためである。  その白いプラスチックの部分が枠から次第に浮き上がり、ひどいものはそっくり返っている。それも一台や二台でなく、これまで生産した百数十台のうち、半数近くが同じような現象を起こしていた。これには井深も顔色を変えた。もちろん、生産は全面的に中止。入念な原因調査をはじめた。その結果、プラスチックの材質そのものに問題があったことが判明した。  開発商品第一号になるはずだったTR‐52型は、その年の五月、東京・晴海の国際見本市に出品されただけで市販は見送られた。幻の一号機になったわけだ。この事件で東通工は逆に救われたのである。盛田が渡米したとき、ブローバ社の言い分をのんで受注していたら、アメリカ市場で大きなクレームが発生し、東通工は大打撃を受けていたはず。それを未然に防げたのも盛田の強気な商法のおかげであった。  個人市場開拓  岩間を中心とする技術陣は、急遽、TR‐52型に代わる新型ラジオの試作に着手した。新型ラジオはデザインを一新しただけでなく、新しい機能を付加し、不安定なトランジスタをカバーしたことが特長であった。ユニアンプ(万能低周波増幅器)、プリント配線などがそれである。  当時のトランジスタは歩留りが悪いうえ、特性にバラつきが多いのが悩みのタネだった。大量のトランジスタのなかから良品を一つひとつ選別していたのでは、ラジオの商品化は計画通りすすまない。そこで電気担当の安田は局部発振用コイルを一二種類つくり、できあがったトランジスタと相性のよいコイルを組み合わせ、強引に発振させてしまおうと考えた。こうしてつくったのがユニアンプだった。  プリント配線は、すでにアメリカなどの先進国で実用化されていたが、日本では電解技術の立ち遅れや材料の入手がむずかしかったせいか、手がけているメーカーはどこにもなかった。それにあえて挑戦したのは、東通工に入って日の浅い佐田友彦(昭和二十四年東京物理学校化学科、二十九年入社)である。  佐田は、井深同様、富士見町教会の信者であった。しかも、父親が井深の義父前田多門と立教中学で一緒だった。その縁で東通工に入り、岩間のもとでトランジスタ製造用の化学薬品の調合などを担当していた。二十九年暮れ、プリント配線の自社開発の機運が持ち上がり、佐田がその仕事をまかされることになった。入社前、製紙会社で合成樹脂処理をした「濡れない紙」の開発を手がけた実績がかわれたのだ。その佐田はプリント配線開発の経過を次のように語る。 「最初、印刷屋にもぐり込んで、製版技術とシルクスクリーンの印刷技術を勉強させてもらいました。そのうえで何種類もの接着剤を買ってきて何度も試作してみたが、なかなかうまくいかない。基盤になる電解銅箔はよくないし、高品質の接着剤もなかったためです。日立の化成部(現日立化成)、江戸川化学(現三菱ガス化学)が熱心に売込みに来られたので、銅箔を試作してもらい使ってみたが、そっくり返ったり、割れたりで、全然使いものにならない。あれにはホトホト手をやきました」  そこで製品売込みのため渡米した盛田が、有名なラバ&アスベスト社を訪ね、接着剤付きの電解銅箔の輸入商談をまとめてきた。これでどうにかプリント配線基盤の自社生産が可能になったのである。  こうしてつくりあげたのが、五石のトランジスタを使った本格的なトランジスタラジオ〈TR‐55型〉(単三電池四本使用、価格一万八九〇〇円)で、発売は三十年八月初旬であった。それに先立ち七月下旬、東京・八重洲口の国際観光会館で発表会が行なわれた。この日、会場には一般客に交じって大手電機メーカーの関係者や、当時、花形だった真空管式ポータブルラジオのメーカー白砂電機(愛知県名古屋市)の首脳なども顔を見せていた。 「私も説明員としてあの発表会に出ていたが、正直いって不安でした。真空管式ポータブルラジオと比べると、どうしても音質が悪い。トランジスタの性能はこんなものか、たいしたことないじゃないかといわんばかりの顔をして帰った方が非常に多かったように記憶しています」  これは開発チームの一員だった塚本哲男の話だが、当時のトランジスタの開発の状況からすればやむを得なかったといえよう。  その頃はまだ真空管ラジオの全盛時代。世界での普及率は七四パーセントに達していた。一部の業者や専門家のなかには「いまになって新型ラジオをつくっても売れないのでは……」と、批判的な見方をする人も出てきた。にもかかわらず、東通工があえて発売に踏みきったのも、それなりの確信があったからだ。井深はその根拠を次のように強調する。 「七四パーセントという数字は家庭単位の普及率。個人向けの商品を開発すれば、マーケットは必ず拡がる。それにトランジスタの歩留りが向上すれば、製品の質もよくなるし、値段を安くすることも可能です。それを実現するために、われわれの力で市場をつくり、育てていく努力をしなければいけない。問題解決のカギはそれにつきます」  そのための布石として、それまでテープコーダの販売を担当していた「丸泉」の社名を「東通工商事」と改め、東京、大阪にそれぞれ支店を設けることにした。そして東京支店長に倉橋、大阪支店長には地元出身で土地カンがあり、著名財界人に顔の利く児玉を据え、本格的な営業活動を開始した。  とはいえ、そう簡単にものは売れない。東通工の知名度が低いうえ、トランジスタがどんなものか、消費者は全然知らないからである。 「実は、当時、阪急の社長をやっておられた清水雅(のち東宝社長)さんを、大学時代から存じ上げていた。その清水さんに頼んで阪急デパートのフロアの片隅を借り、トランジスタラジオの初売りをやったんです。そのとき、最初どんな人が買うか見ていたら、なんとゴムの合羽とズボンをはいたおっさんが、胴巻からよれよれの札束を取り出し、ポンと買っていった。あれにはびっくりしましたね。念のために職業を聞いたら、岸和田の漁船の船主だった。それでトランジスタラジオを買った理由がわかったんです」(児玉武敏)  出漁のとき乗組員がいちばん頼りにするのはラジオの気象通報である。板子一枚下は地獄といわれるように、逃げ場のない海洋での操業は常に危険が伴う。とくに操業海域の気象条件を事前に把握していないと不測の事故を招く恐れがある。つまり、ラジオは彼等にとって必需品というわけだ。当時、漁業関係者の間で真空管式のポータブルラジオがよく売れたのもそのためだった。ところが、ラジオは塩気に弱く、真空管が切れやすい。おまけに値段のはる積層電池の消耗が激しいという欠点があった。  その点、トランジスタラジオは、真空管式と違い寿命は半永久的だし、電池も安上がりですむ。それが購買動機につながったものとわかった。こういう末端からの情報は、井深たちをどれだけ勇気づけてくれたかわからない。自分らの考えていた個人市場の開拓が間違っていなかった証になるからである。  最初、売れ足の鈍さに一抹の不安を感じていた開発陣も気を取り直し、新しい機種の開発に総力をあげた。その成果が九月に発表したイヤフォン式の小型ラジオTR‐2K(二石)、一〇月に発表したイヤフォン式スーパーラジオTR‐33などであった。そして一二月にはハンディタイプの七石トランジスタラジオTR‐72型(二万三八〇〇円)が発表された。トランジスタラジオの存在が社会的に認知され、評判になりはじめたのはその前後からであった。 7章  本格的輸出第一号 (1)無造作に使え、いつも機嫌よく鳴る (2)ダイヤルをパッと合わせられ、気取らない (3)電池の交換は一年に一〜二回でよい (4)音にくせがなく、いつまでもよく鳴る  これは『暮しの手帖』に載った花森安治のTR‐72型評である。技術陣が音質、感度、電池寿命に重点をおいて設計したのが功を奏したのだ。以来、TR‐72型は東通工はじまって以来のヒット商品になった。  これに気をよくした東通工は、72型の中身と同じ機構を大型キャビネットにおさめた据置型ラジオTR‐73型を発売する。三十一年二月であった。このラジオは〈停電でも安心して聴ける〉というキャッチフレーズがものをいい、「台風銀座」といわれる九州地方で飛ぶように売れた。このため四月にはラジオ組立て工場を増設しなければ需要を捌ききれなくなった。創業一〇周年を迎えた五月には、ポータブルタイプの薄型ラジオTR‐6型(一万七五〇〇円)を発売した。これがアメリカの大衆科学雑誌『ポピュラーサイエンス』の表紙を飾っただけでなく、性能を紹介した記事も掲載され、内外で評判になった。  好調な市場動向に気をよくした井深は、トランジスタの外販を思い立った。真空管に代わるトランジスタのメリットを多くの人に知らせるには、同業各社にも使ってもらうように仕向けたほうが賢明と考えたのだ。そこで松下電器、三洋電機、早川電機、東芝、日本ビクター、スタンダードなど、代表的なラジオメーカーの技術者を招き、外販の意志のあることを告げた。  一方、大阪支店の児玉は、親しい間柄である早川電機の早川徳次社長に仲介の労をとってもらい、松下電器の松下幸之助、三洋電機の井植歳男を大阪の料亭「なだ万」に招待した。東通工側から井深、盛田、笠原、児玉が出席、接待にあたった。その席で井深は、トランジスタとラジオを見せ「私どもでこんなものをつくりました。よろしかったらぜひお使いください」と、挨拶した。  松下、井植、早川の三首脳もたいへんな関心を示し、開発に至るまでの苦心談を熱心に聞いてくれた。この会合の相乗効果は予想以上に大きかった。それは、三洋電機の井植社長が、開発中のプラスチックケースに入ったスーパーラジオの生産を中止させ、トランジスタラジオの研究を指示したことでもわかる。  その直後、東通工はトランジスタの量産に踏みきった。そのためには人手がいる。そこで岩間は総務担当の太刀川正三郎に「これからトランジスタの製造を女子の二交替制でやりたい。その手配と、受入れ対策を大至急検討してほしい」と指示した。その頃東通工のトランジスタ生産量は、アロイ型、グローン型を合わせて月産三〇万個にはね上がっていた。この数字は世界のトランジスタメーカーのなかでも五本の指に入る実績である。それを一年後の三十二年後半には八〇万個体制にしたいというのが岩間の狙いであった。〈トランジスタ娘〉といわれたコンパニオンの募集キャラバンはそれからはじまった。  東通工の強気なトランジスタ攻勢は、同業他社の危機感をあおる形になった。それまで日本の大多数の電機メーカーは、トランジスタそのものに懐疑的な目を向けていた。性能に一抹の不安を抱いていたこともあったが、実際は、経営トップ陣が投資負担の増大に難色を示したからである。  当時、大手各社は高級ラジオや電蓄用などの大規模な真空管工場を競って建設、本格的な量産を開始したばかり。それだけに、ここで新しい分野に手を出せばこれまでの投資がムダになってしまう。ある大手メーカーのトップなどは「真空管があるのに、なんでトランジスタを手がけなければならんのだ」と、その必要性を訴える研究者の言に耳をかそうとしなかった。そんな経緯があっただけに、各社の研究者は、無名の東通工に出し抜かれたことを知り、地団太踏んでくやしがっていた。東通工の成功を目のあたりにして、大手メーカーの首脳たちも静観していられなくなった。  こうして神戸工業(のち富士通に吸収合併)、東芝、日立、日本電気、松下電子工業、富士通信機(現富士通)が相次いでトランジスタ参入を決めた。オランダのフィリップス社と手を組んだ松下を除いた各社は、いずれも、WE社とトランジスタの技術援助契約を結び、RCA社の技術を導入、専用工場を建て、いっせいにアロイ型トランジスタの量産に乗り出した。三十年から三十四年にかけてであった。  そんな各社の動きを尻目に東通工は、着実に独走体制を固めていた。トランジスタの量産も一応順調にすすみ、開発したラジオも七機種と、完全に主導権を握る勢いを見せた。それを決定的なものにしたのは、三十二年三月に発表した世界最小のスピーカー付ポケットラジオ「TR‐63型」(六石使用、一万三八〇〇円)である。このラジオは感度が優れていただけでなく、消費電力もこれまでのラジオの半分以下という点が人気を呼び、たちまちヒット商品の一つに数えられるようになった。  またこのラジオは、日本の本格的輸出の第一号の大任を果たした。輸出価格は三九・五ドルと手頃だったせいかアメリカ市場でも飛ぶように売れた。とくに年の瀬が近づいた一一月下旬には日航機をチャーターし、品不足のアメリカに大量輸出するほどであった。当時の朝日新聞は次のように報じている。 「欧米各国はクリスマスシーズンに入り、各国がプレゼント商品を探し求めているが、これからの需要期に間に合わないので、日本航空の特別貨物便がソニーブランドのTR‐63型を積んで輸出した。東通工はこれまで二万台のトランジスタラジオを輸出しているが、海外でのトランジスタラジオの評判は高い」  この輸出は、この年の八月、盛田が三度目の渡米をしたとき、アメリカ、カナダに強力な販売網をもつ電気機器販売会社「アグロッド社」と長期取扱い契約を結んだことがものをいったのである。  技術創造  井深が東通工の技術開発のあり方に自信をもったのはこの前後といってもいい。軍事用など特殊な用途にしか使えないといわれたトランジスタを民生用に使いこなすという、誰もなしえなかった仕事をやってのけたことがそうさせたのである。それに関連して、井深は次のようにいう。 「日本人は発明の価値を高く見すぎているんじゃないか。たしかにトランジスタを発明したのはアメリカだが、それを使いこなしたのはうちなんです。もとになる発明も、何も手を加えなければ単なる発明の域を出ないわけ。だから私は、みんなにこういっている。かりに研究者が発明にかける努力のウエイトを一とすると、それが使えるか使えないかを見分けるのに一〇のウエイトがいる。さらにそれを実用化にもってゆくには一〇〇のウエイトがいるとね。このことを誰も知らない。日本の科学技術政策がそうだし、学者もそうだ。何か一ついいものを見つけられたら、それで日本は繁栄すると思っている。これじゃいつまでたっても日本の技術は進歩しませんよ」  これは、自主技術の育成を棚に上げ、欧米の先進技術の後追いにうつつを抜かす日本の大メーカー首脳陣に対する痛烈な皮肉とも受け取れる。  当時、東通工は、資本金二億円。売上げは一〇億七二九六万円、税引利益一億二一一〇万円(半年決算、第二一〜二二期=昭和三十一年二月一日〜三十二年一〇月末日)。株式も、三十年八月に店頭取引き銘柄に指定されたばかり。ちなみに、このとき店頭株扱いになった企業は、日本航空、富士重工、本田技研、リッカー、河合楽器、東急不動産、伊勢丹などである。とはいえ、従業員一二〇〇名そこそこ、規模からいえば中小企業の域を出ないメーカーでしかない。にもかかわらず、大胆な発想でものがいえる。これは困難な仕事をなしとげた自負と誇りがあればこそであった。しかも、この間、井深は部品メーカーや下請け企業に積極的にはたらきかけ、これまでどこにもなかった小型部品をつくる道を拓くなど、その発展、育成に努めている。  前にも触れたミツミ電機のバリコン、フォスターの小型スピーカーがその代表的なものだが、両社は井深の要望した部品を手がけたことでたいへんな恩恵に浴している。三、四年後、欧米の電気メーカーがトランジスタラジオの生産に乗り出したとき、その部品はほとんど両社に依存しなければならなかった。おかげで両社は急成長をとげ、一流企業の切符を手にすることができた。また東通工が自主開発したプリント配線の技術も、早い時期に下請け企業に技術移転を行なっている。つまり東通工は、単に自社の繁栄に努めただけでなく、日本の電子産業の基礎づくりに大きく貢献していたのである。  このように、井深は、技術の向上にかかわる問題には貪欲な姿勢を見せる。現状に甘んずることが大嫌いなのだ。それだけに、これはと思うものがあれば、学問や理屈を抜きに挑戦を指示する。結果が悪ければもう一度白紙に戻してもう一度やり直せばいいと割りきっている。  しかもいったんこうと決めたらなかなかあとにひかない頑固さもあわせもっている。それを象徴するようなエピソードがある。自社の録音テープをNHKに納入するときの話だ。その頃NHKは放送用には3M社の「スコッチ」テープしか使っていなかった。しかし、国産テープの品質が向上してきたのを契機に、従来のスコッチ一辺倒の姿勢を改め、国産品を積極的に使用することにした。その対象に選んだのが、東通工とTDKのテープだった。三十一年八月のことである。  しかし、納入については条件をつけた。テープの特性を標準品であるスコッチの111Aに近づけること、同時にスコッチテープと互換性がなければならないということであった。これは東通工にとって由々しい問題である。なぜならば、東通工とTDKでは、テープの性能も製造法も違うからだ。  東通工がつくっていたテープはマグネタイトを磁性材に使った黒いテープで、スコッチとは互換性がなかった。これに対し、後発のTDKはスコッチと同じ茶色のガンマヘマタイトのテープであった。もっとも、性能はスコッチのそれと比ぶべくもなかった。そこでNHKは両社のテープの問題点を潰し、基準値をスコッチ並にしようと申し入れてきたのである。この話を担当者から聞いた井深はおこった。 「うちは自社の機械に合わせてテープをつくっている。しかも、マグネタイトの磁束密度はスコッチよりも高い。それを向こうの方式に合わせろとは何ごとか。そんなことまでしてNHKに媚を売ることはない。断わってしまえ……」  もともと井深は、他人からあれこれ制約されるのを嫌う。それだけにNHKの押しつけがましい要請に反発したのだ。困惑したのはテープ部長の岩間(半導体部長と兼務)と次長の戸沢である。もし井深の指示に従えばNHKはヘソを曲げるに決まっている。それは東通工のテープ事業を発展させるうえで得策でない。そこで二人は「いまここでNHKの認定をとっておかないと、あとあとまずいことが出てくる。だから、この際、一歩譲って、バイアス、感度、周波数などの特性をスコッチの放送用テープと同じようにして互換性をもたせる必要があると思います」と懸命に訴え、強引に井深を説き伏せてしまった。  こうして、NHK技研と東通工、TDKの共同研究がはじまり、三十二年八月にはNHKの要望通りのテープをつくりあげた。このテープはNHKの厳重な検査にも合格し、正式に放送用テープとして認知された。  これを契機に東通工は、ガンマヘマタイトのテープを、放送用だけでなく、一般オーディオ用にまで応用範囲を拡げた。その生産拠点になったのが、発足間もない仙台工場である。当時、国産磁気テープの生産量は、東通工が月産八〇〇〇巻、TDK、東北金属、日東電気工業が二〜三〇〇〇巻程度で、圧倒的に東通工が優位を誇っていた。その差をさらに拡げ、他社を寄せつけない強力な体制をつくる。井深はそんな遠大な夢を抱いていたのである。  ソニーはモルモット  東通工が社名を「ソニー株式会社」と変えたのは三十三年一月である。これは製品に「SONY」ブランドを冠したときからの懸案であった。三年も経過するとSONYブランドも広く内外に知れわたっている。それだけに、この際、呼称を統一したほうが何かにつけて便利だし、相乗効果も大きいと盛田は考えたのだ。  とはいえ、新社名がすんなり決まったわけではない。一〇年あまりも親しんできた「東通工」に愛着もある。「ソニー」だけではなんとなく重味が感じられないから「電子工業」とか「電気」の文字をつけるべきだと主張する幹部もあった。だが発案者である盛田は頑としてきかない。理由はただ一つ「世界に伸びるため」というのである。その背景には、井深の創業の理念を活かしたいという大きな願望が隠されていた。これまで東通工は、テープコーダ、トランジスタ、トランジスタラジオと、次々に違ったものをつくってきた。この前向きな姿勢は今後も変えずに続けなければならない。その場合、対象を電気製品に限定せず、消費者に喜ばれるものならなんでも手がけたい。そういう可能性を秘めた会社にするためにも、「電気」という文字をつけるのはなんとしても避けたい。それが盛田の狙いであった。  会長の万代順之助も、井深も、この考え方に双手を上げて賛成した。だが、メインバンクの三井銀行は「せっかく一〇年以上も売った『東通工』の名前を、そんなわけのわからんものに変えるとは」と、さんざん文句をいったそうである。  新しい社名が社内外にすっかり定着した三十三年七月、井深は北極回りの航空路で二ヵ月ほどヨーロッパを旅する機会に恵まれた。これまでの輸出実績の褒賞として、政府から特別に割り当てられた外貨を使い、ヨーロッパの電子業界の実情や技術動向を調べて来ようと思ったのである。  旅行鞄のなかには、世界の人気商品になったTR‐63型が六台おさまっていた。最初の給油地、ストックホルムで一夜を過ごした井深は、ラジオを取り出しスイッチを入れたが、なぜかウンともスンともいわない。あわてて別のラジオを取り出したがこれも鳴らない。他のラジオも同様だった。一瞬、井深は青くなった。「北極を通ると、トランジスタはダメになるのか」と思ったのだ。そのとき、ルームサービスのボーイが朝食を運んで来た。そこで「この時間(朝の八時頃)に放送をやってないのか」と聞いてみた。ボーイは「ここじゃラジオは昼からですよ」と答えた。その返事を聞いて井深はホッと胸をなでおろした。  ところが、その北欧では、TR‐63型の評価はあまりよくない。おもちゃ程度にしか見てくれないのだ。これには井深もしらける思いがした。だが、その失望感も大賀に会ったことでいっぺんに吹っ飛んでしまった。  昭和二十八年、東京芸大を卒業した大賀は、井深のたっての要請で東通工の嘱託になった。しかし、すぐ西ドイツに旅立った。ミュンヘンの音楽学校に留学するためであった。その大賀は自身の立場を次のように語る。 「留学のため、ほとんど会社に出なかった。その代わりドイツに来てから、こちらのオーディオ事情とか、エレクトロニクス関係の最新情報をレポートにしてどんどん送った。テープレコーダの発祥はドイツですからね。トランジスタラジオ、あれは私が日本を出るときはまだできていなかった。送ってもらったのは、たしか三十年の夏ぐらいじゃないかな。そのラジオのPRもぼくなりにずいぶんやったんですよ。井深さんがヨーロッパに来られたのは、それからしばらくたってからのこと。当時、ぼくはベルリンの高等音楽学校に移っていた。たまたま学校も夏季休暇に入っていたので、ぼくの車で西ドイツ、ベルギー、オランダなどを案内して回った。何がしかの報酬をもらっていたんだから、その程度のお手伝いをしなきゃいけませんよね」  井深が大賀を通訳兼ガイドとしてオランダのフィリップス社をはじめて訪ねたのも、このときであった。またヨーロッパの主だった都市の電気店の店頭にソニーのラジオやテープが並んでいるのを見て気をよくするなど、快適な旅を続けることができた。  その頃、東京でちょっとした事件が起こり、大騒ぎしていた。三十二年秋、『週刊朝日』の連載記事「日本の企業」で「神武景気も過ぎ去った今日、特配を含めて六割も配当し、利益保留が資本金の七割五分もあるという会社は、日本中探してもそうあるものではない」と、手放しでソニーを激賞した評論家の大宅壮一が、一〇ヵ月後の同じ欄で、ソニーをモルモット呼ばわりしたからである。問題の記事は、三十三年八月一七日号に載った〈東芝編〉のなかにあった。そこで東芝のトランジスタ工場の話に触れ、次のように書いた。 「トランジスタでは、ソニーがトップであったが、現在ではここでも東芝がトップにたち、生産高はソニーの二倍近くに達している。つまり、もうかるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強味があるわけで、何のことはない、ソニーは東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」  大宅は鋭い観察力と辛口の評論で多彩な活動を続ける売れっ子であった。その毒舌と誇張した文章がマスコミ受けするのだ。だが科学技術についての専門知識はまるでない。またその必要もなかった。要は自分の感じたことを自分の文体で書くだけでいいのだ。規模の小さいソニーを実験動物のモルモットに見立てた。そしてこの会社は、いたずらに先駆者としての犠牲を払うだけで、本当の〈成果〉は、東芝のような大企業にとられてしまうに違いないと皮肉ったのだ。  テープコーダ、トランジスタの実用化という誰もなし得なかった事業をものにし、意気のあがるソニーの技術陣が怒るのは当然であった。誇りを傷つけられる思いがしたからである。  血の気の多い若手技術者のなかには「週刊朝日と大宅に抗議すべきだ」といきまくものもいた。だが留守を預かる盛田はその愚をあえて避けた。マスコミの寵児と大新聞の編集責任者を相手にケンカを挑んでも勝ち目の薄いことは目に見えている。しかし、このまま泣き寝入りするのは耐えられない。そのくやしい思いをどういう形で表現するか、それは井深の帰国を待って結論を出すことにした。  四ヘッドVTR試作  帰国後、この話を聞いた井深も憤慨した。だがすぐ持ち前の冷静さを取り戻し、あれこれ対策を考えはじめた。その結果、〈モルモット〉という大宅の皮肉を〈先駆者〉におきかえてしまうことを思いついた。そして社内には「モルモット、結構じゃないか」と開き直ってみせた。また社外には「小社は業界のモルモットたらんとしております。すなわち、先駆者、開拓者をもって任じております」と、積極的にPRしはじめた。  言外には「われわれはただのモルモットではない。常に大企業の一歩先をゆく開拓者である。いたずらに金と頭脳と労力を使った成果をむざむざ大企業に奪われるようなことはしない」という意味がこめられていたことはいうまでもなかった。 〈モルモット精神〉の意味が社内に定着したのを見届けた井深は、それを「開拓者精神」におきかえ、社の内外に積極的にアピールしはじめた。そのあたりの発想はいかにも井深らしいやり方であった。  事実、その頃(三十三年)のソニーは「フロンティア精神」を呼称するにふさわしい活躍をしていた。たとえばソニーの経営を支える二本目の柱となったトランジスタラジオは、それまで一二機種発売していたが、三十三年には新たに六機種が追加された。このなかには世界初の時計つきホームラジオ〈TR‐151〉(輸出用)などが含まれていた。後発各社のトランジスタを上回る高品質のトランジスタがつくれるようになった証である。  しかし、ここまでもってくるには、関係者はいうにいわれない苦労をしている。なかでもいちばん手をやいたのはグローン型トランジスタの歩留り改善であった。この問題も半導体製造一課の塚本哲男、天谷昭夫らのねばりでなんとか解決することができた。しかも、その過程で、ノーベル賞受賞者江崎玲於奈の〈トンネル効果〉の発見という思いがけない副産物も生まれた。この研究成果は三十二年秋の物理学会で報告されたが、結果はさんざんだった。理論づけが甘いと若手の研究者や学者から集中攻撃を受け、しばしば演壇で立ち往生させられた。江崎はそれがくやしくてならなかった。そこで翌年の一月、研究論文をアメリカの物理学会誌に投稿した。これが江崎を有名にするきっかけになろうとは江崎自身も知る由もなかった。  三十三年六月、江崎はベルギーのブリュッセルで開かれる国際固体物理学会に出席するためヨーロッパに飛んだ。自分たちの研究成果を学会で発表し、世に問うてみようと思ったのだ。ところが、会議の冒頭、思いがけないことが起こった。司会役に指名されたベル研のショックレー博士(トランジスタの発明者の一人)が、江崎論文を激賞したことである。  江崎に対する評価が一変した。同時にこの偉大な研究者を生んだ戦後派企業「ソニー」の存在を注目する人が次第に増えてきた。そのソニーが国産初の四ヘッドVTRをつくりあげたのはこの年の秋であった。  開発を担当したのは、ソニーを代表する技術者に成長していた木原信敏である。木原はテレビの本放送がはじまった昭和二十八年に最初の試作機をつくっている。これはアメリカのRCA社が、世界ではじめて固定ヘッドVTRの試作に成功したのとほぼ同じ頃であった。その辺のいきさつを木原は次のようにいう。 「私はむかしから、ものを考えるときは、誰にも手の内をあかさないようにしている。下手に口外すると、雑音が入ってやりにくくなりますからね。それに私は、必ずものになるというものしか手をつけない。最初のVTRのときも自信があったからいわなかったんですよ。そんなわけで、一人でコツコツやって試作機をつくった。それも白黒の固定ヘッド方式で、テープは四分の一インチの普通のオーディオ用のテープを使った。もちろん、ちゃんと絵を出しました。エリザベス・テーラーの顔をね」  木原のVTRの試作を知った井深は、実用化研究のための助成金を通産省に申請しろと木原に指示した。ところが、通産省はこの申請を却下した。時期尚早というのが表向きの理由だった。  当時の通産省は産業の根幹になる重化学工業の育成に総力をあげて取り組んでいる最中。そんなときに、知名度の低い電機メーカーが、海のものとも山のものともわからないVTRの実用化研究の補助金を要求しても相手にされるはずがなかった。 「絶対にものにできる」と確信をもっていた木原も、これには失望した。だが、相手が泣く子も黙る通産省の役人とあっては、文句をいってもはじまらない。もっとも、その頃のソニーにも弱味があった。テープレコーダの特許紛争と、WE社と交わしたトランジスタ製造のための仮契約問題などで、通産省担当官の心証を害している。そのため、結局、VTRの実用化助成金申請は断念せざるを得なかった。  苦い体験を味わった木原がふたたびVTRの研究をはじめたのは、アメリカのアンペックス社が回転ヘッドFF方式の放送用VTRの試作に成功したというニュースを聞いた昭和三十年頃であった。しかし最初の二年間はトランジスタラジオやテレビの開発に追われ、本格的な実用化研究まで手がまわらなかった。  やがて三十三年になると、アンペックスの放送局用VTRが輸入されはじめた。輸入価格は二五〇〇万円という高額にもかかわらず、テレビ局の開局ブームで二三台もの輸入申請が出るほどの過熱ぶりをみせた。これを問題視した通産省は、VTRの国産化をはかるため、電機メーカー各社に補助金を出し、試作研究を積極的に奨励することにした。  この呼びかけにすばやく対応したのがソニーとNHK技術研究所であった。ソニーは補助金を申請した三十三年六月から、アンぺックスタイプの試作機の開発に着手した。そして、わずか四ヵ月後の一〇月初旬にはものをつくりあげてしまった。これが国産VTRの第一号であったことはいうまでもない。  外部技術の導入  ヨーロッパから帰国した井深は〈モルモット〉問題が解決すると、開発陣に次のテーマを指示していた。テレビ用のシリコントランジスタの開発であった。井深がトランジスタを使ってテレビをつくろうと思いたったのは東通工時代の昭和三十二年夏の頃だった。 「私自身はテレビの技術をよく知らなかった。それだけにVHF用のチューナーの石さえつくればテレビはすぐできるものと単純に考えていた。そして、その頃いちばん新しいといわれていたメサ型でチューナーをつくりテストしてみたんです。だができなかった。ほかに映像出力用のパワートランジスタや偏向用のトランジスタがいる。それもゲルマじゃなくて熱に強いシリコンでつくらないと実現できないことをはじめて知った。つまり、うちは必要に迫られてシリコントランジスタの開発に手をつけたんです」(井深)  シリコンはゲルマニウムより熱に強いし、信頼性も高いということは関係者もある程度知っていた。しかし、製法がむずかしく、高純度の結晶がなかなか得られないといわれていた。  その頃、アメリカのデュポン、GEなどの一流メーカーが軍事用や宇宙開発用に純度ナイン・ナインのシリコンの単結晶をつくっていたが、生産量はわずかでしかなかった。したがって値段が高い。三十三年秋、〈エサキ・ダイオード〉の発表で渡米した江崎が、結晶グループの塚本に頼まれて購入したシリコンの単結晶は、一グラム三四〇〇円もしたほどである。  こんなに高価なシリコンを使ってトランジスタをつくれば、一本あたりの価格は、おそらく数万円になっていたであろう。それをコンシューマ用に使うなど、常識ではとうてい考えられないことであった。にもかかわらず、井深は、あえて挑戦を命じた。  なぜ、そんな冒険をする気になったのか。基本的にはシリコンが経済性の高い物質だと知っていたからだ。シリコン(珪素)は、ゲルマニウムと違い地球上の土砂中に無尽蔵に存在する。結晶づくりの工業化に成功し、量産が可能になれば、単価も下がり、ゲルマニウムにとって代わる時代が必ずくる。そのとき、供給をアメリカに仰いでいたのでは日本の発展はあり得ない。なんとしてでも国産技術で高純度のシリコン単結晶をつくり出さねばと、前から考えていたのである。  そこで、外部の素材メーカーと手を組むことにした。井深がその相手に選んだのは、旧日本窒素肥料の流れをくむチッソ電子の前田一博(のち社長)の訪問を受けたのがきっかけだった。  その前田は次のようにいう。 「私どもは、昭和三十年頃から金属塩化物の研究をやっていた。金属を塩素で処理する仕事ですね。井深さんのところを訪ねた当時は塩化ビニールもできていない頃で、取り扱っていた塩素の使い道があまりなかった。そこでトランジスタで脚光を浴びているゲルマニウムに手を出してみようかという気になった。ゲルマニウムの結晶づくりには塩素は欠かせませんからね。たまたま、当社に東通工の相談役をやっておられた田島さんの親戚の方がいたので、その縁を頼って井深さんにゲルマをやらせてほしいとお願いしたわけです。すると『これからはシリコンの時代だ。シリコンをおやりなさい』と、逆にアドバイスしてくださった。三十年の秋頃じゃなかったかと記憶しています」  井深は、シリコンを大量につくるには、高度な化学知識がものをいう。それを自力でこなすには荷が重すぎる。どこか優れた日本のメーカーと手を組んだほうが得策だと考えていた。そんなときチッソ電子の前田の訪問を受けた。そこで渡りに船と、シリコンづくりを勧奨する気になったのである。  井深の社内洗脳がはじまった。これからはシリコンの時代になることを関係者に周知徹底させようとした。根回しがある程度すすんだ段階で、岩間にチッソ電子との共同研究を指示した。結晶の開発をまかされたのはグローン型トランジスタの改良を終えたばかりの塚本である。それも、シリコンの単結晶をつくるだけでなく、それを使ってテレビ用のトランジスタをつくれというのが首脳陣の要求であった。  ソニーとチッソ電子の未知への戦いがはじまる。三十三年一月のことである。最初の目標はチッソ電子と協力し、素材になるシリコンの多結晶づくりだった。岩間は「結晶づくりに必要なノウハウはチッソ電子にすべて与えてよい」と、塚本に指示している。素材の安定供給源を確保するためであった。  塚本をリーダーとする結晶グループは、まず、アメリカから輸入した多結晶シリコンを使い、高純度の単結晶引上げ技術の開発に努めた。そして、チッソ電子の供給体制が整う前には独自の方式で評価装置、測定装置をつくりあげ、そのデータをチッソ電子にフィードバックするなど、緊密な情報交換を行なっている。  チッソ電子からの単結晶の供給が可能になった三十三年六月、塚本たちは、大出力のシリコントランジスタの試作に着手した。そして、九月には結晶、回路、ブラウン管、設計の担当者が一堂に会し、はじめての合同会議を開いた。この席でトランジスタテレビの大まかな仕様が決まり、ただちに試作研究に入った。いちばん苦労を強いられたのは塚本たち結晶グループである。水平偏向用、映像出力用シリコントランジスタ、チューナー用メサ型ゲルマニウムトランジスタなど一〇種類を超える新しいトランジスタを開発することになったからである。 「本格的な試作にはいったのは三十四年一月でした。ゲルマのメサ型は製造技術的に多少問題があったが、アメリカでもつくられていたし、それほどむずかしいとは思わなかった。しかし、シリコンは、民生用に開発されたものが皆無だったため、さんざん手をやきました」(塚本哲男)  結晶自体にバラつきがあるため、条件を満たしてくれるトランジスタがなかなかできないのだ。たしかに、熱にも強く、耐圧も高かったが、コレクタ部分の抵抗値が大きすぎ飽和電圧が高くなる。そのためパワーが食われ、電圧がドロップするという現象が起こる。これをなくすには、コレクタ部分の抵抗を低くして、逆にベース部分の抵抗を高くしなければならない。この技術が障害になって、なかなか先へすすめないのである。  ソニー流会議運営法  塚本たちはこの解決のため、連日のように激しいディスカッションを繰り返した。 「私たち結晶グループは個性派が多かった。それで、はたで見ているとケンカでもしているように見えたかもしれません。議論はおおいにやるべきだと奨励した。下手にベクトルを合わせ、各人の個性を潰すよりいいと思ったんです」  これはソニーの会議運営の基本精神にのっとっている。会議の席では在社歴や経験歴の多少を問わず、出席者に発想や意見を自由に発言させる。それによって、各人の参加意識も高まるし、思いがけない問題解決の緒を見つけだすことができるかも知れない。それを見定めるのがマネジャー、プロジェクト・リーダーの役割だ、というのがソニー流会議運営法の提唱者、井深の考え方でもあった。  こうして塚本たちは、どうにか実用に耐えられそうなトランジスタをつくりあげることができた。やがてこのトランジスタを組み入れた八インチの白黒テレビがつくられる。三十五年五月に発売された世界初のトランジスタテレビ〈TV8‐301型〉がそれである。このテレビはシリコンとゲルマニウムのトランジスタが二三石、ダイオード一五、高圧ダイオードを二個使っていた画期的な製品であった。  しかし、このテレビに対する世評は必ずしもよくなかった。価格も高かった。画質も真空管式に比べると見劣りする。そのうえ故障が多かった。高出力トランジスタの特性が不安定だったからだ。もっとも、この頃、日本で売られていた真空管式テレビも故障が多かった。ちょっとしたことで同期がくずれ、画像が流れてしまうということがひんぱんにあった。だが、これは理由にならない。  井深は「せっかく市場に出した世界初のトランジスタテレビがこんな状態では困る」と技術陣にハッパをかける。鉄は熱いうちに打て、といわれるように、ここで手綱をゆるめず再挑戦しなければ、ブレークスルーできない。井深の気性をよく知っているだけに、塚本たちも必死であった。  たまたま手元に届いたアメリカの専門誌『エレクトリック・ニュース』のページをめくっていた塚本が思いがけない記事を発見した。 《アメリカのベル研究所が気相成長法によるエピタキシャルトランジスタの開発に成功した》というものだ。  塚本は一瞬「これだ!」と思った。短い記事で詳しい内容はわからない。しかし、単結晶のうえに同じ単結晶の酸化膜を成長させるというこの技術をうまく利用すれば、自分たちが抱えている問題の解決に役立つに違いないと考えた。 「さっそく岩間さんのところにその雑誌をもって行き、テレビ用のトランジスタにぴったりだから、ぜひやらせてほしいと頼んだ。岩間さんも『よし、試しにやってみろ。責任はオレが取る』と、いってくれた。それからがたいへん。参考文献もないし、実験する場所もなかった。文献を探すかたわら、小さな物置小屋を改造して、ちゃちな実験室をつくったわけです」(塚本哲男)  文献探しも根気よく続けられた。世界中の情報が集められ、戦前にソビエトで発行されたという本を見つけた。が、ロシア語のわかるものがおらず、翻訳者を探すのにまた一苦労した。  研究に着手して三ヵ月目の三十五年九月にはエピタキシャル技術を完全にマスターすることができた。三十六年には大出力のメサ型エピタキシャルトランジスタ(シリコン)の試作に成功する。当時の技術レベルから見ても異例の速さであった。チッソ電子との共同研究の賜物といえた。  その直後、たまたまベル研を訪ねた塚本が、新しくつくったテレビ用のシリコンウエハーと製造装置の写真を関係者に見せると「オレたちもいま同じようなものをつくろうと苦労してる最中だ。それなのにキミたちはこんないいものをつくっている。どうやってつくったのか、くわしく教えてほしい」と、逆にベル研の技術者に懇請されたという。  前にも触れたように、エピタキシャル技術はベル研が開発したものである。ところが、塚本たち結晶チームは、その一片の情報をもとにベル研の発明を上回るエピタキシャルトランジスタを短期間でつくりあげてしまった。これもノウハウ契約で向うの先進技術をそっくりもらい、安全確実な方法でものをつくってきた同業他社と違い、入手した技術情報をたたき台に、自分たちで苦労して追試をかさね、必要なトランジスタをつくってきた実績があればこその成果であった。  シリコンのパワートランジスタの生産見通しがつくと、新しいトランジスタテレビ開発のプロジェクトチームが発足した。開発目標は五インチ小型テレビ。これに適したトランジスタの設計から、ブラウン管、ブラウン管用のガラス、偏向角、アンテナと、従来の常識では考えられない未踏の技術に挑戦していかなければならない。それも絶対秘密という条件つきであった。そのため部品は全て自社製という徹底した隠密作戦が展開された。  担当者の帰宅時間も遅くなる。深夜の一一時、一二時は当たり前。日曜、祭日まで出勤して頑張った。 「こんなに人づかいの荒い会社はないのでは……」とボヤク若者もいたが、戦列を離れるものは一人もいなかった。当時、テレビ用のトランジスタの設計を担当していた宮岡千里(学習院大学理学部物理科、三十四年入社、のち常務)もこう語る。 「トランジスタでテレビを動かすという井深さんのすばらしい夢を実現させようと、みんな燃えていました。入社してまだ日が浅いのに責任の重い仕事をまかされて、それだけに、徹夜が続いても、まったく苦になりませんでした」  苦難のうちに、三十六年一一月には何台かのプロトタイプをつくることに成功する。この試作機は暮れに、井深をはじめ、主だった幹部に預けられた。正月休みにテストしてもらうためである。  最初の八インチテレビが故障の多かったことは前にも触れたが、そのとき、いちばん問題になったのは温度特性に弱いことであった。夏に向かうとトランジスタの特性が微妙に変化する。そのため同期がくずれるという事故につながった。新しいテレビでは厳密なテストを繰り返し、高温に耐えられるようつくってある。その成果を試してもらおうと思ったのだ。  休み明けにもらった返事は「夜はチャンと映るが、朝スイッチを入れると同期がくずれている。これじゃダメだ」という。高温対策に気をとられ、温度が下がったときのことを忘れていたのだ。そんな思いをしながら、ともかく、世界初の五インチマイクロテレビ〈TV‐303〉を発売することができた。昭和三十七年四月のことである。このソニー技術陣の一連のブレークスルーがシリコントランジスタの民生用への活用の道を拓いた最初のケースであったことはいうまでもない。 8章  ソニー研究所長  話が前後するが、ソニーが八インチのトランジスタテレビ〈TV8‐301〉型を発売した昭和三十五年は、経営面でもエポック・メーキングなできごとが重なった年でもあった。二月にはニューヨークにアメリカ現地法人「ソニーコーポレーション・オブ・アメリカ」を設立、アメリカにおける独自の販売体制をスタートさせている。また一一月には、神奈川県厚木市の相模川沿いに五万坪の土地を求め、近代的な半導体工場を建設している。同じ一一月の下旬には、神奈川県保土ヶ谷の横浜新道沿いの高台に八五〇〇坪の土地を求め、中央研究所の建設に着手するなど、拡大基調を歩みはじめた。こうして経営状態は順風満帆だったが、人材の確保という点でちょっとした手抜かりがあった。トンネルダイオードの発明者江崎玲於奈をIBMに引き抜かれたことである。表向きは井深が江崎の才能を惜しみ、自らIBMにはたらきかけ、江崎をIBMに送り込んだことになっているが、実際はもう少し込み入った事情があったようだ。その辺のいきさつをあるOBは次のように語る。 「江崎さんはトンネルダイオードをつくってから、コンピュータの素子をやりたいという気持ちを強くもつようになった。そして井深さんに何回かアプローチしたが、相手にしてもらえなかった。ソニーのポリシーと合わないからだというわけ。当時、井深さんは、生活に役立つ独創的な商品を開発することしか考えていなかったんですね。コンピュータに手を出す気はなかったし、またその余裕もなかった。江崎さんはそれが不満だった。そんなときIBMから誘われ、ソニーをやめる気になったんです」  もちろん、井深をはじめソニーの幹部は江崎の慰留に努めた。だが、江崎の決意は予想以上に固く、説得を断念せざるを得なくなった。そこで井深は、逆にIBMの首脳に話し、江崎を気持ちよく送り出す雰囲気をつくったというのが真相らしい。  こうして井深は、惜しい人材を手放したが、後悔するようなことはしなかった。もっと大物をスカウトし、研究所長に迎える構想をもっていたからである。その人は近々東北大学を定年退職する渡辺寧教授であった。橋渡しをまかされたのは、ソニーの雰囲気にすっかり溶け込んで活躍していた高崎であった。その高崎はこんな打ち明け話をする。 「ちょうど、ぼくが仙台に戻った頃だったかな。井深さんが前触れもなく仙台に来られた。そして、引く手あまたかもしれないが、渡辺先生をうちにぜひ迎えたいので一緒に会ってほしいときりだされた。井深さんは先生に惚れ込んでいたんですね。そこでぼくは、その気持ちはわからないでもないが、いまからじゃムリなような気がすると忌憚のない意見をいった。すると井深さんは、断わられてもいいから、一度渡辺先生の気持ちを打診してみたいといわれる。それじゃというので、仙台のさる料亭に席を設け、先生をお招きしたんです」  その席で、井深は「うちはご承知のように小さな会社で、たくさんの報酬は差し上げられないが、先生の希望に沿った研究所をつくりたいと思っているので、ぜひご一考願えないか」と、懇請したそうだ。  だが、渡辺は、高崎が予測した通り、井深の要請を丁重に断わった。渡辺はその理由を次のように述べた。 「私ごときのものにみなさんが暖かい手を差しのべてくださる。こんな嬉しいことはない。だが、いまの私は、退官後どこへいくとも決めていない。しかし、かりにどこかにお世話になるとしたら三菱電機しかないような気がする。もともと私は、三菱の奨学金で大学を卒業することができた。だから三菱に入るのがいちばん妥当だし、みなさんも納得していただけるのではないかと思っている」  この返事を聞いた井深は、二度と渡辺招聘を口にしなかった。頼んでもムダとハッキリわかったからだ。それから一ヵ月ほどたつと渡辺の静岡大学学長就任が発表された。当の本人が知らない間に、選挙で推薦が決定したものだ。  いずれにしても、井深の画いた人事構想は淡雪のように消えた。これまで「ほしい人材はなんとしても迎え入れてみせる」と自信をもっていた井深が、人の問題でこんな手違いを生じたのは、あとにも先にもこれがはじめてであった。後味の悪い思いをしたに違いない。  一方、ソニーを離れる決意を固めていた江崎は、研究所長にふさわしい人物として鳩山道夫を推薦していた。当時、鳩山は、工業技術院電気試験所の物理部長で、日本の半導体研究の草分けの一人として有名な存在だった。戦中は理化学研究所、海軍技術研究所の技師として活躍した実績をもっていたし、政界の重鎮である鳩山一郎の甥でもあった。そういう意味でも研究所長にはうってつけの人物といえた。  その鳩山が井深の意向を知ったのは、結婚を目前に控えた江崎から電話で教えられたのが最初である。そして江崎の結婚披露宴の席で、井深から直接「うちに来てくれないか」と、正式に要請された。江崎も協力を惜しまないというし、井深も好きな基礎研究をやってもよいと約束してくれた。以前から、むかしの理化学研究所のような自由な雰囲気の研究所をつくってみたいと考えていた鳩山は、その一言でソニーの世話になってもよいと思った。三十五年秋のことであった。  その後、両者の話合いも順調に運び、鳩山の入社は決まった。江崎がソニーを去り、IBMに移る話を鳩山が聞いたのはその直後であった。鳩山は、その後、ソニー入社の動機を聞かれると「江崎さんにダマされてね」ということにした。もちろんジョークである。  産学協同の基礎研究  厚木工場の竣工、研究所の建設着工と、ソニーの環境は日増しによくなっていく。誰もがそう思った。だが、そんなソニーにもたった一つ泣きどころがあった。財務体質の改善という難問を抱えていたことである。  もちろん、創業当初のように、日銭に困ったり、月末の資金手当に窮することはなかったが、研究開発、設備増強など先行投資に必要な資金が不足がちになった。しかし、トランジスタの成功以来、井深の夢はますますふくらみ、未到分野の基礎研究課題は増える一方だった。  その典型的なケースが東北大永井研究室と手を組んではじめた「立体録音研究会」と、「高密度磁気記録研究会」への資金援助である。このうち立体録音研究会は、井深がアメリカ視察の旅を終えて帰国した一年後の昭和二十八年にスタートしている。「立体録音はなぜ音がきれいに聞こえるのか。その原因を知りたい」という井深の希望ではじまったものだ。  研究会メンバーは永井教授のほか、永井研の岩崎俊一(のち東北大教授、電気通信研究所長)教授と数名の大学院生。これに栗谷潔、西巻正郎(東北大)、伊藤毅(早稲田大学)、田中茂良(NHK技術部)といった音響関係の研究者、技術者などで構成されていた。もちろん、井深もひんぱんに仙台まで足を運び、若い研究者と話し合う機会をもった。そして自分の考え方、意見を遠慮なく発表した。それが若い研究者の好奇心をどれだけ刺激したかはかりしれない。  結局、この研究は結論が出るまでに五年の歳月を費やした。最終的な報告をまとめたのは永井研の大学院生であった吉田登美男(のち松下通信工業技師本部研究室長)である。最初の二年間は試行錯誤の連続、三年目からは音を生理学、心理学的な面からとらえるなど地道な学術研究活動が続けられた。この間、慶大文学部の印東太郎助教授(のち教授、カリフォルニア大学アーバン校終身教授)、電電公社の音響室長だった早坂寿雄(のち通研所長、沖電気客員)、音声研究家、三浦種敏(のち東京電機大教授)など、外部の学者、専門家の指導や助言をあおぎ、音の比較分析というまったく新しい手法を考え出した。たとえば、美人コンテストで「ミス」を選ぶとき、目や鼻はどんな形か、バストとヒップの比率は、脚の形はどうかというように、まず美しさを構成する個々の要素に分け、それぞれをバラバラに採点する。審査員はその結果をもちよって全体像として再現、バランスを比較検討し、最終的に優劣を決めていく。  音の場合も、それと同じで、最初に音楽の美しさを構成する快さとか豊かさ、あるいは、いきいきしている、臨場感があるといった個々の要素についてそれぞれの尺度で測定する。これを立体録音の音についても行なう。そのうえで立体録音の音とそうでない音の差を人間の心にある心理尺度(感性)で比較検討するという方法である。そのとき吉田が使ったのが、慶応の印東助教授の指導で学んだ計量心理学の因子分析法だった。これは心理学や経済学の分野でしか使われていなかった特殊な数学である。  吉田は、一見つかみどころのない音声と聴覚の関係を明らかにするには計量心理学の一つの手法である因子分析法を使うのがいちばん手っ取り早いと考えたわけだ。 「従来の一チャンネル(モノラル)の録音は、周波数特性を忠実に再現することしかできない。そのため音がカンヅメのように単調になってしまう。一方、立体録音はもとの音場にある空間情報(方向感覚と、背景で妨害される音を抑圧する効果)を再現できるので、自然に近い音をとらえることができる」というものであった。  のちに吉田はこの研究成果を論文にまとめ、学位を取得している。身近に永井、印東、早坂、三浦といったよき師、よき助言者がいたことにもよるが、その間、物心両面にわたり積極的な援助を惜しまなかった井深の影響は大きかった。おそらく、当時、こんな研究を自由にやらせてくれた企業なり経営者は皆無だったはずである。技術者、経営者としての井深のスケールの大きさを表わすエピソードである。 「立体録音研究会」と同じような発想でスタートしたのが「高密度磁気記録研究会」であった。これは、テープレコーダに使用する録音テープの品質向上を目的とした勉強会である。その頃ソニー(当時東通工)をはじめ、TDK、日東電気工業、東北金属工業の四社が磁気テープを提供していたが、アメリカ3M製のスコッチテープと比べ品質面で格段の開きがあった。そこで井深は、テープ部長の高崎(仙台工場長兼務)とはかり、東北大と共同で勉強会をスタートさせた。三十二年春のことである。  この呼びかけに応じたのは、永井研の岩崎俊一助教授、金属材料研究所の白川雄紀教授、非水溶液化学研究所の岩崎広次教授、下飯坂潤三助教授(当時、のち法政大工学部教授)、物性研究所の津屋昇助教授(当時)などで、これにソニーから井深、植村三良研究部次長、盛田正明(前出)がオブザーバーとして随時顔を出すことにした。  勉強会で中心的な役割を果たしたのは、岩崎俊一助教授であった。岩崎は東北大工学部電気通信科の出身で、永井の後継者と目される逸材である。昭和二十四年、大学卒業後、永井の推挙で東通工に入ったが、二年後にふたたび永井教授のもとに戻った。そして、これまで誰も手がけていなかった磁気録音の原理解明に真正面から取り組んできた学究肌の人であった。  岩崎は、以前から最適な磁気材料は酸化鉄しかないという当時の常識に疑問をもっていた。これに共鳴したのが井深と高崎である。  こうして勉強会のメインテーマは、「合金粉末を使った磁気テープの開発」にしぼられることになった。岩崎の未知への挑戦は三年あまりも続いた。三十五年には世界初のデジタル合金テープの試作に成功する。このテープは日本の磁気テープの〈バイブル〉といわれたスコッチの111Aの特性をはるかに上回っていることも実証された。にもかかわらず、実用化は見送られる。つまり、前に触れた通り、通産省の指導によるテープの規格統一が図られ、NHKの要望によって標準テープ(111A)の性能を越えてはいけないということになったからだ。  これを機会に岩崎は勉強会から身を引いている。これ以上、ものづくりに執着すると学者としての研究姿勢を曲げることになると思ったのだ。研究開発はソニー研究陣と仙台工場が引き継ぎ、三十六年はじめには国産初のビデオ用メタルテープをつくりあげた。このテープは三十六年二月、ニューヨークで開かれたIREショーに参考出品し注目を浴びた。この間、ソニーが注ぎ込んだ援助資金、開発資金は数千万円におよんだといわれている。この一連の研究成果が、のちにVTR技術発展を促す大きな原動力になるのである。  財務体質の改善 「井深さんの夢を、なんとしても実現したい」  これは盛田をはじめ、ソニーの社員の誰もが考えていることだ。事実、ソニーはその通り新しい商品をつくり出し、着実に業績を伸ばしてきた。しかし、そのための先行投資は増えこそすれ、減ることはない。台所が苦しくなるのも当然だった。勢い、銀行の融資をあてにしたくなる。だが、金融事情が悪化し、メインバンクの三井銀行は安易に金を貸さなくなった。ソニーのご意見番的な存在だった万代順四郎が、三十四年に世を去ってから、そんな傾向が次第に目立ちはじめている。 「このままでは〈ジリ貧〉になってしまう」と、心配したのは、当時、三井銀行八重洲口支店長だった吉井陛(のちソニー常務)である。吉井は、井深、盛田に、ソニーの財務体質の弱点を指摘し、「今後は三井だけでなく、すべての銀行と取り引きし、株をもってもらうようにすべきだ」と助言していた。盛田もその必要性を以前から感じていた。だが、社内に財務担当の適任者がいなかった。そこで、「それをあなたがやってくれないか」と、強引に吉井を口説き落としてしまった。三十六年春浅い頃だった。日本にADR(アメリカ預託証券)ブームが起きたのは、その直後だった。これは外資に対する規制が緩和された三十五年初頭から関係者の間で話題になっていたことである。それに呼応するかのように、秋にはモルガン・ギャランティのモックレイを団長とするアメリカ金融界の日本証券市場視察団が大挙して来日、経済界は歓迎一色に包まれた。  ソニーの財務体質改善に頭を悩ましていた吉井は、これを見逃すはずがない。さっそく盛田に相談をもちかけた。ソニーのファイナンスを高める絶好の機会だと思ったからだ。しかし、実行に移すには二人だけでは心もとない。そこで野村証券の寺沢芳男(のち多数国保証機関長官=MIGA長官、参院議員)の協力を求めることにした。体制を整えた盛田は、ただちに行動を起こした。  手はじめに、盛田は、モックレイ調査団の一員であったスミス・バーニー社のA・シュワルツェンバッハと会う機会をもった。そしていつもの熱っぽい調子でソニーの実情と将来性を説いた。  何回かの渡米で、アメリカ人の心をつかむテクニックを身につけている盛田の独特の話術に、シュワルツェンバッハはすっかり魅了されてしまったらしい。そしていつの間にか、ソニーがADRを発行するに足る会社だと確信するようになる。帰国すると、ADRの受託銀行であるモルガン・ギャランティにはたらきかけ、同行の日本におけるパートナーである東京銀行を通じて大蔵省にアプローチさせるなど、精力的な活動を開始した。  とはいえ、ADR発行を希望する企業はたいへん多かった。大蔵省が事前に調査したところ、一〇〇社を超えていたというから、その過熱ぶりがわかる。名乗りをあげた各社の首脳も、自社株がADR銘柄としてアメリカ国内で取り引きされるようになれば、社名はいうにおよばず、会社内容、製品の格好なPRになる。それによって得るメリットが大きいからなんとしてもADRに割り込みたいと思ったのだろう。だが、許可権をもつ大蔵省としては、アメリカの投資家に迷惑をかけるような企業を選ぶわけにはいかない。それだけに資格審査は厳格に行なった。  その結果が発表されたのは三十六年二月であった。ADR発行を認められた企業は、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、三井物産、三菱商事、東芝、日立など一六社。その一六社のなかにソニーが入っていたのである。  これには関係者も驚いた。なかには「なんでソニーが!」と、顔色を変えておこった大メーカーのトップもいたそうだ。当然かもしれない。当時のソニーといえば、その三年前の一二月、東証一部上場銘柄に昇格したばかり。資本金はわずか九億円、三十六年四月期の売上高七五億円そこそこの弱小メーカーにすぎない。アメリカの識者の間でもこの結果に首をかしげる人が多かったといわれている。  しかし、専門家はそうは見なかった。そのバロメーターの一つが株価であった。ソニーがはじめて株式(額面五〇円)を店頭公開したのは昭和三十年。そのときの取引き価格は一二八〜二〇八円だった。それが東証第一部上場を果たした三十三年末には、三〇〇円前後で取引きされるようになった。年があけるとトランジスタラジオの輸出好調を反映し、四〇〇円台から七〇〇円とジリジリ値上がりをはじめ、八月には一気に一四三〇円の高値をつけ、市場人気をさらってしまう。この過熱ぶりを、当時の週刊誌は次のように報じている。 「昭和二十一年以来、増資株を引き受けてきたとすると、こんどの増資(三十四年一一月)で、じつに株数は二八八〇倍、株価を八〇〇円として計算すると、はじめの一株は二三〇万円にも成長したことになる」(『週刊新潮』三十四年九月一四日号)  シュワルツェンバッハは、盛田の話術に魅了されただけでなく、株価の急成長ぶりに着目したのだ。しかも、ソニーは創業以来、独自の道を歩み、世の中にない商品の開発に挑戦していくことを信条としている。アメリカ人はこうしたパイオニア精神に富んだ企業なり、人に対し、常に尊敬の念を抱く。当時のアメリカ人は日本に対しても心に余裕をもっていたといえる。ADR発行の資格を得たソニーは、盛田を中心にプロジェクトチームを編成、その実現を可能にする手続き、諸作業に取りかかった。だが、仕事は想像を絶するほど困難をきわめた。日米両国間では会計原則や規制も違う。それを理解したうえで、一つひとつクリアしていかなければならない。ほかにも難問が山積していた。盛田はその問題処理に寝食を忘れて取り組んだ。ADRが発行され る六月までの半年間を想起して、後年、盛田自身「あんなに働いたことはなかった」と、述懐したほどである。  その苦労が見事に報われる。日本のADR発行第一号となった二〇〇万株のソニー株(原株一〇株単位、公募価格一七・五ドル)は、発売開始二時間で完売した。これによってソニーの資本金は二一億円となり、ようやく一流企業にふさわしい経営展開ができるようになった。  ソニー労組  盛田はなぜADR発行にそれほど執念を燃やしたのか。その理由として考えられるのは、(1)財務体質を改善する、(2)知名度が高まり、セールス活動の展開がラクになる、(3)国際企業として信用が高まる、(4)外資の調達が自由にできるなどだが、それにも増して大きかったのは、時価発行増資によって低コストで多額の資金が調達できることだった。それを教えてくれたのはシュワルツェンバッハである。現に盛田は次のようにいっている。 「彼からアメリカの証券市場のことをいろいろ教えてもらった。なかでも、いちばん印象に残ったのは〈株式はコーポレート・カレンシーだ〉という言葉でした。これは一つの会社が日本銀行と同じように株式という名のお札を発行し、そのお札の価格は企業の業績を背景に市場が決めてくれるというもの。会社に力があれば、その価格は高くなるから、より低いコストで多額の資金が調達できる。会社の競争力が資金コストに反映されるのです。この考え方に私は惹かれた」  これはソニーのような技術指向型の企業にとってたいへんな武器になる。会社が独自の技術をもっていれば、銀行に頭を下げずにすむし、資金のバックアップがあれば、先行投資も安心してできるからである。だが、この間、すべてが順調に動いていたわけではない。それどころか、前代未聞の醜態をさらけ出すような事件が起こった。ADR発行直前、完成したばかりの本社工場で行なわれる予定だった創立一五周年の記念行事がストライキのため、あやうく中止になりかけたことだ。  これはソニー労組が、式典の前日、突然七二時間スト決行を通告してきたため起こったものだ。それを知った井深も盛田も顔色を変えた。「なぜ、こんな大事なときに!」と思ったのだ。  ことの重大性を心配した一部の幹部は式典を順延してはと進言した。しかし、すでに三〇〇名近い招待客に案内状を送ってある。そのなかには秩父宮妃、池田首相をはじめとする政財界、学界の著名人が多数含まれている。いまさら中止するわけにはいかない。そこで首脳陣は式典会場を別の場所に変更し、予定通り開くことにした。  問題は会場をどこにするかであった。盛田の指示を受けた幹部は電話に飛びつき、有名ホテルに片っ端から電話をかけはじめた。高輪プリンスホテルの宴会場が確保できたのは、夜の八時すぎだった。それから夜を徹して、招待状の発送先に会場変更の連絡を取るなど、てんやわんやの大騒ぎを演じた。  いったいなぜそんな失態を演じなければならなかったのか。その辺を理解するにはソニー労組の成り立ちから説きおこさなければならない。  ソニー労組ができたのは、三十一年二月のこと。東通工時代からあった社員の親睦団体「通友会」を解散発展させたもので、他社の労組のように労使が対決、交渉に臨むという性格のものではなかった。だが、会社が成長するにつれて、従業員も増えてくる。組合発足当時四九〇名だった従業員も、三十五年四月には三一〇〇名近くにふくれあがっていた。勢い、従業員の考え方や行動様式も以前とは違ってくる。井深がこんな話をしている。三十五年五月の創立一四周年の記念式典での挨拶の一節である。 「ソニーも大きくなりました。私が式場の受付にいくと、〈入場整理券をおもちですか〉と聞かれた。私が社長の井深ですので、みなさん、よく顔を覚えておいてください」  つまり会社が急成長をとげた反面、社長の顔も知らない社員も出てきたわけだ。その一年後には社員はさらに増えたから、会社幹部の顔を見たこともない人も大勢いた。とりわけ、その傾向は、厚木のトランジスタ工場に多く見られた。地方から出てきた中卒社員が多かったからだ。  もともと、ソニーは、大学、高専出の技術者の比率が高い会社であった。昭和二十八、九年には、高学歴者が全社員の三分の一を占めていた。しかし、トランジスタとトランジスタラジオを手がけたことで、中卒従業員をどんどん採用した。これで頭でっかちの現象はだいぶ是正された。しかし、若い中卒従業員は現場の生産要員が主体だったから、給与や待遇面で必ずしも恵まれていたとはいいがたい。それは仕方がないものとしても、仕事が忙しすぎた。「これじゃ休みたくても、休めない」そんな不満が、末端の従業員の間に少しずつ拡がっていた。組合活動の強化を狙っていた労組幹部がそれを見逃すはずがない。こうした若者や組合幹部の微妙な意識の変化を、多くの管理者はまったく気がつかなかった。トップの経営方針についていくだけで精一杯だったのである。  一方、創業の理念実現に執念を燃やす首脳陣は、「みんなが一つになって頑張ってくれる。だからうちは急成長できたのだ」と、頭から従業員を信じきっていた。だが、その信頼感が甘かったことを知る。三十五年一二月におきた〈年末一時金スト〉がそれであった。これには井深、盛田も大きなショックを受けた。このときは労使間の話合いもまとまり、ストライキは四八時間で終わり大事にいたらなかった。  ところが年があけると、会社側が現行の労働協約破棄を通告し、組合が騒ぎはじめた。これは、三十四年夏に行なった組合綱領改訂をめぐる労使の対立が発端だった。前にも触れたように、ソニー労組は「会社あっての組合」という穏健な姿勢を一貫してとってきた。しかし、安保問題で政情がきびしくなった三十五年後半から、急進派組合幹部は政治色の強い言動を公然ととりはじめる。そしてこれまでの組合のあり方を否定するような条項を協約のなかに盛り込めと要求してきた。もちろん、会社側は拒絶した。その後、両者はこの問題を巡って何回か話し合ったが、意見が噛み合わず平行線をたどったままだった。そこで会社側はあえて協約破棄という強硬手段をとったのである。  これを契機に組合側も挑戦的になった。春闘にひっかけて会社側をゆさぶろうとしたのだ。ところが、強気の戦術を否定する組合員も出てきた。それが次第に新組合結成の動きに代わってくる。急進派の組合幹部はこれを無視し、矢継ぎ早に新しい指令を出し、主導権を握ろうと策した。これを見た穏健派の従業員は、いっせいに組合を離脱、新組合結成に走った。三十六年三月終わりのことだった。  創立一五周年記念式典  組合が二つに割れたことで労務担当役員は、席を暖める暇がなくなった。二つの組合との団体交渉、トップとの対策会議と重要課題が山積していたからだ。創立一五周年に当たった「三六年春闘」の組合のベア要求額と会社側の回答額は一〇〇〇円近いへだたりがあった。交渉が難航するのも当然であった。とくに第一組合であるソニー労組は次第に対決姿勢を強めてくる。たとえば、四月一九日には一三名の無期限指名スト。二七日には団交の途中、突然、半日ストを強行するなど、徹底抗戦の構えをみせる。そして、五月二日および四日には二四時間スト、さらに六日の七二時間ストの通告と、次々に戦術をエスカレートさせていった。会社にとって大事な記念行事の当日にストを行なうといえば、会社側も自分たちの要求をのまざるを得なくなるだろうと考えたのだ。  やがて八日の朝を迎える。外壁の白さが目立つ本社工場の出入口や道路にデモ隊がひしめき、ピケを張った。ソニー労組員と、応援にかけつけた外部団体の労組関係者たちである。周辺には挑発的な文字をなぐり書きしたプラカードが林立する。宣伝カーからアジ演説が流れる。明治通りをはさんだ反対側の歩道にはストに参加しない従業員が集まってきた。閑静な御殿山周辺の住宅街は、異様な雰囲気に包まれていった。  そんな騒ぎをよそに、数日前から社内に泊り込んでいた盛田以下十数名の幹部社員は、窓辺に立ち、紅白の幕を張るなど、あたかも式典の準備をはじめているかのように振舞った。しかし、招待客はいっこうに現われない。出入口でピケを張る労組員の顔に焦りの色が出てくる。  その頃、井深は、高輪プリンスホテルの会場で、招待客に今日の経過を報告しながら、〈今後もかわらぬご支援を賜りたい〉と挨拶をしていた。本社前のデモ隊はその事実を誰も知らなかった。そのうち誰かが「式典は別のところでやっている。オレたちは裏をかかれたらしい」と、絶叫した。招待客の来るのを待ちあぐねていた組合員や支援団体の関係者は、その一声で完全に気勢をそがれてしまった。会社側の巧妙な欺瞞作戦に見事にひっかかったことにやっと気がついたのである。  敗北感を味わった組合は、三日におよんだストを打ち終えると、戦術転換を行なった。力ずくでは問題は解決しないと悟ったらしい。労使交渉の争点だったベア問題も、初任給改訂を盛り込んだ会社側の提示案を新労がのんだことで、解決の兆しが見えてきた。しかし、思わぬことで世間に醜態をさらけ出したことは紛れもない事実である。とくにマスコミがこの一連の騒動をおもしろおかしく報じたせいか、争議終了後も何かと物議をかもした。だが、ソニーの経営陣に対しては割と好意的な記述が多かった。それがせめてもの救いだった。  とはいえ、井深、盛田の受けたショックははかりしれないものがあった。なかでも井深がいちばん重く見たのは、厚木工場から多数のスト参加者が出たことだった。しかも、「トランジスタ娘」がバス七台に分乗してピケ隊に加わっていた。この事実をあとで知った井深は愕然とした。  厚木工場をつくるとき、首脳陣がいちばん気を使ったのは、トランジスタ娘を受け入れる女子寮である。女子寮は、地方から出て来た若い女性の生活の場になるところだけに、不自由な思いをさせてはいけない。設備も最新なものを揃えたし、各種の稽古事の場もつくった。三十六年には、新卒者のために高等学校の講座を開き、勉学の機会を与えるなど最善をつくした。にもかかわらず、こんな結果を招いた。それが気になった井深は、さっそく厚木工場の実情を調べさせた。  その結果、会社と寮の往復に明け暮れ、生活が単調になっている、本社と一体感がない、管理者との対話の機会が少ない、刺激がなさすぎるなど、いろいろ問題があったことがわかった。労務管理が稚拙だったところに問題の根があったというわけだ。  こうした一連のできごとは首脳陣にとって大きな反省材料になった。自分たちが〈理想工場〉の実現をめざしてやってきたことが、末端では、必ずしも理解されていない。急成長のひずみがそんな形で表面に出ようとは、井深自身は考えもしなかった。前にすすむことのみに専念しすぎ、細かい気配りが足りなかったのかもしれない。トップの考え方なり、意見を全社に徹底させ、ベクトルを一つにまとめていくことのむずかしさを井深は改めて知った。そういう意味では、こんどのストライキは首脳陣にとって貴重な体験だった。  ADR問題、スト騒ぎが一段落すると、井深の身辺は前にも増して忙しくなった。計画中の新製品を一日も早く市場に出すためだ。当面の目標は二つあった。一つは、すでに試作を終えた五インチのマイクロテレビの仕上げを急ぐこと、もう一つは、まったく新しい方式のカラーテレビの開発である。  ところが、三十七年は年初から賓客が多かった。二月九日にはアメリカ司法長官のロバート・ケネディ夫妻が来訪した。二月一九日には天皇、皇后両陛下の工場見学が決定した。その知らせを受けたとき、井深と盛田は、一瞬、喜びと不安が交錯した複雑な心境になった。ストの後遺症があったからである。  もっとも、ソニーが皇族を迎えるのは今回がはじめてではない。昭和二十七年の義宮を皮切りに、秩父宮妃、高松宮夫妻、三笠宮夫妻にもお越しいただいている。三十五年九月には、成婚を終えて間もない皇太子夫妻をお迎えする栄誉に浴している。だが両陛下のお越しとなるとやはり事情が変わってくる。陛下の場合は、沿道の警備の問題があるため、到着からお帰りになるまでの時間が、分刻みで決まっている。それだけに見学コースも慎重に選ばないと、あとでいろいろ差しさわりがおきる。そこで盛田が中心になり、万全の対策を立てることになった。  その予定日の直前、皇后陛下が風邪をひかれるなどのアクシデントが起き、来社が実現したのは一ヵ月後の三月下旬であった。社内の先導は、井深が天皇陛下、皇后陛下は盛田が担当したが、盛田の説明が長びき、見学時間が予定より一五分も遅れ、警備陣をハラハラさせたそうである。  このとき、ちょっとしたハプニングがあった。貴賓室で休憩された両陛下に、完成したばかりのマイクロテレビを見せ「これはまだ世の中に出ていませんから」と、井深が口止めしたことだ。マイクロテレビ発売(四月一七日)後、この話が一部週刊誌で報道されたため、マイクロテレビは、一躍人気商品の仲間入りを果たした。  クロマトロン管  両陛下がソニーの工場を見学されたとき、井深はもう一つ開発中の機器を見せている。クロマトロン管を使用したカラーテレビの試作機である。これは、三十六年二月、ニューヨークで開かれたIREショーに出展のため出張した木原が、たまたま会場で見つけたことから開発がはじまったものだ。 「われわれもあの展覧会にSV‐201という世界最小のVTRと、それに使用するためにわざわざ開発した塗布型のメタルテープ《Hi・D(ハイ・デンシティ)》を参考出品することになった。そこで盛田副社長と私、それに数人の技術屋とが一緒に渡米したわけです。そして手のあいた時間を利用して各社のブースを見て回った。そのとき偶然見つけたのが問題のブラウン管だった。私はそういうところで、変わったものを発見するのが得意でしてね。さっそく盛田さんに『すばらしく明るいブラウン管が出ていますよ』と声をかけ、オートメトリック社のブースに引っ張っていったんです」(木原信敏)  同社のブースには、タイプライターを打つとブラウン管の画面に文字が表示される、現在のワープロのようなディスプレーが展示してあった。それを盛田に見てもらったうえで、こんどはRCA社のブースまで盛田を引っ張っていった。そこには空港から飛行機の発着する状況を点と線で表示する航空管制用のディスプレーシステムが展示されていた。  はじめ木原が何をいわんとしているのか見当がつかなかった盛田も、それを見てやっとわけがわかった。ブラウン管の明るさがまったく違うのである。RCAのシステムは照明のない真っ暗な部屋に設置されている。そうしないとブラウン管に表示される点と線が見にくいのだ。これに対しオートメトリック社のブラウン管は、さんさんと輝く照明の下でもきれいに見える。これには盛田も驚いたらしい。  だが、さすがに技術屋である。さっそく、オートメトリック社とコンタクトを取り、木原と連れ立って同社のオフィスを訪ねた。そして、いろいろと事情を聞いてみた。その結果次のようなことがわかった。  オートメトリック社の出展品のディスプレーに使われているブラウン管、クロマトロン管は、アメリカ・カリフォルニア大学の教授で、サイクロトロンの発明でノーベル賞を受賞したアーネスト・C・ローレンス博士が発明したもの。その基本特許はパラマウント映画会社が保有しており、自分たちは、その特許使用権を取得し、航空機用の敵味方識別兵器のディスプレーを実用化したという。そこで盛田は「このクロマトロン管をテレビに使うことは可能だろうか」と、単刀直入に聞いた。オートメトリック社のトップはしばらく考えていたが「自分たちはまだテレビの絵を出したことはないが、やり方によっては明るい絵を出せると思う」と答え、手近にあったコンソールタイプのモデルと幻灯機を使い、簡単な実験をしてみせた。たしかに明るい絵が出る。それを確認した盛田は、その場で技術導入契約を結びたいと申し入れた。  盛田がその気になったのは、それなりのわけがあった。当時、カラーテレビといえば、RCA社が開発したシャドウマスク方式の三電子銃カラー受像管というブラウン管を使うのが常識といわれていた。だが、このブラウン管は価格が高い。調整がむずかしい。故障が多いという欠点があった。しかも、肝心の画面は、据置型の白黒テレビに比べ見劣りがする。暗すぎるうえに、カラー本来の美しい色が出ないのだ。その頃、アメリカで白黒テレビが五〇〇〇万台も普及しているのに、カラーはわずか一〇〇万台。アメリカに次ぐ普及率を誇った日本では、白黒テレビ九〇〇万台にカラーはたった三〇〇台そこそこと低調をきわめていた。シャドウマスク方式のブラウン管の質の悪さが原因だったといっても過言でなかった。  それだけに、井深も、以前から「うちも、いずれカラーをやるときがくると思うが、そのときはこんな欠点だらけのシャドウマスクはやりたくない」と、公言していたほど。そんないきさつがあるだけに、盛田も、木原もきれいな画像を出せるクロマトロン管に飛びつく気になったのである。  オートメトリック社と技術導入契約は結んだものの、それを使ってカラーテレビをつくるには、基本特許をもっているパラマウント映画と技術援助契約を結ばなければならない。そこでパ社と交渉をはじめたが、ADR問題、スト騒ぎなどが重なって合意をみるまでに若干時間がかかった。そして三十六年一二月中旬、やっと話合いがまとまり調印を無事にすませることができた。  このカラーブラウン管は、シャドウマスク方式のブラウン管に比べ六倍の明るい画像が得られるという触れ込みだった。だが、盛田は必ずしも楽観はしていなかった。それどころか、単電子銃・点順次方式(色選別グリッドで周波数を順次替え、色の純度を調節できる)は、技術的には面白いが、機構が複雑になるだけに、システムの調整がむずかしいのではという一抹の不安さえ持っていた。それを承知であえて挑戦したのも、新しくて、よりよい製品をつくりたい一心からであった。  クロマトロンの開発をまかされたのは、当時、製造技術課長だった吉田進と、大越明男(早大理工学部電気工学科、二十八年入社、のち第一開発部長)と、宮岡千里など、数名の若手技術者だった。しかし、これが、会社の屋台骨をゆるがす難事業になろうとは、首脳陣は夢にも思っていなかった。 9章  厚木工場運営  ソニーがニューヨークの中心マンハッタン島の目抜き通りフィフス・アベニュー(五番街)にショールームを開設したのは、昭和三十七年一〇月であった。オープニングの目玉になったのは、井深が「天皇に口止め」した五インチのマイクロテレビである。これが当たった。発売と同時に在庫品を含めて四〇〇〇台を売りきってしまった。このため、一一月には、パンアメリカンのチャーター便を二度飛ばし、マイクロテレビを空輸するなど嬉しい悲鳴をあげたほどであった。  これを契機に、盛田は、家族とともに現地に移住を決意する。巨大なアメリカ市場を相手に商売するには、やはり、アメリカ人の心をつかみ、理解するように努めなければならない。そのためにも、ニューヨークに生活の場をもつことが必要だと思ったのだ。さっそく、この構想を井深に打ち明けた。だが井深は難色を示した。副社長がそんな遠くにいては困るというのだ。それを強引に口説き落とし、盛田は現地移住を納得させてしまった。  井深も、たいへん自己主張の強い人だが、盛田の場合はそれを上回る。しかも、説得のテクニックにたけている。そういう意味でも井深、盛田のコンビは、日本の経営者のなかでも特異な存在だった。それは別として、なぜ井深が、盛田のアメリカ移住に難色を示したのか。それは、創業以来はじめてという試練に直面していたからである。その一つは、厚木工場の建て直し。もう一つは、開発に着手したクロマトロンテレビの難航であった。  前に触れたように、厚木工場はトランジスタ量産のためにつくられた専用工場である。開設当初はゲルマニウムトランジスタの生産が主体だったが、マイクロテレビ発売を契機にテレビ用シリコントランジスタの製造部隊も厚木に移った。ところが、生産を開始すると予期しないトラブルが続出し、歩留りは低下するばかり。このためマイクロテレビの生産計画に支障が出はじめた。従業員の生産意欲の欠如が原因であった。前年の〈記念スト〉の後遺症がそんな形で出てきたのである。  もちろん経営陣もそのギャップを埋めるべく、懸命の努力を続けた。小林茂(のち常務)を工場長に据えたのもそのためであった。小林はもともと労務屋で、トランジスタのトの字も知らない。井深がその小林に工場運営の全権をまかせたのも、労務管理に特異な才能をもっていたからだ。事実、小林は盛田夫人の生家である三省堂書店の労組委員長を振り出しに、都労委労働側委員、共同印刷労務担当役員などを歴任している。とくに共同印刷では大争議解決に重要な役割を果たし、一躍、労働界で有名になった。井深はその経験と特異な才覚をかったのである。  厚木工場の運営をまかされた小林は、就任の第一声で「私は、トランジスタのことは何も知りません。しかし、人間が大好きです。ともに力を合わせて、この工場を世界一の工場にしましょう」と呼びかけた。そして、これからは〈人間信頼〉を根底においた工場運営をしていくと宣言した。  つまり、命令によって人を動かすとか、従業員を単なる生産要員として見るのをやめ、まず各人が気持ちよく働ける環境をつくる。そのうえで、従業員の自主性、創造性を育てていこうと考えたのだ。その手はじめに小林は革新的な対応策を次々に打ち出し、関係者を驚かした。毎月の生産目標を従業員に決めさせるなどは、その典型的なケースかもしれない。こう書くと、労組による生産管理のように見えるが、中身はまったく違う。会社側はあらかじめ在庫品の量やその月の需要見通しを細かく説明しておく。その説明をもとに現場の代表者が集まって自主的に目標数量を決め、会社側に承認を求めるようになっていた。  そして、従業員代表は、月末に必ず反省会を開き、生産目標に対する成果はどうであったかを検討する。その結果を次の仕事に活かしていく、という仕組みである。従業員主体の目標管理だが、一般にいわれる目標管理と違うのは、目標達成率を各人の業績評価に結びつけず、あくまでも、従業員個人の自発性を育てる手段に使っていることである。社員食堂に無人スタンドを導入したり、タイムカードの廃止に踏みきったのもその現われであった。  こうしたやり方は、従業員に好感をもって迎えられた。同時に仕事に取り組む姿勢も少しずつ変化してきた。とはいえ、即、歩留り向上につながるとは限らない。それが現場管理者の共通の悩みであった。  だが、なかには意欲的な女子従業員もいる。それを身をもって体験したのは塚本である。彼女がエピタキシャルの製造装置に入っている化学薬品に異常があるのではと訴えてきたことから話がはじまった。 「たまたま、その女性が、エピの温度を上げようと、材料の入った装置のフタをあけたらしい。そうしたら何かヘンなにおいがする。これはおかしいとぼくのところに報告にきたわけです。さっそく、問題の装置を見に行ったが、彼女が指摘するにおいは、ぼくにはまったくわからない。でも、念のために材料を化学分解し、評価してみたが、これといった異常は認められなかった。だが、彼女は絶対おかしいといいはるんです。その言葉を信じて材料を変えて試してみたら、いままで散々手をやいていた歩留りがとたんによくなった。これにはぼくもびっくりしましたね。同じ女性でも意欲的な人がやっていると、ぼく等の気づかない問題点をピタッといいあてる能力を発揮するんですからね」  と、塚本は当時を語るが、おそらく、以前だったら、こうした現場作業者の意見を採り上げることはなかったかもしれない。厚木工場の雰囲気は少しずつよくなってきていたのである。  苦境  本社の開発陣は、第四、第五の新製品であるVTRとカラーテレビの試作に総力をあげて取り組んでいた。なかでも、悪戦苦闘を繰り返していたのは、吉田を中心としたクロマトロン部隊である。  昭和三十六年一二月パラマウント映画とクロマトロン管および、これを使ったカラー受像機の製造に関する技術契約を結んだソニーは、ローレンス教授の考案した設計理論にしたがって試作機をつくってみた。三十七年三月両陛下に見せたのはこの試作機だった。原理や設計概念はそれでわかったが、市販するにはこれを量産が可能なように改良していかなければならない。問題はその過程で発生した。マニュアルに書いていないやっかいな問題やトラブルが次々に起きたのだ。  たとえば、電子ビームの絞り方がむずかしく、画面輝度と画の鮮明さを両立させることが容易でない、色純度の安定確保がむずかしい、条件を充たす後段加速グリッドがなかなかできないこと、などであった。開発陣は、何度も試行錯誤を繰り返し挑戦してみたが、成果はいっこうに上がらなかった。  このため、当初予定した開発資金はたちまち底をつき、新たな出費を強いられた。それも年を追うごとにかさみ、会社の収益に悪影響を及ぼしかねない危険な兆しさえ出てきた。井深も、盛田も、ことの重大性に気づいたが、いまさらあとに引くわけにはいかない。トップのきびしい視線を背にしながら、吉田たちは死にもの狂いで開発に取り組んだ。その苦労がやっと実り、三十九年には単電子銃・点順次方式の一九型クロマトロンカラー受像機をつくりあげ、報道機関に公開するところまで漕ぎつけた。  だが、この試作機の商品化は見送られた。色識別グリッドの生産性と、画像の〈質〉に不安があったからである。吉田たちは、この方式と同じようにデルタ配列された三電子銃方式のクロマトロン管の開発を思いたった。このブラウン管は、これまでの苦労の積み上げがあったせいもあって、四十年春に完成、六月にはそれを組み込んだカラーテレビを、ともかく発売することができた。このカラーテレビは、画像の質も、商品として恥ずかしくない水準に達していた。そういう意味では吉田たちの努力もムダではなかったわけだ。しかし、惜しむらくは、このテレビは工程が複雑すぎて製造コストが高くなりすぎた。そのうえ、故障が多いなどの欠点があった。極端かもしれないが、吉田たちの血と汗の結晶であるクロマトロンカラーテレビは、つくればつくるほど赤字が増えるというやっかいなシロモノだったのである。  思いがけない結果に、さすがの井深も考え込んでしまった。現に、役員会の席で「やはり、われわれもシャドウマスクを考える必要があるんじゃないかね」と、弱音を吐いたほどであった。しかし、それは井深にとって敗北を意味する。その愚はなんとしても避けなければならない。自身の誇りも傷つくし、社員の士気にも影響するからだ。そこで井深は、もう一度すべてを白紙に戻し、再挑戦することを心に決めた。その直後の役員会で、井深ははじめて自分の意中を打ち明けた。 「ここでクロマトロンにこだわっていたら、いつまでたっても先へすすめない。だから、この際、クロマトロンに変わる新しい方式をさぐってみようじゃないか。ぼくにはそれが最善の策だと思う。その代わり、こんどはぼく自身が陣頭指揮をとるつもりだ」  この提案に、盛田はすぐ賛成した。そして「必要な資金はすべて私が考えます。あとは井深さんの考え通りやってください」と、積極的な支援を誓った。こうして吉田たちは、井深の指示のもとに社運を賭けたブレークスルーにふたたび挑戦をはじめたのである。 「ソニーがカラーテレビで行き詰まり、苦境に立っているらしい」という噂が業界に流れた。これをマスコミが見逃すはずがない。取材が殺到した。ところが、井深は、記者たちの意地の悪い質問にも動揺の色を見せない。それどころか、当時、業界の流行でもあったカラーテレビの輸出競争を次のようにこきおろした。 「いまの業界の行き方は納得できないね。だってそうじゃないか。日本のカラーテレビの生産量は、全メーカーを合わせてもせいぜい月に一万台。これに対しアメリカのそれは二〇万台。これだけ生産量に差があって、輸出したのでは儲かるはずがない。数年後には、日本にもカラーテレビの時代がやってくるだろうが、それから本格的な輸出に乗り出してもおそくないと、ぼくは思っているんですよ」  井深は、もともと工場歩きが大好きという根っからの技術屋である。ところが、三十七年四月、経済同友会の幹事に就任してからは、財界との交遊や社外活動が増え、工場で過ごす機会が少なくなっていた。これは井深にとってたいへん苦痛であった。しかし、いまは違う。開発部隊に交じって、ああでもない、こうでもないと議論しているうちに、自然に自信が湧いてきて、本来の自分に戻ったような気になれる。そんな微妙な心の変化が、強気の発言になったのかもしれない。  開発陣のムードが盛り上がってきた昭和四十一年夏、吉田は半導体部門の塚本や数人のメカ関係者とともに渡米した。提携関係にあるGE社との情報交換と市場調査が目的であった。このとき吉田が関心をもったのは、一年前GE社が発表した〈ポルトカラー〉だった。これはGE技術陣がRCAのシャドウマスク方式に対抗して開発した水平配列型の三電子銃方式のカラーブラウン管を使った一三インチの小型テレビである。一見したところ、画像の質は自分たちの開発したクロマトロン管とほとんど差はないと思ったが、シャドウマスクと電子銃を水平に配列した簡素な構造には強烈な印象を受けた。画像の質さえ改善すればすばらしいカラーブラウン管が得られるのではないかと思ったのである。  トリニトロン完成  帰国した吉田は、アメリカで見聞したことを技術幹部会の席で報告した。そのなかに「RCAの技術が以前と比較にならないほどすすみ、画面の明るいブラウン管が大量につくられている。これは蛍光材料を、これまでの酸化物から希土類に切り換えたためらしい」という話もつけ加えた。これを聞いた首脳陣は「今年中に量産のメドが立たなければ、クロマトロンの改良はあきらめて、シャドウマスクに切り換えるしかないな」と、消極的な姿勢を示した。  吉田は、一瞬、返答に窮した。自分がいいたかったのは、GEのポルトカラーをヒントに電子銃を改良すれば思いがけない結果が得られるかもしれないということだったからである。  しかし、それも確信があったわけでなく、あくまでも技術屋のカンで、そう思っただけである。そこに吉田の苦しさがあった。思案にあまった吉田は「単電子銃内に電子ビームを三本走らせることができるかどうか、実験してみよう」と、現場に提案してみた。だが、反応は意外に冷たい。やってもムダといわんばかりの雰囲気であった。吉田はそれを無視して実験着手を命じた。  そのとき吉田が指示した基本条件は、(1)電子ビームは水平配列にすること、(2)電子銃は単電子銃であること、の二つであった。その発想の根拠はGE社のポルトカラーにあったことはいうまでもない。つまり、最初に開発した単電子銃、複電子ビームの質が悪かったのは、三つの電子ビームがレンズを通過する位置がはなれすぎていたために起こったもの。ビームを近づければ問題は解決できる。また、二度目につくった三電子銃クロマトロンの製造コストが割高になったのも、部品点数が多すぎたことに起因している。部品点数の少ない電子銃はコスト的に絶対有利と判断したのだ。  開発陣は、さっそく実験にとりかかった。ところが、おおかたの予想に反し、好ましい結果が出た。その知らせを聞いた井深も、実験結果を自分の目で確かめた。 「これは筋がよさそうだ。これでやってみるかー」  この井深の一声で、プロジェクトの〈GOサイン〉が出た。吉田、大越、宮岡たちの本格的な挑戦はそれからはじまった。ほぼ五年におよぶクロマトロンの開発、設計で苦しんできた歴史があるだけに、新型電子銃の開発は順調にすすんだ。四十一年暮れには原型をつくりあげることに成功する。テストの結果も上々だった。電子銃開発の目安がつくと、電子銃から発射される三種類の電子ビームの色選別機構の開発というやっかいな仕事がある。当時、大多数のメーカーはRCAが開発したシャドウマスク方式を使っていたが、吉田たちは、あえてこの方式の採用を避けた。自分たちが目標としている明るい画質が得られないからである。開発陣の苦闘が続いた。  井深も毎日のように研究室に顔を出し、助言や激励を繰り返した。とはいえ、心はかつてのトランジスタ開発当初と同じで、常に期待と不安で揺れ動いていたろうが、決して表に出さなかった。最後にブラウン管のガラスバルブが残った。普通、担当者が図面を引き、専門の型屋に発注するのが常識だった。しかし、クロマトロン管作成のときの技術蓄積があるだけに、大越は「これはオレがつくる」と、自分が石膏で型をつくった。これを外部のガラスバルブメーカーに渡し、試作品をつくってもらえばいいわけだ。  待望のブラウン管ガラスバルブが届いたのは、四十二年一〇月一五日。夜を徹して組立てを行ない、翌日の午前中、やっと新しいブラウン管をつくりあげた。その年の春、水平配列の新型電子銃とアパチュアグリル、ガラスバルブを配した第一号の一三型カラー受像機が完成した。  新しい電子銃を組み入れたテレビは画面も明るいし、色調も申し分ない。知らせを聞いて駆けつけた井深も、その画面を見て、一瞬、声をのんだ。そしてちょっと間をおいて「よく頑張った。ご苦労さんでした」といった。井深はもっと何かいいたかったのかもしれないが、胸が詰まって、あとは声にならなかったのだ。  完成したカラーテレビは「トリニトロン」と命名された。キリスト教でいうトリニティ(父と子と聖霊の三位一体)と、エレクトロン(電子管)の合成語だった。もちろん、名づけ親はクリスチャンである井深であった。製品発表会は、翌四十三年四月一五日、オープン二年目を迎えた銀座のソニービル八階ホールで行なわれた。  会場での反応はさまざまであった。なかには「電子銃の組立て精度がきつく、量産には向かないのでは」とか、「アパチュアグリルの形状を見れば大型管は不可能のような気がする」といった意地の悪い質問をぶつける記者もいた。吉田たち開発担当者は、それを巧みにかわし、発表会は無事に終わるかに見えた。  ところが、ここでふたたび壇上に上がった井深が、思いがけないことを口にした。「発売は一〇月中、年内に一万台の量産を行なう」と宣言したのである。これには吉田たちはアッと声をあげた。「そんな無茶な!」と、思ったのだ。やっと一〇台の試作機ができたばかり。これを量産にもっていくにはそれなりの手順もあるし、技術的なツメも必要である。それを知りながら一万台の量産を公言する。吉田は井深が憎らしくなった。苦労して一つの壁をクリアすると、もう次の新しいハードルを設定して、これを越えるのがお前たちの仕事といわんばかりにけしかける。それが井深のいつもの手だとわかっていても、ときがときだけについそんな気になってしまったのである。  IBMへ技術輸出 「必要な資金は、すべて私が考えます」と大見栄を切って井深を励ました盛田も、資金手当てにたいへんな苦労を強いられていた。緊急を要する先行投資が多すぎたからである。  JR山手線大崎駅前にあった園池製作所の本社工場の買収(敷地面積一万三八〇〇平方メートル、地上四階、地下一階、総面積二〇〇〇平方メートル)、マイクロテレビの量産化、VTR、カラーテレビの商品化、銀座ソニービル建設用地の買収資金など、新しい計画が目白押しで、資金はいくらあっても足りなかった。昭和三十八年四月、第二次ADR三〇〇万株公募に踏みきったのもその資金手当の一環であった。  ところが、東京オリンピックが開かれた三十九年九月を境に、世界の景気動向にかげりが見えはじめる。発端は、三十八年七月、アメリカ資本の海外流出に歯止めをかけるため、ケネディ大統領がとった苦肉の策であった。  当時、アメリカの大企業は、人件費の高騰と高率課税に悩んでいた。そこで海外への投資を名目に資産の分散をはかった。これを重大視したケネディは、資本の流出に対し一律一六・五パーセントの税金を課するという強硬手段をとった。いわゆる〈ケネディ・ショック〉の発動である。その結果、アメリカの海外投資ブームは沈静化の方向をたどりはじめた。ところが、その年の一一月、世界を震撼させるような事件が起きた。遊説中のケネディ大統領がダラスで暗殺されたことである。  アクシデントの連続は、世界の景気動向に微妙な影響をもたらした。もちろん、日本も例外ではなかった。とりわけ家電業界は、三十八年末頃から内需の停滞がはじまり、三十九年夏場には部品業界、家電販売店の倒産問題がにわかに表面化した。松下電器の松下幸之助会長が営業本部長代行に就任して話題になったのも、販売店、販売会社の苦情に対応して、新しい販売体制を確立するためであった。  これに拍車をかけたのが有名企業の倒産である。三十九年末の日本特殊鋼、サンウエーブの会社更生法申請、さらに四十年三月には、戦後最大といわれた山陽特殊鋼の会社更生法申請、ついで山一証券、大井証券など大証券会社の経営破綻など不祥事が相次いで起こった。いずれも、高度成長期に展開した背伸び経営がもたらした結果だといわれている。  六〇〇円台で時価発行されたソニーの株も、二五〇円にまで下がり、低迷を続ける始末。これでは資金を集めるのも容易でない。盛田が苦しむのも当然であった。  窮状を切り抜けるきっかけになったのは、昭和三十六年、ソニーと東北大学で共同研究の末、開発した高密度記録用のメタル磁気テープHi・Dテープである。このメタルテープは時期尚早を理由に商品化は見送られたままになっていた。その活用の機会を模索していたのは研究部の植村三良であった。 「私はあのテープ開発のとき進行係をやっていた。それだけに開発にどれだけお金がかかったかよく知っています。そんな苦労をしてつくったテープをそのままにしておくのはなんとしてももったいない。そこで盛田さんの了解を得て、IBMにサンプルを送ったんです。オーディオやビデオ用だと互換性の問題があって使えない。それならコンピュータ用にどうだろうと考えたのです」(植村三良)  IBMはこのテープに異常な関心を示した。当時、IBMが使っていたコンピュータ用の磁気テープは、3M社の製品一辺倒であった。これは経営戦略をすすめるうえでもあまり好ましいことではない。そこでIBMは大型のコーティングマシンを購入、実験的に磁気テープの試作をはじめた。だがいくら努力しても条件を充たす磁気テープができない。IBMにはそれだけのノウハウがなかったからである。  ソニーが送った磁気テープのサンプルが届き、さっそくテストしてみると非常によい結果が出た。報告を受けたIBMのワトソン会長は、ソニーとの共同研究を思いたち、日本を訪れた。昭和四十年秋のことであった。盛田と会ったワトソン会長は次のように提案した。 「おたくのテープを見せてもらいました。あれだけの技術があれば、コンピュータ用のテープは必ずできるはずです。一つうちとフィフティフィフティの合弁会社をつくってテープ製造をやる気はありませんか。工場の場所は日本でもアメリカでもかまわない。もちろん、そこでできたテープは全部私どもで買い取ります」  この話に盛田は乗り気になった。だが、結局まとまらなかった。技術陣が「顧客がIBM一社だけというのは、買いたたかれる恐れがあるから危険だ」と、難色を示したからである。  合弁会社構想は消えたが、IBMはなんとしても磁気テープの製造ノウハウがほしい。そこで方針を変え、工場建設から製造までの技術供与を求めてきた。磁気テープのつくり方を全部教えてくれと頭を下げてきたわけだ。これで話合いがまとまり、昭和四十年一一月、ソニーはIBMと電子計算機用磁気テープの製造技術契約と、新しい磁気記録媒体の共同研究ならびに技術援助契約を結んだ(昭和四十一年一月、政府の正式認可を得て発効)。 「あのときIBMは、自社の保有する磁気録音に関する未公開の技術、それも特許を含めて公開するから、ソニーで自由に使ってよいという条件を提示してきたんです。そのなかにはコンピュータテープに高速でデータを書き込んだり、演算する技術も入っていた。ところが、盛田さんは、うちはコンシューマのものしかつくっていないからといって断わり、ロイヤルティだけもらった。だが、本当はあのノウハウはもらっておくべきだった。そうすれば、ソニーにとってたいへんな武器になっていたはずなんですがね」  と、植村は残念がる。しかし、当時の盛田はすぐには使えない技術より、先行投資に役立つ資金がなんとしてもほしかったのだ。  電子式卓上計算機  IBMへの技術輸出は、ソニーに多額のロイヤルティをもたらしただけでなく、有形無形の相乗効果を生んだ。金銭面では、契約一時金一〇万ドル、ロイヤルティとして一巻あたり一〇セントの対価を、向こう一〇年間、IBMから受け取ることができること。対外的には信用と宣伝効果がある。当時の新聞はこの快挙を次のように報じている。 「いまIBMといえば、電子計算機では世界市場の七割を押える巨大企業。そこへ電子計算機の頭脳ともいえる記憶装置用の磁気テープのつくり方を教えるのだから、外国技術導入に明け暮れる日本の産業界にとって近頃にない朗報だ」(四十一年二月、朝日新聞)  そのうえ、IBMにソニーの株式を大量に売るという副産物まで飛び出した。これは財務担当の吉井の努力で実現したものだ。その前後のいきさつを簡単に振り返ってみよう。  前述のように〈ケネディ・ショック〉に端を発した四十年不況の反動で、ソニーの株価は完全に低迷期に入った。このため首脳陣が予定していた資本調達に狂いが出てきた。放置しておけば取り返しのつかない事態を招く。心配した吉井はひそかに打開策を模索していた。その結果、外人投資の誘致によって、当面の窮状を切り抜けようとはかった。その緒口をどこに求めるかが問題になった。  そんな矢先、IBMへの技術輸出の話がまとまった。IBMは世界有数の大企業だし、資本量も豊富だ。そのIBMに技術援助を提供するだけでなく、株をもってもらえば両社の絆はもっと深くなるに違いない。ソニーの株ももっと高くなる可能性を秘めている。そこをうまく強調すれば、話はまとまるかもしれないと吉井は思った。さっそく、井深と盛田に自分の構想を打ち明けた。井深も盛田も双手をあげて賛成してくれた。  トップの承認を得た吉井は、単身渡米した。そして契約交渉の際知り合った技術担当のバーケンシュタック副社長をIBM本社に訪ねた。  話合いは思いのほかうまく運んだ。バーケンシュタックが、インターナショナルセクションの財務担当者を紹介してくれ、時価六三三円の株を五〇万株引き受けてくれるという話がまとまったのだ。これをきっかけにソニー株は見直され、一気に一〇〇〇円台に突入する。これが口火となり、ふたたび日本に外人投資ブームが起こった。吉井は、ソニーの危機を救っただけでなく、低迷を続けていた証券市場の活性化にも一役かったわけだ。  IBMがソニー株を購入する気になったのは、ソニー全体の技術力を高く評価したからにほかならない。ソニー技術陣はケネディ・ショック以降も画期的な商品づくりに挑戦を続け、内外で注目されていた。その商品の一つに電子式卓上計算機がある。これはIBMへの技術輸出のきっかけをつくった研究部長の植村が道楽半分に考案したものであった。  植村は東京物理学校を出て、東北大理学部修士課程にすすみ、数学を専攻するかたわら、永井研究室でアルバイトがわりに助手を務めた。井深との交遊がはじまったのもその頃である。助教授時代には、陸軍技術研究所の嘱託となり、ドイツから技術導入したウルツブルクレーダー開発要員として活躍した実績ももっている。その植村が、戦後、鉄道技研を経てソニーに入ったのも、研究部門を強化してくれと井深に頼まれたのがきっかけである。ソニーに移っても、商品づくりにはいっさい関与せず、もっぱら、基礎研究を勝手気ままにやってきた。井深は文句をいわない。植村の才能を高く評価していたからだ。そんな個性的な植村も、若い研究者の育成には人一倍情熱を燃やした。その植村はいう。 「私が入った頃のソニーは、アマチュア無線家の集まりのようなもの。それはそれでいいのだが、やはり事業を伸ばしていくためには、アマチュアから脱皮していかなければならない。たとえば、技術者が何かを開発する。その場合、普通の研究所だったら必ず技術論文を書きます。ところが、ソニーの技術者は目先の仕事に追われ、それをまとめる暇がない。かりに書いても、たいていの人は自分の机の引き出しにしまい込んでいる。これじゃ宝のもちぐされだし、技術蓄積はできません。そこで私は、若い研究者に研究報告を書け、学界に顔を出し、研究成果を発表しろ、大学の研究者と積極的に交流せよと、やかましくいい続けたわけです」  植村の徹底した指導ぶりが実を結び、技術レポートの体系化が実現した。社内で、技術者同士がディスカッションする技術発表会も定期的に開かれるようになった。これがのちにソニーの技術レベルを高める原動力になるのである。  植村が卓上電算機の開発を思いたったのも、IBMへテープのサンプルを送ったのと同じ発想であった。廃棄処分になるはずのトランジスタを再活用することを思いついたのがきっかけだった。  昭和三十六年の〈記念スト〉の後遺症でガタガタになった厚木工場の生産体制も、小林新工場長ら工場幹部の懸命な再建工作が実り、職場の雰囲気も少しずつ明るさを取り戻してきた。しかし、歩留りは相変わらずパッとせず、不合格品は増える一方だった。たまたま、工場に顔を出した植村はこれに目をつけた。このトランジスタはラジオやテレビには使えないかもしれないが、デジタル回路のスイッチングに使えるのではと思ったのだ。  そこで、植村はその不良品をもらい受け、研究部にもち帰った。そのなかから使えそうなトランジスタを一〇〇〇個ほど選び、数人の部下を動員して電算機用の回路の試作にとりかかった。三十六年末頃の話である。  小さな電子ソロバン  最初、植村は道楽のつもりで開発をはじめたが、試作がすすむうちにだんだん熱が入ってくる。つくりあげた試作機はおもちゃの域を出なかったが、部内の評判はすこぶるいい。これに気をよくした植村は、本気で計算機の開発に取り組むことにした。いずれ近い将来、現在のアナログ技術にとって代わり、デジタル技術がものをいう時代がくると確信していたからであった。  植村は、ときを見はからって、自分の構想を井深に話した。井深は「そんなものをやっても商売にならんよ」と、まったく話にのってくれない。植村は「捨てるトランジスタを使ってつくるので、原価は安いです。だからやらせてください」と、執拗にねばった。井深も頑固なことでは有名だが、植村もその点ではひけをとらない。メタルテープの開発過程で、仙台工場長の高崎を相手に派手なケンカを演ずるなど、骨っぽいところを見せている。そんな植村の気性を知っている井深は、適当にあしらって追い返してしまった。  だが、植村はいっこうにへこたれない。それどころか、独断で仕事をさっさとすすめてしまう。ソニーのためになると信じきっているのだ。だが、その後、内緒で開発をすすめているのを井深に見つかりこっぴどく叱られた。  普通の会社なら、開発はそこでストップさせられる。しかし、井深は、なぜかそうしなかった。開発中の試作機を見ているうちに気が変わったらしい。「ソロバンの代わりになるようなものになるならやってもいい。その代わり、大型は絶対にダメだ」と、釘をさすことを忘れなかった。植村も、はじめからそんな気持ちは毛頭もっていなかった。日電や日立、富士通といった大メーカーが、IBMの後を追い、電算機の大型化、高速化に取り組み、四苦八苦しているのを知っていたからだ。  しかし、井深のいう〈小さな電子ソロバン〉となると、開発計画を手直ししなければならない。機械を小型にするには消費電力を少なくすることが先決。とすれば、当然、使用するトランジスタ、回路、メモリなどに問題が出てくる。植村たちは、再検討をはじめるとともに、技術の再構築に取り組みはじめた。  最初の試作機〈MD‐3型〉のバラックセットができたのは、三十七年夏の終わりであった。この機械は電動タイプライターつきの八桁計算機で、答えはすぐタイプで打ち出せるようになっている。井深をはじめ技術幹部立ち会いのもとで行なわれたテストも上々だった。 〈電子ソロバン〉の開発が正式に認知された。力を得た植村たちは、この試作機をたたき台に商品化に向けて本格的な挑戦をはじめた。目標は低速動作でもよいが、消費電力をできるだけ少なくすることである。そのためのシリコントランジスタ、シリコンダイオード、ハイブリッドICの開発が平行して行なわれた。改良機が何台かつくられた。だが、植村はいっこうに満足しない。  植村はもともと数学屋だけに、中途半端なことが大嫌いなタチである。それだけに部下に対しいつもきびしい姿勢で臨む。自分が気に入らなければ何度でもやり直しを命ずる。そのため開発陣はどれだけ泣かされたかわからない。やっとオールトランジスタの電子卓上計算機を完成させることができた。三十九年三月初旬のことである。  世界初と銘打ったソニーの〈MD‐5型〉電卓の記者発表が終わった直後の三月一八日、シャープ(当時、早川電機)も、オールトランジスタの電子式卓上計算機をはじめて公開した。この電卓に使われたトランジスタ、ダイオードは四〇〇〇本、大きさは底辺が一メートル四方、高さが五〇センチ近くもあった。その代わり二〇桁まで計算できる。それが売り物だった。これに対し、ソニーの八桁電卓〈MD‐5型〉は、シリコントランジスタ、シリコンダイオード八〇〇本。一部にICが使われていた。つまり、ソニーの機械は小型だが、計算能力はシャープのそれに劣る。技術的には両社優劣がつけがたい、未完成の機械だったわけだ。  ソニーは記者発表と同時に、この電卓をニューヨークで開かれた世界博に出展している。この博覧会は、世界各国が「自国の誇り」になるものを出展することになっている。その趣旨に沿って日本から選ばれたのが、巨大タンカー「日本丸」の模型とソニーのマイクロテレビ、BGM装置、VTR、そして発表したばかりのトランジスタ電卓であった。井深が「世界初のトランジスタ電卓は、うちが開発したもの」と強調するゆえんもそこにある。  しかし、実用化一番乗りを果たしたのは、シャープだった。四十年九月に発売に踏みきった一四桁電卓(重量一六キログラム、価格三七万九〇〇〇円)がそれであった。これを契機に新規参入メーカーが続出、電卓をめぐる環境はにわかに騒がしくなった。  そんな騒ぎをよそに、植村たちは〈MD‐5型〉の実用化研究に取り組んでいた。家庭の主婦が気軽に使えるような機械にするには、単に機械を小型軽量化するだけでなく、機能面の改良が必要だった。小数点表示をどうするかという問題もある。フローティング・デシマル、四捨五入方式の案出、パーセント表示、逆数をとることなど、考えることがたくさん残っていた。数学出身の植村らしいやり方であった。  惜しむらくは、理想を追いすぎたようだ。そのため実用機の開発は四十二年五月と大幅にずれ込んだ。しかも〈SOBAX〉と名づけられたこの電卓は、たしかに複雑な計算も容易にこなせる高機能機との呼び声も高かったが、価格は二六万円と割高になった。これでは家庭には入りにくい。とすれば、あとはオフィス、あるいは設計とか高度な計算を必要とする技術者を対象にするしか手がない。ところが、それらの人たちは機械的計算機の計算手順に慣れていて、植村たちの開発した〈算術方式〉の計算機に違和感をもち、なかなか使ってもらえそうもなかった。  そのうえ、ソニー、シャープに触発された新規参入メーカーが、同じような卓上電卓を開発。激しい値下げ競争を展開しはじめた。儲かりそうなものならなんでも手がけたがる日本産業界特有の〈便乗思想〉が、またぞろ頭をもたげてきたのだ。ソニー首脳陣は、卓上計算機からの撤退を決意する。この事業を継続するには多額な資金がいるし、リスクも大きいと判断したのだ。植村は失望の色を隠さなかった。せっかく育ちはじめたデジタル技術の芽を簡単に捨ててしまうトップの見通しの甘さにである(ソニーの開発したSOBAXは、のちにスミソニアン博物館に寄贈された)。 10章  VTR開発  開発にてこずったカラーテレビ、卓上電算機と違い、割とスムーズに開発がすすんでいたのは、木原が担当したVTRであった。日本のVTR開発は、ソニーの独壇場だったテープレコーダと違い、各社ほぼ同じスタートラインに立って開発がはじまった、きわめて珍しいケースである。そのなかで先駆的な役割を果たしたのは、やはり、ソニーだった。国産初のVTR試作(昭和三十三年一〇月)に成功、さらに三十四年一一月にはトランジスタを使った回転二ヘッド方式のVTRを試作し、注目された。テープレコーダ開発を通じて培った磁気記録技術の蓄積がものをいったといえる。  だが試作に成功した二機種は、いずれもアメリカのアンペックス社の方式をベースにつくりあげたもの。そのため開発担当の木原本人も物足りなさを感じていた。独自の技術で家庭で使えるような機械をつくり、井深をアッといわせてみたい。それが木原の夢でもあり、目標でもあった。  そんな矢先、海外から耳寄りな話が舞い込んだ。放送用VTRの実用機を開発したアンペックス社から、技術提携する気はないか、と申し入れてきたことだ。三十五年二月には、アンペックス社の研究部長、VTR部長、改良部長、国際部長らの幹部が来日、ソニー首脳陣と話合いがはじまった。その結果、七月九日には、両社の間で共同研究を前提にした技術援助契約が結ばれる。この一連の契約のなかには特許権の相互無償許諾契約なども含まれていた。  ソニーは自社のもつトランジスタ関連技術を提供する代わりに、アンペックス社のVTR製造ノウハウを公開してもらう。それによって最高のVTR技術を確立しようということで意見の一致をみたのだ。契約調印が終わると、アンペックス社から二〇名ほどのエンジニアが日本にやって来た。ソニー技術陣とプロジェクトチームを組み、新しいVTRシステムを開発するためである。そのときソニー側から製造部隊のリーダーとして選ばれたのが、第二製造部でオーディオ機器の生産に取り組んでいた森園正彦(前出)である。  両社のジョイント・ベンチャーは、正式にスタートした。そしてアンペックス方式三回、ソニー方式二回の試作研究を重ね、最終的にまとめたのが、世界初のトランジスタ式VTR〈SV‐201型〉である。このVTRは二ヘッド・ヘリカルスキャンタイプ、テープスピード七インチ/秒と、テープレコーダと同じ速度で、当時のVTRの水準を上回る高性能機であった。しかし、二ヘッドでは放送用には向かず、家庭用としては大きすぎた。このためこの機械は陽の目を見ることなく消えていった。  アンペックス社との関係がおかしくなったのは、この前後のことであった。原因はいろいろあった。主な理由は、開発方針に対する見解の相違、仕事の取組み方の違い、アンペックス側の複雑な社内事情などである(アンペックス社が正式に特許権の技術援助契約の打切りを通告してきたのは四十一年二月だった)。  いずれにしても、以後、ソニーのVTR開発は木原を中心に独自路線を突っ走ることになった。最初の成果が、三十七年九月に発表した〈PV‐100型〉VTR(カメラ、モニターTV組合せで、四三六万円)であった。この機械は、いわゆる一・五ヘッド方式で、その頃世界の放送局が使用していたアンペックス方式のVTRに比べ、容積で五〇分の一という大きさ、当時、世界でいちばん小型のVTR装置だった。  完成したVTRは、すぐニューヨークに送られた。開設したばかりの五番街のショールームでデモンストレーションをしたいという盛田の希望であった。需要の少ない日本より、まずアメリカ市場で商売の緒口を見つけようという狙いである。  数日たったある日、ニューヨークの盛田から第二製造部長の大賀のところへ電話が入った。「機械が動かないから、大至急、代わりの機械をもってきてくれ」という内容だった(大賀はドイツ留学から帰国した三十四年九月、盛田の要請でソニー入りした)。  大賀はその手配を森園に命じた。森園は若い技術者と一緒に代替機をもって、アメリカに飛んだ。三十七年一〇月末のことである。 「あの機械は小型になったとはいえ、二台だとかなり大きな荷物になります。重量も、たしか一〇〇キログラムを超していたんじゃないかな。それを客席にもちこんだら、二人分の運賃を取られた。その頃、荷物の通関は羽田じゃなくて、アンカレッジでやっていたんです。だからアンカレに着くとそれをおろし、通関手続きをすませ、また次の乗換え便に乗せなければならない。自分たちの荷物のほかに、そんな重いものを担いでいくんだから、さすがにまいりましたね」(森園正彦)  一七時間あまりの空の旅を終え、みぞれの降るニューヨーク空港に着いた森園は、五番街までタクシーを飛ばす。ロンジンビルの真ん前にあるソニーショールームに着くと、さっそく地下室においてある問題のVTRを調べた。原因はすぐわかった。航空便で送るため、万一のことがあってはと、シャーシーに補強材を取りつけた。ところが、溶接した補強用のリブが何かの衝撃で曲がってしまい、そのため基盤全体がゆがみ、動かなくなったのである。  生活に革命を  PV‐100型VTRのニューヨークでの評判は予想以上に高かった。だが、それでも井深は納得しない。開発部に顔を見せるたびに「重さが六〇キロで、何百万円もする機械なんて、ぼくの性に合わんな」と、グチをこぼす。それが自分たちに対する挑発だと木原も十分承知していた。  木原も、もっと手軽に使えて、コストの安いVTRの開発構想をひそかに練っていた。試作機をつくって「こんなものができました」と井深に見せる。したり顔で〈嫌味〉をいう井深に一矢報いるには、それがいちばん利き目があると木原は考えたのだ。その手の内を次のように話す。 「VTRはなぜ高いのかという問題を掘り起こしてみたんです。その結果、三つの問題点が浮んだ。一つはサーボモーターが多すぎること。二番目は回路機構が面倒なこと。三番目はテープの消費量が多すぎるという点だった。つまり、この三点が解決できれば小型化も、価格を安くすることも可能だと考えたわけです。そこでさっそく問題解決に着手した。その緒口を見つけるまでは、やはり、試行錯誤の繰り返しが続いた。しかし、それも一週間とかからない。あとは思いついたアイデアを何回か実験し、二、三日後には試作機をつくりあげてしまった。これもEV、PVで蓄えた技術があったからできたんですよ」  これまで放送用VTRには四つのサーボモーターが必要だったが、それをドラム用のサーボとヘッドサーボの二つにしてしまった。  第二のポイントは回路機構を簡略化することだった。従来、テープレコーダやVTRの記録ヘッドに流す電流は周波数により抵抗値が変わるため、ヘッドのコイルに流す前に抵抗を通し、低電流化しなければならなかった。ところが、VTRではその抵抗値が録音の場合の一〇〇倍、二〇〇倍にもなる。そのためパワートランジスタを使った大きな回路で低電流化していた。これがVTRの小型化を阻む障害の一つだった。  木原は、周波数によって電圧の変わる等価回路をコイルの前におく、最適記録電流方式というまったく新しい方法を考え出した。これだとパワートランジスタも不要になるし、回路機構も簡略化することができる。しかも、ミリワット単位で記録できることもわかった。  もう一つの問題点であるテープの消費量は、ドラムを小さくして、性能のよいフェライトヘッドをつくることによって解決した。  昭和三十九年一一月に発表した世界初の家庭用白黒VTR〈CV‐2000〉(発売は四十年四月)はこうして生まれた。このVTRは二分の一インチテープを使った回転二ヘッド方式で、重さは、テープレコーダ並みの一五キロ、価格は一九万八〇〇〇円と、これまでの常識では考えられないほど安くなった。手軽に使えて、価格の安いVTRをつくれという井深の長年の夢は、こうして実ったのである。  発表会の席で「今回の製品は、人の真似でなく、ソニーで生まれ育ち、成長したものです。生活に革命を生むというのが、ソニーの特徴であり、喜びであり、価値だと思っています」と、井深が手放しで、〈CV‐2000〉の誕生を喜んだのも当然であった。  しかし、便利な機械はできても、売れなければ、苦心の成果も死んでしまう。当時の社会常識からすれば、VTRは放送局で使うものであった。この認識を改めさせ、もっと広い分野で使ってもらうようにしなければ、ビジネスは成り立たない。ソニー首脳陣は業務用として新しいマーケットを開拓することを考えた。メーカーやサービス業の新人教育用、学校での教材づくり、あるいはセールスツールなどに利用できるとアピールすれば、ビジネスの輪は、必ず拡がっていくと思った。  アメリカ市場で、その仕事をまかされたのが森園である。彼は業務用の〈PV‐100型〉をひっさげて、全米各地を駆け巡った。 「当時、ソニー・アメリカにインダストリアル・ディビジョンというセクションができて、私が部長として赴任したわけです。そして、現地のスタッフ、これは風変わりな男だったが、たいへんな切れ者でしてね。その男と弥次喜多道中しながら、いろんなところを訪ね歩いた。航空会社、著名な大メーカー、学校、病院、軍関係の施設と、脈のありそうなところはほとんど回りました。扱い方を教えたり、値段の交渉までやった。購入してもらった機械の評判はよかった。ただ、その頃の技術は未熟だったせいか、いろいろと苦情もありました」  と、森園は苦労の一端を語る。苦情の内容は、ヘッドが汚れるとか、テープのかけ方が面倒だという声が圧倒的に多かった。このときの苦い経験がのちにカセットテープの開発構想につながっていくのである。  研究所長交代  森園がアメリカを舞台に猛烈な売込み活動を展開している頃、ソニー内部でちょっとした異変が起きていた。中央研究所の鳩山道夫所長の進退問題が表面化したことである。  前に触れたとおり、鳩山は、昭和三十六年、井深に請われて、通産省工業技術院電気試験所から、ソニーに移った、学識経験豊かな一流の研究者であった。当然のことながら、ソニー首脳陣も、その活躍に大きな期待をかけていた。鳩山自身も、井深の期待に応え得る研究所をつくりたいと、それなりの構想を描いていた。電気試験所や電電公社の電気通信研究所から何人かの人材を引き抜いたり、中研の開所式で「トランジスタの研究は、製造部門に研究能力があるから、われわれは、その次のことをやっていこう」と抱負を述べたのもそのためであった。  その鳩山の遠大な構想も三年で、春の淡雪のように消えてしまった。理想と現実が噛み合わなかったのである。 「一口でいえば、私とソニーという企業の体質の違いかな。もちろん、ほかにも理由はいくつかありましたよ。たとえば、私が提唱した基礎研究という言葉の解釈に誤解があったとか。要するに、トップは、基礎研究でもやらせておけばエサキ・ダイオードのようなすばらしい成果が出てくるのでは、という期待感をもっていた。研究所のスタッフは、私の〈トランジスタはやらなくていい〉という言葉の意味を取り違えた。真意は、トランジスタの周りにもやるべきことがいっぱいある、という意味だった。それを言葉通り受け取って、先行してしまったというわけです」(鳩山道夫)  こんな調子だったから、三年たってもトップの期待に沿う成果が出るわけがなかった。鳩山にいわせると、研究所をゼロからはじめて三年で成果をだせというのは酷だという。しかし、当時のソニーにはそんな理想論は通用しなかった。それはクロマトロンの開発とかかわりがあった。  クロマトロンの開発部隊が〈乏しい予算で社運を賭けた大仕事をやっているのに、中研はメシのタネにもならない、あさっての研究にうつつをぬかしている。これはおかしい〉という声が首脳陣の一部から出てきたのだ。鳩山もその都度、弁明し、理解を求めた。だが、状況は悪くなるばかり。そのうち鳩山のよき理解者であった井深までが「こんな大事なときに、道楽ばかりされていたのでは困る。研究所はもっと実用的なものに関心ある人にまかせなければダメだ」といいだした。これには鳩山もショックを受けた。だが、黙って引き下がるわけにはいかない。そこで「もう二、三年やらせてほしい。そうすれば必ず成果が出る」とねばってみたが、井深を飜意させることはできなかった。  結局鳩山は研究所を離れ、常務として研究、技術全般を見ることになった。鳩山の後任には、井深とは昔馴染みで、昭和三十八年、NHK音響技研をやめ、ソニーの一員になっていた島茂雄(当時、常務、特機部門担当)をあてることにした。  森園が帰国し、古巣の特機部門に戻ったのはその直後である。特機部門は業務用のVTRをはじめ、放送局向けのオーディオ機器、特殊用途のテープレコーダといった受注品を扱うセクションであった。ところが、森園が復帰してしばらくたったある日、井深に呼ばれた。社長室に出向くと、井深は思いがけないことを口にした。「放送局向けの機器は手間がかかって面倒だから、この際手を引くことにした。後始末はキミにまかせる」というのである。一瞬、森園は自分の耳を疑った。たしかに放送局相手の商売は苦労が多かった。仕様はきびしく規制されるし、納期はやかましい。その割に利潤は少ない。つまり、ビジネスとしてはうま味のない分野だった。だが、放送局で自社の機器を使っているという実績は、ユーザーに大きな安心感を与える。そのメリットをあっさり捨てていいのかと心配になったのである。  しかし、井深は平気だった。それどころか「うちはコンシューマ商品にすべてを賭ける」と、自信をもっていいきる。井深がいったんいいだしたら絶対にあとに引かないことは、森園もよく知っている。それだけに黙って引き下がるしかなかった。のちの話になるが、そのために森園自身、たいへんな苦労を強いられることになるのだから皮肉であった。  放送機器部門からの撤退というアクシデントはあったが、事業全体を見る限り、ソニーは着実に拡大基調をとっているかに見えた。VTR、電卓、カラーテレビの開発、ソニービルの建設、IBMへの技術供与と、次々に目新しい話題を世の中に提供した。しかし、その陰で盛田や吉井が資金繰りで苦労していたことも紛れもない事実であった。当然のことながらそのしわ寄せはどこかに出てくる。中研所長の交代はその反動の最初のケースだったといえる。それを契機に研究所や半導体部門の予算が大幅にカットされ、以前のように冒険ができなくなるのである。 「ソニーは目先が利きすぎた。IC(集積回路)がそのいい例です。ICの開発がうまくいかなくなると、さっさとやめてしまう。そして、自社の機器に必要なデバイスは自分たちでつくり、よそでできる標準品はつくらなくてもいいといいだしたんです。これは結果論かもしれないが、あのとき、ラジオ用やテレビ用のトランジスタを開発したように、関係者が一丸となって取り組んでいれば、ICを軌道に乗せることは不可能じゃなかった。ソニーの技術の一端をまかされていた人間として残念に思っていたんです」  心ならずも中研所長のポストを離れざるを得なくなった鳩山の弁だ。これは、単に鳩山だけでなく、当時、半導体部門のリーダーだった研究者、技術者の誰もが感じていたことであった。  理想論者  半導体部門の幹部が不満をもっていた問題はもう一つあった。厚木工場長の小林の突出した工場運営である。何度も触れたように、小林は労務管理の面では、たしかに見るべき成果をあげた。工場の雰囲気も明るくなったし、生産性も、以前とは比較にならないほどよくなった。小林が提唱した「従業員の自発性と創造性を育てる」という管理方式も、工場全体にだんだん定着するようになった。  毎年この工場で行なわれる〈研究発表会〉を見てもそれがいえる。この発表会は、日曜日開催で、自由参加が原則。技術者、オペレーター、管理職、事務員、パートの奥さんと、従業員なら誰でも自由に意見を発表し、参加できるようになっている。発案者の小林は「はじめは参加者も少なかったが、回を重ねるごとに人数も増え、最近じゃ従業員の半数近い人が自主的に集まるんですよ。一人の発表時間は、一五分と短いが、なかには学会で発表しても恥ずかしくない質の高いものもあれば、ごく身近な問題についての提案もある。こんな楽しい集会はないんじゃないかと、私は思うんです」と、自画自賛する。  井深も、例年必ず集会に出席して、従業員に交じって楽しそうに野次を飛ばしたりするそうだが、こういう雰囲気は、かつての厚木工場にはなかった。そういう意味でも首脳陣が、小林に工場運営をゆだねたのは間違いではなかった。  この成功で、小林は、工場運営に自信をもちはじめた。そして本社の方針に沿って、予算管理を次第に強化していった。小林がいちばん力を入れたのが、ICの取組みにつまずき苦しんでいる半導体部門の体質改善であった。その頃、ソニーでは、川喜田二郎の提唱するK・J法を全社に導入し、会議などに活用していた。小林も、その熱心な推進者であった。  そのこと自体は決して悪いことではない。だが、小林は、それを半導体の開発研究に活用することを関係者に強要した。小林と技術幹部の関係がギクシャクしはじめたのはそれがきっかけだった。その辺のいきさつを塚本哲男は次のように話す。 「K・J法は、既存の考え方を整理してシステマティックにまとめるとか、個人のモチベーション活性には役立つかもしれない。だが、研究開発のように新しいものを生み出す仕事には不向きです。それを小林さんは何がなんでもやれという。ぼく等は、創造はそんな甘いものじゃないと猛反発し、だいぶ議論したんですが、トップの方針だからと強引に押しつけられた。だが、とうとう最後まで定着しませんでしたね」  小林が工場幹部の不評をかった原因はほかにもあった。厚木工場での自分の体験を一冊の本にまとめたことである。四十年代初期、ビジネス書のベストセラーといわれた『ソニーは人を生かす』がそれであった。もちろん、意見を発表するのは自由だし、別に問題はなかったはず。だが、それによって小林の存在は、一躍有名になり、社外のセミナーや講演会に引っ張り出されるようになった。そしてあちこちで厚木工場の建て直しのいきさつ、工場運営のあり方を説いて回った。これがいろいろ誤解を招く原因になるのである。  社外の人には小林のやり方がソニー全体の労務管理であるかのように受け取られた。事実、小林の論理はユニークだった。小林は、社内の管理者の集まりがあると「上役は命令者であってはならない。部下の自発的な働きを助ける人、激励する指導者、もっと平たくいえば、〈激励者〉でなければならない」と、口やかましくいう。その通りかもしれないが、それは理想であって、現実にはそれでは解決できない問題がたくさん転がっている。その辺の理解の仕方が、小林と他の幹部で違っていたのである。小林と親しかった倉橋正雄もこんな感想を漏らしている。 「結局、小林君は理想論者だったんですね。彼はその理想を活かして、厚木で非常におもしろい工場運営をやり評判になった。しかし、ちょっと夢を追いすぎた。そのため、最終的に井深さんと意見が合わなくなり、やめざるを得なくなった。やはり、彼は労務屋さんで、経営者じゃなかったんですよ。でも、彼はあの本を書いたおかげでたいへん得をした。印税もたくさん入ったし、有名にもなりましたからね。そういう意味では後悔していないんじゃないかな」  小林と同じように、自分の理念を追いすぎて、井深の不興をかった人がもう一人いた。研究部長で、世界初の電卓を開発した植村三良である。  植村は、入社以来、コンシューマ商品の開発にはほとんどタッチせず、もっぱら磁気記録の基礎的研究と、研究者、技術者の育成に力を注いできた地味な存在であった。しかし、数学の天才といわれただけあって、デジタル技術には人一倍強い関心をもっていた。それが電子式卓上計算機の開発につながったわけだが、周囲の状況から本格的な商品化にはいたらず消えてしまった。  植村はくやしい思いをしたに違いない。だが、植村はそんなそぶりをあまり人に見せなかった。もう一つ独創的な製品の開発に熱中していたからだ。それは工作機械の加工物の寸法を電磁気的に読み取り、表示する特殊なスケールである。 「開発をはじめたのは、四十年末頃でしたかね。当時、工作機械の自動化はかなりすすんでいるのに、肝心の加工物の寸法はこれまでの計測器を使ってはかっている。これじゃコンマ何ミリという細かい寸法は正確にはかれませんよね。そこでマグネの技術を使ってはかれる物差しを開発してみようと思ったわけ。ところが、その話を井深さんにしたら、コンシューマ以外のものに手を出すなというんです。でも強引につくりあげ『これ売り物にしましょうや』といったら、それほどやりたいなら研究部を捨てろといわれた。ここまできたら、私もあとに引けない。そこで研究部を解散しちゃった。その頃本社の研究部には一〇〇名ぐらいの部下がいたが、みんなほかのセクションに散っていきました」(植村三良)  いつもの井深らしからぬ対応ぶりだった。植村はソニーマグネスケールという別会社をつくってもらった。昭和四十四年夏のことである。  ところが、ソニー首脳陣は、なぜか新会社のトップに技術担当常務の鳩山を据えた。植村にまかせておくと、また道楽仕事をはじめかねないと思ったのだろうか。この人事は、植村の自尊心を傷つける結果を招いた。植村は、鳩山に好感をもっていなかったからである。電卓開発のとき、井深は鳩山をお目付役に据え、植村たちの独走を規制するように仕向けていた。鳩山は、何かにつけて、植村の仕事のすすめ方に水を差す。植村も負けずにやり返す。両者とも、頑固という点では、甲乙つけがたいと定評がある。それだけにちょっとしたことでも、激論に発展することがしばしばあったようだ。  そんないきさつがあっただけに、植村は反発を感じたのだ。そして「怨みの鳩山さんとは、一緒に仕事はできない」と、さっさと辞表を出し、ソニーを去っていった(その後、ソニーマグネスケールは、順調に業績を伸ばし、この分野で七〇パーセントのシェアを占めるほどになった。その後、デジタル式の光学スケールが出回るようになっても、六〇パーセントの市場占有率を維持して、ソニーの収益に大きく貢献した)。  疑念  昭和四十年代前半は、井深にとってもソニーにとっても、はじめて直面する試練の時代であった。それは数字の上にもハッキリ出ている。ソニーの総資本に対する利益率は、四十二年の七・四パーセントをピークに四十四年には五・七パーセントに落ちた。同業他社の松下電器の一〇パーセント台は別格としても、赤井電機(アカイ)は一六・八パーセント、パイオニア、アルプス電気などが九パーセント以上の高率を維持しているのにである。 〈四十年不況〉という外的な要因もあったが、最大の原因は、同業他社との技術格差が縮まってきたことで、かつてのように一点集中主義で先行ダッシュする独特の経営に限界が見えてきたといえる。  現に、井深は、四十二年の年頭に「世界中の企業がソニーの行き方に注目し、ソニーのあとを急追している。そのためにも今年は確固たる社内体制を確立しなければならない」と、全社員に訴えている。そして四十三年の年頭には「ソニーは、いまや〈特別の会社〉でなくなった。若く、身軽で、弾力性のあるのが特長だったはずのソニーも、老大国の仲間入りをはじめたのではないか」と猛反省を促し、さらに四十四年年頭には、「開発、生産、管理を問わず、あらゆる分野で他社に追いつかれ、追い越されている」と、指摘している。  こうした環境のもとで、気を吐いていたのは〈トリニトロン〉カラーテレビである。四十三年四月、ソニービルの八階ホールで報道関係者に完成発表をした直後、各紙は「トリニトロンは世界ではじめて単電子銃三ビーム方式のカラーブラウン管を実用化したもので、画面がぐんと鮮明になり、消費電力が少なくてすむうえ、ブラウン管の部品が従来の半分に減るため、小型、軽量化が可能になる」と報じ、株価も五九円も跳ね上がるほど反響を呼んだ。  しかし、カラーテレビで一日の長があるアメリカ市場での受け止め方は、意外に冷たかった。同業各社の首脳は「受像画面を小さくすれば、どんな方式でも映像が鮮明になるのは当然」とか「シャドウマスクは改良がすすみ、きれいな画像と画質が得られるようになっている。新鮮味がない」と、鼻先であしらった。また「七インチのマイクロカラーテレビが四〇〇ドル(一四万四〇〇〇円)とは、いくらソニーでも高すぎる」と、ソニーの価格設定に不満を漏らす販売業者もあった。  もっと露骨な反応を示したのは、RCA社のロバート・W・サーノフ社長である。サーノフは、年次総会の席で株主の質問に、次のように答えたという。 「ソニー方式は、きわめてむずかしい道を歩むことになるだろう。経済ベースによる大量生産の試練に耐えてきたカラーシステムは、わがRCA社が開発したシャドウマスク方式だけである」  だが、井深も、盛田も、海の向こうの批判をまったく気にしなかった。盛田は、取材に訪れた『ビジネス・ウィーク』の記者に「いつもと同じですね」と笑って答えたという。つまり、盛田は、アメリカ側の反応は、トランジスタラジオやマイクロテレビを発表したときの態度とまったく変わっていないといいたかったのだ。盛田は自社技術をそれほど高く評価していた。  その通りになった。四十三年一〇月、トリニトロンカラーテレビ発売以来、内外で好調な売行きをみせ、四十四年度には売上高一〇〇〇億円企業の仲間入りをした。ソニーの単電子銃三ビーム方式(トリニトロン)を鼻であしらったアメリカのRCAやGE、フィルコ、フォード、ウェスチングハウスなども「ソニーシステムの利用を考えたい。資料を提供してほしい」と、申し入れてきた。ソニーはトリニトロンカラーテレビを開発したことで、メジャーリーグと対等に戦えるまでの規模に成長したのである。  しかし、井深は、前述のように危機感を強めていた。たしかにソニーは大きく成長した。四十三年の大崎工場に続いて、四十四年には東京・芝浦、愛知県稲沢に大型工場を建設し、仙台、厚木、羽田工場の増設も終わり、従業員も一万人の大台を突破した。製品も、トロニトロンカラーテレビ、エレクトリックマイク内蔵のテープコーダ、カラービデオプレーヤなど、世界に誇れる製品が戦列に加わり、商品構成も多彩になった。  だが同業他社の技術も格段の進歩をとげ、かつてのテープコーダ、トランジスタラジオの時代のように、一つの開発、一つの製品で業界地図を塗り変えることは非常にむずかしくなっている。しかも、ソニーの信条であった「よそにないものをつくる」ことも、むかしと違い、驚くほど金と時間がかかるようになった。それをトリニトロンの開発を通じていやというほど味わった。そんなことを考えるとウカウカしていられないというのが、井深の偽らざる気持ちであった。  井深が新幹線とNASAのシステムに目をつけたのはそれがきっかけである。つまり、次の飛躍に備え、ソニーの体質をどう変えていくか、その緒口を巨大プロジェクトを通じて学んでみたいと思ったのだ。  システム工学  井深がNASAの「アポロ計画」に関心をもったのは、昭和四十四年のことであった。当時、井深は、経済同友会の科学技術推進委員会の委員長として多彩な活動をしていた。あるとき委員会で取り上げたテーマが「企業の研究・開発は今後どうあるべきか」という問題であった。その一環として東海道新幹線プロジェクトの推進者であった国鉄の島秀雄技師長(のち宇宙開発事業団理事長)の話を聞く機会をもった。島技師長は、ソニー中研所長の島常務の実兄にあたる人だ。  その話のなかで、井深がとくに心を惹かれたことは、新幹線プロジェクトは着手から完成まで五年ときわめて短期間に限定したため、新しい技術、とりわけ技術革新というようなものは存在しなかったという点である。つまり、既成技術の組合せで新幹線は建設されたということになる。それを確認するため、土木工事全般の指揮をとった大石重成新幹線総局長、篠原計司鉄道技研所長、さらに総大将の十河信二前国鉄総裁を次々に招き、それぞれの立場から詳細な話を聞いた。その結果、基本的には鉄道事業再建に情熱を燃やす関係者の説得の積み上げでまとまったものであることをはじめて知った。  新幹線建設計画が国の事業として発表されたとき、万里の長城・ピラミッド・戦艦大和建造という「世界の三バカ」に次ぐものと酷評された。そのため関係者は批判者一人ひとりを説得して回り、建設計画の了解をとったという。  井深がこの一連の勉強会を通じて得た貴重な教訓であった。現在は〈技術革新万能〉の時代はすぎさり、身近にある技術を活用する時代に移っている。そのことを周知させることが大事なのだと思った。  井深の追究はさらに深まる。世界最大のプロジェクトといわれるNASAの「アポロ計画」のシステムを探ってみることだった。関係者がどう発想し、どんな人間がどう動き、どうやって完成に漕ぎつけたか、それが知りたいと思った。この構想を委員会の仲間にすると「新幹線流の勉強を、ぜひNASAでやってみたい」という希望者がたくさん出てきた。  昭和四十五年初頭、たまたまアメリカ大使館でエレクトロニクス関係者を中心にした懇親パーティが開かれた。その席で、井深は、テキサスインスツルメンツ社のハガチー会長と偶然出会った。ハガチーと井深は旧知の間柄である。しかも、四十四年には五〇対五〇の合弁会社を設立するなど、ソニーはTI社の日本進出に大きく貢献している。井深は、そのハガチーに自分の構想を打ち明け、協力を求めた。すると、ハガチーは「それにうってつけの人がこの席に来ている。オレが紹介してやろう」といって会場に来ていた一人の男を引き合わせてくれた。その人物は前のNASA長官、ジェームス・W・ウェップであった。  ウェップは、もともと法律畑の人である。だが、技術や物理的な知識も豊富で、専門家と対等に議論できるぐらいの力量をもっていた。また、著名な企業の役員をしていたらしい。そのウェップに目をつけたのが、当時、上院国防対策委員長をやっていたジョンソン前大統領であった。ところが、ウェップは、「オレは教科書の編纂ぐらいをやっているのがいちばんいい」とジョンソンの要請を断わった。しかしジョンソンは強引に口説きおとし、国家的なプロジェクトの組み立てを全面的にまかせたのである。  井深は、そういういきさつをほとんど知らなかった。話しているうちに、ウェップの偉大さがだんだんわかってきた。ウェップは、NASAで、国鉄の十河や島と同じような働きをしていたのだ。井深は、なんとしてももっとくわしい話が聞きたいと思った。これがNASA研究にのめり込むきっかけになった。  井深は委員会の一行と渡米し、ウェップと何回も会う機会をもった。ウェップの紹介で、アポロ計画実現に重要な役割を果たしたジョンソン前大統領にも会った。そして貴重な体験談を聞き出すことができた。プロジェクト・マネジャーの選び方、仕事のすすめ方、予算の議決権をもつ議会の説得工作、あるいは、プロジェクト全体のまとめ方などであった。とくにおもしろいと思ったのは、ウェップがたまたま漏らした次の一言である。 「アポロ計画では、主だった関係者全員が、それぞれ違った目的をもって仕事に取り組んでいた。たとえば、私自身は米国の科学教育、あるいは、教育システムを、より立派にしようと努めた。アポロ計画を通じて、多くの大学を援助するとか、学校制度のあり方、とくにセクショナリズムに陥りそうな大学などで、何教室、何教室とかに分れているものを、もっと総合的なファンクションをもたせるようにするというような夢をもって一生懸命にやった。有名なフォン・ブラウン博士などは、大きなロケットをつくれれば満足だと情熱を燃やした。また、ドクター・ミューラーは、人間宇宙船を月に上陸させることに大きな夢を託していた」  つまり、各部門の最高責任者は、自分のやりたいことを、アポロ計画を通じてやってのけた。この辺の取組み方は、規模こそ違うが、日本の新幹線プロジェクトとまったく同じだったことに興味を示したのだ。  井深は、一連の勉強会を通じて学んだことをソニーに当てはめてみて、いまのソニーに欠けているものがいくつかあることに気がついた。その一つが有能なプロジェクト・マネジャーの不足であった。  これまでソニーは、井深、盛田の個性と、木原に代表される一握りの技術者集団の才能に頼って、他人のやらない新製品を次々に生み出し、急成長を遂げてきた。会社規模の小さいときは、それでも十分通用する。しかし、所帯が大きくなり、多彩な商品展開がものをいう時代になると、おのずから事情も違ってくる。 「スペシャリストはもう通用しません。特別な熟練、特別な才能はなくても、目標に向かい、さまざまな能力者をまとめ、仕事を推進してゆくというつかみ方のできる人間、プロジェクト・マネジャーでないと、これからはダメです」  井深がこんな言葉を口にするようになったのは、その前後からである。これは、次の飛躍に備えた井深の深慮遠謀であった。  昭和四十六年六月、井深は、社長のポストを盛田にゆだねることを正式に公表した。これは何も急に決まったことでなく、以前から考えていたことである。何度も触れたように、これまで井深は「よそにない新しいコンシューマ商品を、常に他社に先んじてつくろう」をモットーに経営を展開してきた。井深の理想をはぐくみ、実現可能な環境をつくることに全精力を傾けたのは、盛田であり、一握りの技術者集団であった。井深の〈夢〉も、トリニトロンカラーテレビを完成させたことで、ある程度かなえられた。もちろん、やり残した仕事もたくさんある。だが、それは盛田を軸にした若い力で仕上げてもらう。自身は、会長として、経営全般、あるいは、技術部門のよき助言者に徹していく。つまり、これからのシステム社会のプロジェクト・マネジャーに徹しようとしている意志が感じられる。それが協力を惜しまなかった盛田に報いる唯一の道であり、次の飛躍につながる最善の策だと、遠大な構想を画いていたのである。 11章  両輪経営  ソニーの経営は、井深から盛田にバトンタッチされたが、社内の一部には、井深の続投を望むものも少なくなかった。人間的に温か味のある井深と違い、盛田は合理主義者のせいか、なんとなく冷たさが感じられるからだ。  その辺は両者の性格を比べてみるとよくわかる。井深は発想が豊かだし、格式ばったことは大嫌い。一見気まぐれに見えるが、損得抜きで人の面倒をみるなど心根はやさしく、誰とでも気軽に会い、興にのれば話に夢中になるし、気が向かないとぶっきら棒な返事しか戻ってこない。他社のように社史も社歌も社訓もないという独特の社風も、井深の人柄を反映しているような気がしてならない。  一方の盛田は、けじめを大事にする。また、おしゃれだし、気位も高い。交遊関係にも有名人が多い。  二人の違いをいちばん知っているのは、経団連クラブ詰めの経済記者たちである。彼等は、職業柄、いろいろな財界人と会う機会が多いだけに、人物通が多い。その記者仲間の間でいわれていたソニーの二人は、井深が自由奔放な飛躍型の経営者、これに対して盛田は理詰めの計算機型経営者。それを象徴するようなエピソードがある。ソニーが日の出の勢いで急成長を遂げていた頃、経団連クラブ詰めだった某紙の記者の話だ。 「井深さんが何か失言をしても、われわれは決して記事にしなかった。飛躍したものの言い方をするのが癖なんですよ。それも意図的にいうのでなく、話しているうちにポロッと本音が出てしまう。愛すべき失言なんだな。ところが、盛田氏の場合はちょっと違う。頭はシャープだし、弁もたつ。論理もシッカリしている。その盛田氏が『これはオフレコですよ』と念を押すと、われわれは逆に書いてしまう。彼の計算癖が書いてくださいとナゾをかけたと受け取る人が多いからですよ」  対照的な二人の指導者がいた。だからこそソニーの経営が成り立ってきたともいえるのではなかろうか。  井深は、天才的な技術者といわれた異色の経営者であった。学生時代から七〇件近い特許、実用新案を取得していた実績をみてもわかる。とくに新しいメカニズムに対する関心は人一倍強い。その辺は第一章で述べた通りである。  そんな人柄だけに開発担当者のおもしろそうなアイデアには、自分も一緒になって開発に取り組む。三十年代後半から四十年代初期にかけて試作したマグネット式ポラロイドカメラ、途中で開発を断念した電気自動車、オイル駆動車などがその代表的なものかもしれない。その開発にタッチした木原はこんな話をする。 「電気自動車は私がやりました。ソニーの枠を出ない範囲でね。つまり、ソニーが発展した場合、自動操縦とか、そういうものを通して役にたつ未来指向の車をやってみようという井深さんの発想ではじめたんですが、結局、開発しただけで商品化は見送った」  二億円近い資金を注ぎ込んで開発したマグネット式のポラロイドカメラも、商品化は見送られた。たまたま、井深がポラロイド社に売込みに行ったところ、同社はすでにカラーカメラを開発していた。そのため商品化を断念したのである。  同じ頃、井深は模型機関車づくりに熱中している。得意の小型軽量化の技術を駆使して当時、世界最小の九ミリゲージ(レール幅)のものをつくろうと、マニアを集め、精巧な第一号車を完成させた。その日は、一晩中走らせてはしゃぎ回ったそうである。そのあげく〈マイクロトレーン〉という会社までつくった。ところが、周囲から「少し子供じみていやしませんか」とたしなめられたことと、あまりにも小さすぎて商品にならず、一年後にこの会社を解散せざるを得なくなった。  このように、興に乗り出すと〈夢〉が風船玉のようにふくらんでいく。子供のような〈天衣無縫〉な性格をもっていた井深だった。そんな井深のことを、盛田は「天才と気違いの間にいる人。その井深さんにオレがついているからこの会社はうまくいっているんだよ」と評価していたという。たしかにその通りかもしれない。井深の考える〈夢〉をすべて満たすような経営をしていたら、おそらく、今日のソニーはあり得ないという見方もできるからだ。そういう意味でも盛田は、井深にとってかけがえのない存在だったといえる。  盛田のいいところは、単なる女房役、補佐役でなく、相手が井深であれ、顧問格の万代、田島であれ、正しいと思ったことは歯に衣を着せずズバッといってのけることである。もちろん、問題によっては、意見が噛み合わないことも多々ある。その場合でも盛田は、中途半端な妥協はいっさいしない。時間をかけてお互いが納得するまで話し合い、あとにしこりを残さないように心がける。しかし、盛田は、外に対しては常に井深を立てる。都合の悪いことが起こればいつでも自分が泥をかぶるつもりだった。そのあたりの気配りは実にうまい。子供のときから父親に〈帝王学〉をきびしく仕込まれてきたからであろう。  そういう盛田の積極的な支援活動があったから、井深も安心して仕事に打ち込めた。それも技術的な問題は自分が取り仕切り、経営全般のことは、極力、盛田にまかせるようにした。ソニーが、井深、盛田の〈両輪経営〉で成り立っているといわれたゆえんもそこにある。  映画づくりの組織論  性格的にそれほど違いのある二人だが、不思議にウマがあった。一三歳の年齢差もあるが、共通点も意外に多かった。お互いに好奇心が旺盛だし、環境の変化に即応して、機敏に対応できる行動力をあわせもっている。おまけに、二人とも技術畑出身の経営者だけに、エンジニアリングマネジメントがうまい。またたいへんな自信家でもあった。そういうもろもろの共通点と、井深の持ち味である技術的な見通しや、カンのよさが、ソニーというユニークな会社をつくりあげる原動力になったのである。  もう一つ見逃せないのは、井深の人使いのうまさである。テーマに応じて各部門から、これはと思う人材を集め、少人数のプロジェクトチームを編成、積極的に仕事に挑戦させる。このやり方は映画づくりとまったく同じであった。第二章で述べたように、映画はさまざまな職域の専門家を動員してつくる総合芸術である。制作をまかされたプロデューサーなり、演出家は、集めた専門家の能力や持ち味をうまく引き出し、自分の意図する作品を期日通り仕上げていく。そこに腕の見せどころがあるわけだ。  多彩な夢を追い求めていた若いハワード・ヒューズが映画の魅力にとりつかれた原因も、実はそこにあったといわれている。  ヒューズが映画づくりに関与したのは、一九二五(大正十四)年、一九歳のときである。亡父の親友だった元映画スターを助けるため資金を出してやったのがきっかけであった。  映画撮影のため借りた貸スタジオにヒューズが出入りしはじめると、持ち前の好奇心が頭をもたげてくる。映画の仕事にタッチするからには、カメラや映写機をふくめて、あらゆる機械や装置がどのような動きをするか知っておく必要があると、夜を徹して働き出した。カメラや映写機を分解し機構を調べ、夜があける前には全部元通りにしておく。撮影がはじまれば、毎日のようにスタジオに顔を出し、俳優の演技を見たり、カメラマンたちに技術的な質問をぶつける。かと思うと、経営権を取得したフィルムメーカーの現像所に出かけ、開発中のカラーフィルムの仕上がり具合を見るなど、目まぐるしく動き回った。  しかも、ヒューズは〈活動時間〉と、自分で名づけたスケジュールに従って生活をはじめる。新婚間もない愛妻がいるのに、二日も、三日も無断で家をあける。撮影所に泊まったり、好きな飛行機や自動車で各地を飛び回ったりしているのだ。家に戻っても一日としてくつろいだことがない。日曜日の夜中というのに、部下をオフィスや仕事場に呼び出す。相手の立場や迷惑などいっさい考えず、自分が思いついたときに、問題を片づけておかないと気がすまない気ままなプロデューサーになっていたらしい。  そんな思いをしてつくらせた映画も、結局、陽の目を見なかった。できばえも悪いし、興行的な価値もないとヒューズ自身が判断したからだ。ヒューズは、それで映画づくりをやめるつもりでいた。そんな矢先ちょっとした事件が起こった。親戚の人たちが、映画は興行的に危険が多いし、撮影所は人間を堕落させるだけだから早くやめるべきだと忠告したことである。ヒューズは、自分のやることに他人が口をはさむのを蛇蝎のように嫌った。それだけにこの忠告に反発し、逆に映画づくりにのめり込んでいく。「正しいのは自分で、間違っているのは彼等だ」ということを、実証しなければ気がすまなくなったのだ。  そして、ヒューズは新しい映画づくりにふたたび一五万ドルを投資する。いくつもの成功作を世に出しているマーシャル・ニーラ監督の『みんなのお芝居』がそれだ。ヒューズはこの映画製作には、いっさい口出しをしなかった。できあがった映画は好評で、興行的にも成功、前作で浪費した八万ドルの穴を埋めただけでなく、一〇万ドルの黒字さえ生んだ。気をよくしたヒューズは、自前の独立プロをつくり、本格的な映画づくりに乗り出す。その第一作が、第一次大戦でドイツの捕虜になった二人の米軍兵士を主人公にしたドタバタ喜劇『美人国二人行脚』(ルイス・マイルストーン演出)だった。  これが大当たりした。興行的に成功しただけでなく、一九二七年度のアカデミー賞受賞作に選ばれたのだ。大金持ちの若き素人プロデューサー、ハワード・ヒューズの名は、一躍、世界に知れ渡る。ヒューズが、好奇心の旺盛な冒険者であったことも、脚光を浴びる重要なファクターになったのである。  そんなヒューズのデビュー時代の生活態度を見ていると、ソニー創成期の井深の生き様と、共通点があるような気がしてならない。好奇心が強いうえ、反骨精神も旺盛、しかも、自分のやっていることは絶対に間違っていないと自信をもっている。そして、仕事に取り組むと、率先して動き回る。ただヒューズは、映画づくりのもつ魔力のとりこになり、失敗、成功を繰り返しながら、大物プロデューサー兼事業家として成長してゆく。だがいずれも実を結ぶことなく終わった。新しい仕事に手をつける興味はあっても、それをまとめ、伸ばしてゆくことに関心を示さなかったからだ。これも親身になって自分を助けてくれるブレーンなり、アドバイザーをつくらなかったためである。  一方の井深は、二年足らずで映画の世界から転進し、技術者の道を選んだ。そして戦後、独立すると、PCL、日本光音、日本測定器を通じて身につけた技術や、仕事のすすめ方を新しいビジネスにうまく採り入れ、事業の拡大に役立てていった。適材適所に人、物、金を重点投入し、技術の芽を育てる経営を展開したのが、その最たるものかもしれない。  アメーバー組織論  むかしから「事業は人なり」という。それを実証して見せたのはソニーだった。ソニーが急成長を遂げられたのも、井深、盛田の適切な指導で、環境の変化に即応できる流動性を常にもっていたからである。それに関連して、井深は次のようにいう。 「うちには組織なんてないんですよ。今日の組織は明日の組織でなく、明日の組織も明後日はどうなっているかわからない。だから組織づくりといえば、毎日が組織づくりかもしれない。いや毎日、会社そのものをつくっているようなものですよ」  この話を最初に聞いたのは、評論家の田口憲一だった。著書『S社の秘密』(昭和三十七年、新潮社刊)の取材過程で耳にしたものだ。最初は田口もびっくりしたらしい。だが、社内の取材を続けているうちに、そのいわんとする意味がだんだんわかってきた。「組織はあるが、それにこだわって動脈硬化になるようなことはしない」ということがである。  これをもっとわかりやすく解説してくれたのが、盛田のいう〈石垣論〉であった。その論旨は「お城の石垣は不揃いの石をうまく組み合わせて、はじめて丈夫なものができるといわれている。われわれは人材をうまくまとめ、石垣のようなシッカリした組織基盤をつくる努力をしなければならない。また、石垣を形成する一つの石がダメになったら、それにふさわしい石を探して埋める。それと同じように適材を求め補充してゆけばいい」というものだった。この話がマスコミを通じて世間に知れると「それはむかしからいわれている〈適材適所主義〉と同じじゃないか。そんなことはどこでも実行していますよ」と、反論する経営者や人事担当者が多かった。  だが、ソニーの〈適材適所主義〉は、日本の会社で定着しているそれとは、だいぶ趣を異にしている。たとえばある仕事に対して、もし社内に適任者がいなければ、積極的に外部から求める。その辺はソニーの急成長時代を支えた人脈を見ればわかる。  大賀現社長をはじめ、テープコーダの製造に貢献した多田正信、笠原功一、児玉武敏、戸沢圭三郎、北条司朗、販路開拓に苦労した倉橋正雄、仙台工場長の高崎晃昇、機械屋の茜部資躬、研究部門の基礎固めにつくした植村三良、中研の鳩山道夫、財務の吉井陛、トリニトロンカラーテレビの開発者の吉田進、VTR製造の森園正彦などは、いずれも中途入社組、拡大路線をとるため、必要欠くことのできない人材として首脳陣が積極的にスカウトした人たちだ。  迎え入れた人材は一つのポストに定着させることは絶対にしなかった。仕事ができると見定めたら、どんどん未開拓の分野に投入し、新しい仕事をさせる。こんな調子だから組織はいやでも流動的になる。それがソニーの特長であり、強味でもあったわけだ。石垣の堅固さより、むしろアメーバーに見られる柔軟さをもった組織を、首脳陣はイメージしていたのではなかろうか。  一見、荒っぽく見える人の使い方ができたのも、井深の技術に対する見通しなり、カンが冴えていたからともいえる。とくに、テープコーダ、トランジスタ、トランジスタラジオの成功で、井深は事業経営に対し、絶対の自信をもつようになっていた。それが外部への強気な姿勢になって現われた。井深は、その頃新聞記者によくこんな話をしている。 「これまで日本の多くの会社は『アメリカでやっているから、うちもこれをこしらえようではないか』、あるいは、『よその会社がこしらえたから、そのあとをついていこうではないか』と、大勢に押し流されながら、経済成長が行なわれてきた。そこには、経営者の意志なり、思想というものはあまり存在しなかった。ただ〈儲かるからやる〉ということで、日本の産業全体がここまできた。これに対し、われわれは『こういうことでこういうことをやろう』『こういうことで儲けたいから、こういうことをやる』あるいは『こういうマーケットができると思うから、そのマーケットにふさわしい商品をこしらえよう』と、ハッキリした目的をもって、会社を経営してきた。それが、他社とソニーのいちばん大きな違いである」  これほどハッキリものをいう経営者は、当時、日本にはあまりいなかった。そのため、財界や同業他社の受けは、必ずしもよくなかった。「ひとりよがりが多すぎる」とか「協調性がない」というのである。  しかし、井深や盛田は、そんな批判に耳を貸そうとしなかった。自分たちのやってきたこと、その経験のうえにたった意見、主張、理論だけに、撤回する気など毛頭持っていなかった。それどころか、自分たちの信念と違った意見には、毅然として論戦を挑むことさえあった。  昭和三十三年夏、井深が、はじめて来日したアメリカの著名な経営学者、ピーター・F・ドラッカーを迎えた財界トップセミナーの会場で、技術革新のあり方をめぐって、論争を演じた話はあまりにも有名である。その辺の事情を、井深自身は次のように語る。 「私は、ああいう経営セミナーにはじめて出たのですが、話を聞いて、ドラッカー先生は技術革新の加速度をあまり考えていないのではないかという気がした。私にいわせると、どうやって時間を短縮するか、いかに加速度を大きくするかの方法に関心があったのだが、ドラッカー先生の場合は、ただ技術革新をやらなければならない、とその必要性と方法を説いているだけなんですね。そこで質問したわけです。つまり技術革新というのは当たり前の考え方で、問題は、それの時間を縮めるのにどういう考え方をしたらいいかということのほうが大事だと思ったんですよ」  会場に居合わせた財界のトップ連中は、中小企業に毛の生えた程度の会社の経営者にすぎなかった井深の大胆な態度に、目を丸くして驚いたそうである。  この話には、もう一つおまけがあった。昭和三十七年、軽井沢で開かれた三回目のセミナーでのできごとである。このときは、井深でなく、盛田が参加した。ドラッカーは「競争的世界にあって、いかに競争的であるべきか」「有能な経営者はいかにあるべきか」というテーマで基調講演を行なった。とくに強調したのは「競争相手をしのぐ優秀な人を集中的に使うこと」「ごちゃごちゃした製品的な混乱」を避けて、得意とする数種の製品に「集中的な力」を投入すること、一度決定した事業計画には「機会をとらえて一途に追求する」という点であった。  講演終了後、質問に立った盛田を見て、ドラッカーは「ソニーについては、何もいうことがない」と、笑ったという。つまり自分が述べたことは、すべてソニーがやっていることだといおうとしたのだ。それ以後、井深、盛田とドラッカーの関係は「会うとお互いに腹蔵なく意見を出し合い、議論できる得がたい友人の一人」(盛田昭夫)という親密な間柄に発展していくのである。  サンディエゴ進出  盛田が社長に就任した昭和四十六年は、日本の電子工業界にとってもたいへんきびしい年であった。原因は世界の景気動向に大きな影響力をもつアメリカ経済の沈滞である。その兆候は数年前から少しずつ顕在化していたが、四十五年になると一気に表面化し、アメリカ国内は深刻な不況ムードに覆われてしまった。こうした事態は対米輸出依存度の高い日本経済にも当然はね返ってくる。その現われの一つが繊維に代表される日本製品の輸入制限であり、テレビ、チューナー、フェライトに対するダンピング容疑であった。  このため電子機器の対米輸出は不振の一途をたどった。その穴を国内市場で埋めるべく、家電各社は猛烈な販売競争を展開しはじめた。その結果、過当競争から生まれた大幅な値崩れが消費者に拭いきれぬメーカー不信感を植えつけ、カラーテレビの不買運動まで引き起こすにいたった。  幸いソニーだけはアメリカ国務省から〈ダンピングの事実なし〉と認定され、国内での販売についても、公正取引委員会の調査によって、ソニーの価格は容認できる範囲を越えていないことが証明された。とはいえ、業界を取り巻く環境はきびしく、将来についてまったく予断を許さないというのが実情であった。それだけに、盛田も、業務の簡素化と徹底した合理化によって体質を強化し、積極的な攻めの経営を展開する方針を固めていた。  その具体策の第一弾が、アメリカでのカラーテレビ現地生産の決定であった。工場建設予定地はカリフォルニア州サンディエゴの郊外と発表された。四十六年一二月のことであった。これを知った業界関係者は「この試みは失敗する。経済常識を逸脱しているからだ」と、一様に冷めた視線を向けた。というのも、その頃アメリカ最大のテレビメーカーであるRCAやゼニスは、人件費の高騰と生産性の低下に手をやき、組立工場を、労賃の安い東南アジア、中南米の発展途上国に移しはじめていたからだ。にもかかわらず、盛田はアメリカでの現地生産を強行しようとする。その無謀さを業界関係者は笑ったのだ。  ソニー内部にも危惧の念をもった人が多かった。四十六年初頭、盛田の意向を受けて現地の実情を調べたテレビ事業部の幹部たちも、経済性、労働事情などから判断して、現地生産は非常にむずかしいとの考え方を経営会議(常務会)で報告したほどであった。だが、井深も、盛田も、「このプロジェクトは絶対にやらなければいかん」と、強気の姿勢を崩さなかった。近い将来おきるであろう日米貿易摩擦を少しでも緩和するには、それが最善の策だというのである。  こうして八月には、サンディエゴ・プロジェクトが正式にスタートし、工場建設計画の検討が本格的にはじまった。八月一六日、世界の経済界をゆるがすような大問題がもちあがった。アメリカのニクソン大統領が〈ドル防衛〉の最後の切り札として、一〇パーセントの輸入課徴金設定と、金・ドルの交換停止を軸とする緊急的な経済政策を断行すると発表したことであった。 〈ニクソン・ショック〉と呼ばれたこの一連の政策は、各国の対ドルレートの切り上げを迫ると同時に、戦後四半世紀もつづいたブレトン・ウッズ体制およびガット体制の崩壊を意味する大問題である。当然、世界の為替市場は一時パニック状態に陥ったが、西欧諸国がいっせいに変動相場制に踏みきったことで、なんとか収拾することができた。日本も一〇日後の八月二八日、遅ればせながら、はじめて変動為替レート移行を決めた。こうして昭和二十四年四月以来、二二年間続いた一ドル三六〇円レートに終止符を打つことになった。  当初、この問題は、経済基盤の脆弱な日本の産業界に深刻な影響をおよぼすと予測されていた。しかし、その年の一二月、多国間通貨調整のため、十ヵ国蔵相会議が、ワシントンのスミソニアン博物館を舞台に開かれ、話合いが行なわれた。その結果、日本円は、一ドル三〇八円で合意をみた。これによって心配された影響は最小限に抑えられる見通しがつき関係者をホッとさせた。この一連の措置がソニーのサンディエゴ進出を容易にしたのだから幸運というほかなかった。つまり、盛田の強気の戦略は思わぬことから道が拓けてきたのである。  一方、木原を中心とするソニー開発陣は、トリニトロンカラーテレビの成功を一つのバネに、次の目玉商品ともいうべき家庭用VTRの開発にひそかに取り組んでいた。そのたたき台になったのは、四十六年一〇月、松下電器、日本ビクターと共同開発した四分の三インチ統一I型カラービデオ・カセットプレーヤー〈Uマチック〉(販売価格二三万八〇〇〇円)であった。  このVTRは、木原たちが開発した原型をもとに、松下電器、日本ビクターの技術者が話し合ってスタンダード化をはかった最初の機械である。このときソニーは、自社の保有するビデオ機器の特許やノウハウを全部公開(クロスライセンス契約)するという大きな犠牲を払っている。VTRを一日も早くホームユースの商品にしたいと願えばこその譲歩であった。  そんな思いをして世に送り出したVTRも、期待に反し、いつの間にか業務用に化けてしまった。技術も市場も未成熟だったのだ。この苦い経験もムダではなかった。次の飛躍につながる貴重な試金石になったからだ。また、松下電器、日本ビクターの両社は、規格統一の話合いの場を通じて、ソニーのVTR技術の最新のものに接することができた。しかも、特許は、クロスライセンス契約を結んだため、自由に使える。これが両社の技術力を高めるうえで大きく貢献したことは紛れもない事実だった。それがのちに、べータ対VHS戦争としてソニーを窮地に追い込む有力な武器になろうとは、ソニー首脳陣も、開発者の木原も知る由もなかった。  第二の脱皮  昭和四十七年三月、ソニーに思いがけない朗報が舞い込んだ。エレクトロニクス関係の世界的な団体であるIEEE(電子電気機械協会)から、井深にファウンダース賞が贈られたことである。同賞が設けられて一五人目の受賞だが、アメリカ国外に住む人でこの賞を受けたのは井深が最初であった。贈られた賞状には「民生用エレクトロニクスに固体部品を応用することに示されたすばらしいリーダーシップに対して」と、明記されてあった。テープコーダにはじまって、トランジスタ、トランジスタラジオ、マイクロテレビ、トリニトロンカラーテレビ、VTRの小型化と、一貫して独創的な商品開発に情熱を注ぎ、「安かろう、悪かろう」の代名詞だった〈メイド・イン・ジャパン〉という言葉の意味を「高品質で安価」へと変えることに貢献した井深の長年の苦労を、世界の電子技術関係者が認めてくれた。それだけに、井深の感慨もひとしお深かったに違いない。  また、四十八年五月には、トリニトロンカラーテレビに、テレビ界のアカデミー賞ともいうべきアメリカテレビ芸術科学アカデミーから〈エミー賞〉を贈られた(五十一年五月には、Uマチックをベースに開発した単管式カラービデオカメラ〈トリニコン〉と、電子編集機つきポータブルVTRシステム、五十四年には放送用一インチVTR〈BVH〉シリーズも同じようにエミー賞を受賞している)。  しかし、この前後からソニーの急成長にかげりが見えてきた。つまり、同業他社の追い上げが年を追うごとにきびしくなり、技術的にも、経営的にも、ほとんど差のない横並びの時代に突入したというわけだ。  このことは、盛田も十分承知していた。だからこそ、海外を拠点に幅の広い〈多角化戦略〉を積極的に展開していたといえる。国内での無益な競争を避け、海外で独自のマーケットを拡げ、世界企業の名に恥じない強固な経営基盤を築く、それが盛田の悲願であり、基本的な経営戦略であった。  それは、盛田が社長に就任してからのソニーの動きを見れば、よくわかる。たとえば、前述のサンディエゴ工場(四十七年八月稼働開始)の建設を決めると、岩間和夫専務(当時)を、ソニー・アメリカの社長に送り込んだ。四十七年六月には、製品計画、広告、デザインの三部長を兼務していた大賀典雄をCBS・ソニーの社長(ソニー取締役と兼務)に登用した。四十八年にはサンディエゴ工場の敷地内にブラウン管工場(四十九年八月稼働開始)の建設に着手、さらにこの年には、イギリス・ウェールズのブリジェンドにカラーテレビ工場(四十九年六月稼働)の建設を発表するなど積極的な姿勢を見せている。  かと思うと、四十七年五月には、アメリカの代表紙である『ニューヨーク・タイムズ』『ウォールストリート・ジャーナル』『シカゴ・トリビュン』『ロスアンゼルス・タイムズ』に大きなキャンペーン広告を出した。その大見出しには「日本はアメリカにとって非常に魅力のある市場です」とあり、サブタイトルに「日本市場向けの商品をおもちでしたらソニーが日本への輸出を手伝います」と書かれてあった。  この広告の反響は大きかった。一五〇〇件もの問い合わせがソニー・アメリカに殺到した。ドルの価値が下落し、貿易収支の赤字は増えこそすれ、減ることはない。景気はいっこうに回復の兆しさえ見えない。その苛立ちが〈高品質で安値〉の日本製品に対する一連のいやがらせ、対日不信を生む原因になっていた。そんな時期だっただけに、アメリカの企業家は、このキャンペーン広告に注目したわけだ。 「ソニーはすばらしいテープレコーダやカラーテレビのメーカーとして著名な存在だったが、その広告でわれわれはソニーの違う一面を知った。アメリカのビジネス社会全体に『ソニーは自社の製品を売るだけでなく、われわれのよきパートナーである』ことを教えてくれたことだ。これはアメリカ政府に対しても、ソニーという会社に好感を抱かせる方向に作用した。あの広告は一つのロビーイング(院外活動)としても大成功だった。ソニーとワシントン政府との関係は、あれ以来きわめて良好になっている」  これは、モルガン・ギャランティのルクラン副頭取の談話だが、そういう意味で盛田のとった経営戦略は絶妙のタイミングだったといえる(その後、ソニーはヨーロッパの新聞にも同様の広告を出し、好感をもって迎えられた。またそのために新たに、ソニー・トレーディングという会社まで設立した)。  この一連の経営戦略のなかで、もう一つ見逃せないことがあった。盛田が、岩間、大賀を後継者として本格的に育てることをひそかに考えはじめたことである。  盛田は、かつて副社長時代、社内の管理者講習の席で、ある幹部から「将来、ソニーをどういう会社にする考えか」と、聞かれたことがあった。そのとき盛田は、急に表情を改め「いつの間にか、うちは、世界市場で日本を代表する企業になってしまった。それだけに、もし失敗するようなことがあれば、日本の技術全体の真価が問われるだろう。その責任が、いまや日増しに重く感じられ、つらいと思うことがある」と、しみじみ述懐したそうだ。  その思いは、社長に就任しても、脳裏から消えなかった。とくに七〇年代は「激動の年」といわれたように、次々に予期しない大問題が起きている。そんなきびしい環境のもとで、常に創造的な製品を開発し続けることは容易なわざではない。またそれを永遠に指向し、可能にする集団をつくりあげることはよりむずかしい。技術の壁もあるし、人材にも、資金にも限りがあるからだ。しかし、その障害を乗り越え、井深の掲げた創業のポリシーを守り、育ててゆくことが、盛田に課せられた最大の使命である。そのためにも、次代を託せる人材育成が急務だった。  技術担当の岩間をソニー・アメリカの社長に、大賀をCBS・ソニーの社長にそれぞれ据えたのも、その一環であった。つまり、未知の分野でマネジメントのきびしさを学んでもらう。そして彼等がその修羅場をいかに切り抜け、成果を上げるかによってその力量を判断する。そんな苛酷ともいえる構想を、盛田は立てたのである。  新経営体制 「盛田君は、若いに似あわず、非常に守備範囲が広く、考え方にフレキシビリティがあって、目のつけどころがいいということでしたね」  これは井深が、盛田とはじめて会ったときの第一印象である。同時に、その言葉は、井深自身にもそっくりあてはまる。性格の違いはあっても、二人の呼吸がぴったり合った最大の原因はそこにある。そのイキは、いまもなお、二人の間に脈々と生き続けている。  にもかかわらず、巷では「井深、盛田不仲説」、あるいは「井深タナあげ、盛田超ワンマン体制」という風説がさかんに取沙汰された。これはオイル・ショック直後の新経営体制移行が発端といわれている。  昭和四十八年一〇月、第四次中東戦争をきっかけに起こったオイル・ショックは、世界経済のあり方を根底からくつがえした国際的な大事件だった。その反動で生じた世界的な物不足やインフレ、社会混乱は、関係者の努力で間もなくおさまったが、その後遺症はしばらく尾を引いた。それは、高度成長がすでに過去のものとなり、減速経済時代に入ったことを意味していた。  こうした環境の変化に対応するため、盛田は、アメリカ式の新経営体制に入ると内外に宣言した。五十一年一月五日のことである。その中身は、盛田が代表権をもつ会長として、経営全般の最高責任者となる。また社長には、副社長の岩間和夫、副社長には大賀典雄専務をそれぞれ昇格させる。そして井深は名誉会長という立場で若手の相談役に徹してもらうというものだった。戦後はじめてという最悪の経済環境の中で、盛田は、なぜこうした経営体制を採用する気になったのか。それは井深、盛田の両首脳が多忙すぎるからである。  事実、昭和四十六年六月、会長職に就任してから井深の社外活動はこれまで以上に活発になった。たとえば、電子工業審議会委員長、科学技術庁発明奨励審議会委員長、発明協会会長、国鉄理事(非常勤)、スウェーデン王立理工学アカデミー外国会員、ソニー教育振興財団理事長、幼児開発協会理事長、IEEEフェロウ、米国ナショナル・アカデミー・オブ・エンジニアリング外国会員など、内外の諸団体の役員を兼務するようになった。一方の盛田も、一年のうち半分は海外の活動という典型的な国際派経済人となる。このためどうしても社業に専念する暇がなくなった。そこで盛田は、ソニー・アメリカでさまざまな経営体験を積み一回り人間が大きくなったといわれる岩間と、CBS・ソニーを黒字に転換させた大賀を、社長、副社長に就任させ、細かい日常業務をまかせることにした。そして会社の運営は岩間と大賀を中心とする経営陣の合議にゆだね、グループ全体の経営方針はCEO(チーフ・エグゼクティブ・オフィサー)である盛田自身が決定する。さらに、それとは別に、井深が主宰する経営諮問委員会(構成員は代表取締役、社外重役)を新たに設け、経営を左右する重要事項、役員人事などについてのチェック機関の役割をもたせる。また井深には研究開発会議の議長として、自由な立場から技術開発の方向づけをしてもらう。これが盛田の考えた新経営体制であった。  一部のマスコミはこれを曲解した。井深を名誉会長にタナあげして、盛田は自分のイキのかかった人脈で経営陣を固めていると推測した。創成期を支えた人たちがリタイヤして、盛田に近い若いスタッフが経営陣に入ってきたからであろう。  マスコミ人やソニーをよく知る業界関係者は、井深、盛田を合理主義のかたまりみたいな人だとよくいう。旧習にとらわれず、ものごとの正しい姿を見つけることに熱心なという意味の合理主義者だ。にもかかわらず、その人柄に対する受けとめ方は、人によってだいぶニュアンスが違ってくる。あけっぴろげな井深に対し、盛田は隙がない。それに、しばしば挑戦的な言動をとるからだといわれている。  それを象徴する話がある。ある経営幹部がリタイヤしたむかしの仲間にこんな話をした。「井深さんのときは、わりとわがままが通ったが、盛田さんの時代になったら衝立てにぶつかったような気がしてものがいえないんだ」と。ところが、この話が回り回って盛田の耳に入った。黙っていられなくなった盛田は、さっそくその幹部を呼びつけ「キミはぼくに何かいいたいことがあるようだね。それをここで聞こうじゃないか」と迫った。その剣幕に恐れをなした幹部は、平謝りに謝って引き下がったそうだ。  逆な話をする人もいる。五十三年、管理者の特別勇退制度ができたのを機会に退職したある幹部の話だ。 「外部の人は、盛田さんを合理主義的なきびしい経営者というイメージをもっているようだが、それは必ずしもあたっていませんね。実は私は、四月にやめた。ところが、七月の末に盛田さんのサイン入りの手紙がきた。あけて見ると、その後、どうされているか、相変わらずお元気のことと思いますが、ついては年俸のベースアップした差額分がある。これはあなたのものなので受け取ってくださいと、三十数万円の小切手を送ってきた。私は特別の退職金をもらってやめた人間、それなのにそこまで気を使ってくれる。こんなこと並の経営者だったら絶対にしないと思いますよ」  つまり、盛田は世間でいわれるほど冷酷な人でないというわけだ。たしかに、盛田は筋の通らない問題に対してはきびしい人かもしれない。だが、理にかなっていれば、それなりに対応してくれる度量をあわせもっている。  それを端的に物語っているのは、中断していた業務用機器の商売を復活させたことだ。前に触れたように、放送局向けのオーディオ機器やVTR機器は「うちはコンシューマ商品しかやらない」という井深の強い意向で、昭和四十一年に手を引いてしまった。しかし、四分の三インチVTR〈Uマチック〉発売以来、状況が変わり、新しい局用機器の開発が急務になってきた。そこでUマチックの量産業務をまかされていた森園(前出)は、ぜひやらせてほしいと盛田に直訴におよんだ。経営陣のなかには反対する人も多かったが、盛田は、森園の言い分を認め再開を許可した。こうして発足した情報機器事業部は、のちにソニーの経営を支える〈ドル箱〉事業部に発展していくのだ。そういう意味でも、やはり、盛田は、井深と並び称されるすぐれた経営者だったといえる。 12章  幼児教育  井深の事業と人間性を語るうえで、もう一つ欠かせない大事な問題がある。いまでは、井深のライフワークの一つになっている幼児教育の普及に心血を注いでいることだ。井深が幼児教育に本格的に取り組みはじめたのは、昭和四十三年のことだが、その腹案はすでに創業時代からもっていた。その辺の事情を井深は次のように語っている。 「東通工をつくったとき、私自身が設立趣意書に書いたのですが、そのなかで『経営が軌道に乗ったら、事業以外のことで世の中の役に立つことをしたい』と謳ったわけです。その後、テープコーダ、トランジスタラジオがあたり、会社が順調に伸びていったので、世の中の役に立つ、何をやるべきか、真剣に考えはじめました」  その結果、理科教育振興のための基金制度を設けることを思いついた。  戦時中の井深の体験にも書いたように、日本の科学技術は欧米に比べ、著しく立ち遅れていた。そのための敗戦であり、さらに敗戦の痛手から立ち直るには科学技術の復興しかないと考えた人びとがいた。井深もその一人であった。  しかし、科学技術を発展させるには、やはり、基本になる理科教育を青少年の間に広く普及させる以外に道はない。その場合、大学や専門学校への助成、援助はすでにいろいろな形で行なわれていた。そこで井深は、当時、誰も気づいていなかった小、中学生を対象に選んだ。小、中学校の理科教育を、おもしろくして、子供のときから科学に親しむ風土をつくっておけば、将来、必ず世の役に立つ人材が育つと考えたのである。いかにも井深らしい発想だった。  こうして昭和三十四年に発足したのが「理科教育振興資金制度」(のちのソニー教育財団)であった。  この制度は、独自のプログラムによって理科教育を楽しくやっている全国の小、中学校の先生方から計画書やレポートを提出してもらい、それを専門家が審査して、優秀な学校に研究や活動のための助成金として三〇万〜五〇万円を出し、応援するというものだった。井深と学校関係者との交流はこれを契機に活発になった。その過程で、井深は興味ある事実を知った。小学校低学年のとき、いい教師がついて、熱心に指導している学校が、非常にいい成果を上げているということである。井深が早期教育の必要性を痛感したきっかけであった。  その頃、倉敷レーヨンの大原総一郎社長から、バイオリンの早期才能教育で世界中の注目を集めている鈴木鎮一を紹介された。そのとき大原は「この方は、たいへんいい仕事をされているので、ぜひ応援して上げてほしい」と、井深に懇願した。  鈴木は明治三十一年、名古屋生まれ。父の政吉は同二十一年に初の国産バイオリンをつくったバイオリン製作者で世界最大のバイオリン工場を設立している。鎮一は一七歳で本格的なバイオリンの練習をはじめ、その後、ドイツ留学。昭和六年に帝国音楽学校の教授に就任した。  弟子には、江藤俊哉、豊田耕児、小林武史、小林健次、浦川宜也、鈴木秀太郎、諏訪根自子など世界一流の演奏家がいる。 「耕児君(豊田)が三歳のとき、私の生徒たちのバイオリン演奏会(日本青年会館)でドボルザークの『ユーモレスク』をひいたとき、ある大新聞は〈天才児現わる〉と派手に書きたてました。『天才という生まれつきの才能はない』といい続けていた私にはたいへんショックで、残念でたまりませんでした」(『どの子も育つ 育て方ひとつ』鈴木鎮一監修、現代の教育を考える会編、原書房)とあるように、鈴木は音楽教育を通して才能教育のあり方を学び、のちに「スズキメソッド」を確立、世界的な反響を呼んだ。戦後は長野県松本に移り、「全国幼児教育同志会」のちの「才能教育研究会」を結成、国際的な活動を展開している。  目の見えない子供にバイオリンがひけるようにしてあげたという逸話があるように、彼にはカリスマ的な要素もあり、人を惹きつける不思議な魅力をもっている。こんなエピソードもある。  バイオリニストとして著名なレオニード・コーガンが松本に演奏旅行に来たとき、突然、手が動かなくなり、コンサート開催が危ぶまれるというハプニングが起きた。たまたま現場に居合わせた鈴木が、触手療法で一時間ほど治療したところ、たちまち回復したという。 「どの子も育つ、親しだい」、これが鈴木の持論であった。しかし、最初、井深は鈴木のその考え方に懐疑的であった。ところが、鈴木との交遊がはじまり、その目覚ましい実績や成果を見聞きしているうち、次第に心が洗われたような気持ちになっていく。ある日、井深との歓談の折、鈴木が思いがけないことをいいだした。 「以前は、バイオリンは四、五歳からはじめるのがいちばんいいと思っていた。ところが、いろいろ教えてみると、どうも様子が違う。子供たちの家族を見ていると、ここに通ってくる子の妹や弟のほうが、必ずといっていいくらい兄や姉の水準を抜いて上手になっている。兄や姉が家で練習するのを見ているせいもあるでしょうが、年齢が低いほど物覚えがいいように思います。そのため兄や姉がいやになってやめていくものがいるんですよ」  この話を聞いた井深は、「先生、どこまで年齢を下げられるか、一つチャレンジしてみませんか」と、逆に提案した。井深が幼児教育に執念を燃やすきっかけであった。  ところが、当時、鈴木の活動をいろいろ批判する人も多かった。現にその方面の権威といわれた国立教育研究所の平塚盛徳所長も「そんな小さな子供に、ベートーベンなんか教えても、芸術性などわかるはずがない。ただテクニシャンをつくるだけのこと」と、批判していた。その平塚とたまたま会う機会があった井深は、真剣になって反論してみたがまったく理解してもらえない。そこで井深は、ある日、平塚を〈スズキチルドレン〉の演奏会に強引に連れ出した。口で説明するより、まず自分の目で確かめてもらおうと思ったのだ。  はじめは、迷惑顔だった平塚も、一五〇〇人もの幼い子供たちが、一糸乱れず合同演奏する様子を見て驚いた。それがいつしか感動に変わっていく。やがて演奏会が終わると、平塚は井深のそばにかけ寄ってこういった。 「井深さん、どうやら私は間違っていたようだ。改めて幼児教育について考え直してみる気になった」  この言葉に井深もすっかり感激して、思わず平塚の手を固く握った。礼をいいたかったのだが、声が出なかったのである。  『子育て、母育て』  ところで、根っからの技術者である井深が、なぜ幼児教育にそれほど情熱を傾ける気になったのか。その背景には、理科教育振興の目的のほかにもう一つ理由があった。それには井深自身の家庭問題がからんでいた。  前に触れた通り、井深は、昭和十一年一二月、前田多門の次女勢喜子と結婚した。そして十二年には長女、十五年には次女、二十年には長男が生まれ、三人の子もちになった。やがて戦争も終わり、東京に帰った井深は、世田谷区東北沢で久し振りに親子水入らずの生活をはじめた。その後、思いもかけない不幸なできごとが起こった。井深が可愛がっていた次女が、小学校に通いはじめて間もなく、迷子になったことからわかったものである。それも心身障害だという。それを知ったとき井深は愕然となった。「身内にそういう人がいたこともないのに、なぜこの子が」  もっともその前兆らしきものがあったらしい。井深は自著『子育て、母育て』(昭和六十一年九月、東洋経済新報社刊)で、次のように書いている。 「小学校に入る直前になって、ものすごい消化不良をおこし、下痢ばかりしている。その頃、ソニーが誕生するまでの多忙のときで、私自身、ほとんど育児にかまっていられず、家内から娘の話を聞いても、そのうち治るだろうくらいに軽く考えていた」 「なぜあのとき注意深く気を配ってやれなかったのか」と、井深は自責の念に駆られた。八方手をつくして治療の方法を探した。たとえ、知能は普通の人に劣っても、せめて日常生活ぐらいは自分でできるようにしてやりたいと思ったのだ。だがその願いもむなしく消えた。  やがて、次女は東京・目白の徳川義親邸内にあった『旭出学園』という心身障害児の施設に通いはじめた。この学園は、徳川義親の孫が心身障害児だったためつくられた私立の施設で、東大の三木安直医博が指導にあたっていることでも知られていた。そういう意味では申し分なかったが、生徒はすべて通園が原則なので、どうしてもケアが十分でない。井深は、これをなんとかしなければと、ひそかに心を痛めていた。  日本人はむかしから心身障害者に対し、蔑視したり、好奇の目を向けたがる性向がある。一人前の人間として扱おうとしないのだ。家族も、それがいやさに、ひた隠しにかくそうとする。そのためハンディキャップをもつ人はますます萎縮し、家に閉じこもってしまう。そのため結果的に大きな不幸を招くことが多いのである。  これも国にシッカリした救済策がないからだ。たとえば日本では児童福祉法で、一八歳までの心身障害者は国が手厚く保護すると謳っている。しかし現実はただ場所と食物を与えてケアするだけで、成人になればあとは肉親が面倒をみるという程度の保護策でしかない。心身障害児を身内に抱える親がいちばん心配するのは、成人になってからの生活設計をどうするかということだ。  経済的に恵まれた環境にいるとか兄弟が多ければ、ある程度のケアはできるかもしれない。だが、多くの家庭はそれができず、大きな犠牲を強いられているというのが日本の実情である。これを解決するためには、やはり、親が安心して預けられる完璧な養護施設をつくる必要がある、と井深は考えた。とはいえ、井深個人の力ではどうしようもない。そこで同じような悩みをもつ親に呼びかけてつくったのが、社会福祉法人〈すぎな会〉であった。  すぎな会の施設は、昭和三十九年に完成した。場所は神奈川県厚木市の郊外で、敷地は四〇〇〇坪。ここに四六時中ケアができる立派な施設をつくり、三〇名ほどの障害者が起居をともにできるようになっていた。この施設のもう一つの特長は、親の負担を少しでも軽くするため、いくつかの企業の好意で、簡単な仕事をもらい、働きながら自活できるようにしたことである。  最初、このやり方に反対する人もいたようだ。「ハンデのある人に仕事をさせるのはムリ」という理由からであった。だが、井深は「障害者といえども人間。早い時期からトレーニングを積み、自活の喜びを知るように仕向けることが、障害者にとっていちばん望ましい療養方法」と関係者を説得し続け、日本ではじめての身障者コロニーの実現に漕ぎつけたのである。  こうして、井深は、次女を無事に施設に送り込むことができたが、逆にかけがえのない人を失ってしまう。勢喜子夫人と離別したことである。離婚の真相は定かでないが、たぶん、次女の介護で精神的にも肉体的にも疲れ果て、主婦の座を守る自信をなくしたのではないかと思われる。現に井深も、「私は仕事に追われ、娘の日常の世話は家内にまかせっきりだった。家内はたいへん苦労したと思う」と述懐したほどだ。  その直後、一部の週刊誌が、井深の離婚問題を記事にしようと動きはじめた。だが、真相を知った関係者は取材をためらった。井深の心情がわかったのだ。結局、ある女性週刊誌を除いた各誌は記事の掲載を見合わせた。盛田、倉橋の出版社に対する働きかけもあったが、実際は井深自身の清潔な人柄を知り、記事を書くのを遠慮したのである。  「幼稚園では遅すぎる」  その後、井深は、周囲のすすめもあって、ソニー・PCLで秘書をしていた現夫人と再婚する。しかし、施設で自活の道を歩みはじめた次女や前夫人に対する償いの念は、井深の脳裏から消えることはなかった。その贖罪に似た気持ちが、幼児教育、身障者問題への傾斜につながっていったのであろう。  事実、二つの問題に取り組む井深の姿勢は、異常ともいえるほど熱がこもっていた。たとえば、昭和四十四年には、財団法人『幼児開発協会』を設立、自ら理事長に就任している。設立の狙いは、鈴木才能教育研究会(スズキメソッド)同様、音楽や語学、絵の早期教育を通じて子供の才能を伸ばすことであった。だが、この仕事に熱を入れて取り組んでいるうちに考え方が変わってくる。そのきっかけは、昭和四十四年の東大紛争事件に象徴される一連の学園闘争問題であった。このとき井深は、教育はなんのためにあるのか、大学はこのままでいいのかなど、自分なりに考えてみた。  まず、大学をよくするには高校教育が問題だ、その高校をよくするには中学校が問題で、中学校をよくするには小学校と、問題の根源をさかのぼり、ついには幼稚園、「いや幼稚園では遅すぎる」という結論に達した。それに関連して井深は「大脳生理学からいうと、生まれたての赤ちゃんは〈配線のないコンピュータ〉と同じ」と前置きして、次のように自説を強調する。 「一〇〇億以上もある脳細胞は無地のキャンバスみたいなものです。この頭脳未熟なときによい刺激を与えるかどうかで、配線、つまり脳を形づくるワク組みのよしあしが決まる。四歳までが六〇パーセント、八、九歳で九五パーセント配線され、一七歳で完成します。だから幼児のうちによい刺激を与えないといけません」  それが幼児開発協会設立に結びついたというわけだ。それも、英才や秀才を育てるためでなく、人間社会で生活していくうえで、頭のいい立派な人間を育成するためだといいきる。それでは説明不足と思ったのかこう付け加える。 「頭がいいというと誤解されやすいが、私の考えている理想像は、他人のいうことを理解し、自分の考え方を相手にスムーズに伝達できる人。もっとわかりやすくいえば、コミュニケーションのよい人間です。そのためには、母親が子供をきびしくしつけて、他人に迷惑をかけてはならないということを教える必要があります。そうすれば、自発的に学習できる人間になる。だが、いまの日本では、才能は先天的なものという考え方が強い。これをなんとか変えたいと、私は一生懸命努力しているんです」  その実験の集大成が、ごま書房から刊行された井深の著作『幼稚園では遅すぎる』(昭和四十六年六月発行)であった。この本は、発売以来版を重ね、現在八五刷と超ロングセラーになっている(五十四年一月、同社から刊行された『0才からの母親作戦』も三五刷と版を重ねている)。  しかも、この本は、イギリス、アメリカ、イタリア、ドイツ、スペインなど、かつて日本が手本にした教育先進国で翻訳され、非常な好評を博しているという。昭和四十九年秋「幼児教育から成人教育にわたって、具体的に貢献した」として、アメリカ・プラノ大学から名誉科学博士号を贈られたのも、その一連の実績に対してであった。  テキサス州ダラスにあるプラノ大学は〈学習革命〉を唱えるユニークな大学である。たとえば、他の大学に入れなかった学生を集め、読書力のスピードをつける勉強法を教えたり、世界各地へ学生を送り出し、〈なんでも見てやろう〉式の教育を施したりするなど、生きた知識を身につけるように仕向ける。また幼児の才能教育に関する研究でも世界的に知られている。そのプラノ大学が、井深に名誉博士号を贈ったのも、幼児教育に心血を注ぐ井深の前向きな姿勢と、研究実績を高く評価したからにほかならない。  そんな井深だけに、日本の教育界の現状には、常にきびしい批判の目を向けている。 「今日の学校教育は、ほとんど進学教育が主体になっている。なかには、上級学校への進学率が教育効果を測定する唯一のメジャーのように考えている教師や父兄もいる。これはたいへんな間違いです。それと、いまの教育内容は、知識と事実の説明、暗記が主体、ということは、教師の模範解答をまる暗記しておけば無難に進学できる。それでも足りずに進学塾に通って受験技術を磨くのが、ごく当たり前のことになっている。これじゃ生徒の自由な発想や創造力など育つはずがありません」  また、こうもいう。 「中教審の〈期待される人間像〉なんて大嫌いです。あれは人間はこうあらねばならないとはじめからワクにはめつけようとしている。だいたい、日本の教育は資格にこだわりすぎますよ」  戦前、日本の教育は〈立身出世〉の有力な手段と考えられていた。国立大学を主体とする高等教育を受けなければ、社会の枢要な地位につけない。これが社会通念であった。日本人の誰もが、とにかく大学を出なければという意識を強くもったのはそれが原因である。  戦後、占領軍の指令で、日本の学校制度は大きく様変わりした。それもどうあるべきかを十分検討する時間も与えられず、アメリカのいいなりに決まってしまった。もっと始末が悪かったのは、大学=学歴、資格=立身出世というむかしながらのパターンをそのまま持ち越したことである。このためよき人間づくりという教育の本質、目的がおざなりになり、知識偏重の教育に走ってしまった。それがそもそも間違いのもとだと井深はいうわけだ。  福祉施設への肩入れ  幼児開発と相前後してはじめた障害者福祉の仕事も、いつの間にか、井深の重要な仕事の一つになっていた。前述のように、最初は、可愛がっていた次女のためという発想からはじめたものだが〈すぎな会〉を設立したのを契機に、この問題は自分に課せられた社会的義務と思い、積極的に取り組むようになった。  井深がそんな思いをもつようになったのは、昭和四十年九月、「心身障害児(者)コロニー懇談会」の常任委員に就任したことがきっかけだった。もともとコロニーは結核回復者のアフターケアの実践から生まれたものだが、国でも心身障害者を対象にした本格的なコロニー計画をすすめることになり、その実践者であった井深に協力を求めたわけだ。当時、井深は公私ともに多事多難な時期で、できることなら委員就任を辞退したかった。しかし、これまで自分自身が体験したことを、国の計画のなかで活かしてもらえれば、より多くの身障者が救われると思い直し、引き受けることにした。  その井深が懇談会でとくに強調したのは、施設を主宰する人と、職員に人を得ること。同時に、親の熱意が絶対に必要だという点である。また、施設への寄付に対する税金面の配慮も欠かせないと訴えてきた。  こうした提言をもとにつくられたのが、昭和四十六年四月、群馬県高崎市郊外に建設された国立心身障害者コロニー(収容定員五五〇名)である。このコロニーは精神薄弱の程度のいちじるしい障害者が、適切な保護、指導のもとに社会生活が営めるようにつくられた本格的な福祉施設であった。しかも、これを契機に、大阪、愛知、北海道などでも同じような施設がつくられるなど、国の福祉政策も大きく前進した。  この前後になると、井深の福祉事業に寄せる思い入れはいちだんと熱がこもってくる。たとえば、昭和四十六年には栃木県鹿沼に、働いて自活できる施設『希望の家』を新たにつくった。ここではソニー向けのスピーカー木箱を製造している。これで井深が直接関係する施設は旭出学園、すぎな会、希望の家と三つに増えたわけだ。最初、井深が世話になった旭出学園も、いまでは富士山の裾野に立派な施設をつくり、そこで障害者たちが焼物や織物をつくるなど、自活の道を模索している。  もう一つ、特筆しなければならないのは、大分県別府にある『太陽の家』(会長・井深大)の存在である。ここの特長は、障害者の単なる施設でなく、そういう人たちが中心になって運営している〈会社〉であることだ。それも立石電機、本田技研、三菱商事、ソニーなどが太陽の家とジョイントしてできた四つの工場からなっている。  発案者は、整形外科医だった中村裕医博である。中村は以前からハンディキャップをもった人に仕事を与え、経済的に自立させることが、本当の福祉厚生になるとの信念をもち、太陽の家の設立を思い立った。昭和四十六年頃の話である。  ところが、相談を受けた厚生省は頭から反対した。障害者の会社などもってのほかというわけだ。そこで中村は労働省や通産省に何度も足を運び説得を続け、ついに「障害者工場福祉法」という法律をつくらせることに成功する。その結果、補助金で工場を建てられる道が拓けた。  ソニー太陽の家では、現在、百数十名(四社合計五三〇名、うち障害者四〇〇名)の従業員を抱えている。そして、もっぱらウォークマン用のヘッドフォンの生産を手がけているが、生産効率も、品質面でも普通の人とほとんどかわらず、黒字の業績を上げているという。この成功が井深にとってたいへんな励みになったことはいうまでもない。障害者といえども、シッカリした目標を与えてやれば、ちゃんと自活できるというかねての持論が実証されたからだ。  その井深は、いま前記の仕事以外の福祉事業に数多くタッチしている。たとえば、全国心身障害児福祉財団理事、全日本精神薄弱者育成会理事、老人福祉開発センター理事、脳療育研究所理事長、身体障害者自立情報センター会長、日本家庭福祉会理事などである。それもよくありがちな名誉職的な存在でなく、率先して活動に参加、日本の福祉事業の発展向上に献身的な努力を続けている。  創造性開発をめざす  このように、井深は、多彩な活動を続けているが、その姿勢を通して強く感ずるのは、常に一貫したフィロソフィをもって行動している点である。  それはこれまでの井深の生きざまを改めて振り返るとよくわかる。たとえば、ソニーの事業活動の基本精神は「人と同じことをしたくない」ということだった。それも大量生産、大量販売することによって、コストダウンをはかり利益を上げるという発想でなく、技術開発に積極的に投資し、よそにできないものをつくり出す。そういう製品を絶え間なく世に出してゆく。それが井深が掲げた基本理念であった。  この独特な経営理念は、PCL時代に培われたような気がしてならない。前述のように、井深は、中学生の頃やっと芽生えた無線技術の魅力にとりつかれ、当時、あまり見向きされなかった弱電工業の分野で身を立てる決心をする、そして早大在学中、持ち前の好奇心を発揮して、次々に新しい技術を開発、頭角を現した。それが、PCLの植村泰二の目に止まり、録音技術という未開拓の仕事とかかわりをもつようになった。以来、植村のもとで自分のしたいこと、好きなことを自由にやらせてもらった。井深の持論である「固定観念にとらわれず、自由に思索し、行動する合理精神」は、この期間にはぐくまれたといっても過言でない。  戦後、その知識と経験を元手に会社を興し、テープコーダ、トランジスタラジオをつくりあげ、日本のエレクトロニクスの幕開けに大きく貢献した。それも、単におもしろいからやったのではなく、世の中で、いま何が求められているかという点から出発したものだ。しかも、失敗を恐れず実験を積み重ね、タイミングを見はからって一気に事業化へ突進していった。その積極的な姿勢が〈ソニー・スピリット〉につながるのである。  また、井深は先を見る目は誰よりも鋭い。たとえば、昭和三十年代後半、井深は公開の席でアメリカの経営学者と論争し、「アメリカのエレクトロニクスは、国防産業と宇宙産業にスポイルされる」と決めつけた。その直後、なんでそんな厚かましいことをいったのかと悔いたそうだが、撤回する気は毛頭なかった。軍事用など、特殊な用途にしか使えないといわれたゲルマニウムトランジスタ、シリコントランジスタを、世界に先がけて民生用に使いこなした経験と実績から割り出した結論だからであった。それが現実のものになるまで、さして時間がかからなかった。  その井深は、最近よくこんな話をする。「コンピュータが第五世代といっているけれど、あれはコンピュータを知りすぎた人間がやっているから、基本的には変わっていないんですよ。スピードが速くなるだけで……。これも左脳でしか考えていないんだな。左脳は言語、理論、計算なんかをつかさどる。これに対し右脳は音楽、芸術、信仰といった言葉でいい表わせないものをつかさどる。これからの世の中は、その言葉でいい表わせないところが重要になると思うんだ。そういう意味でも、もうそろそろ右脳で考えたコンピュータを真剣にやらないと、コンピュータの行く末は知れちゃいますよ」  戦後、日本の科学技術は相次ぐ技術革新によって、長足の進歩をとげた。それによって、われわれの生活は確かに便利になった。だが、現実の社会は欧米流の物質文明のみが先行し、人間の心や感情が入り込む余地がだんだん狭められている。自分さえよければという自己中心主義の人間が横行するのもそのためである。この片寄った思想を改めない限り、技術文明は日本に定着しない。  ところが、規模の大きくなった会社や、安定路線を走っているメーカーの人間は、考え方がどうしても保守的になる。冒険や改革はリスクが伴うし、環境も変わる。それが怖いのだ。そういう人間が多いところでは、新しい創造なりイノベーションは生まれない。それを井深は指摘しているのである。  井深が取り組んでいる幼児教育にも、それと似たことがあった。最初、遺伝を否定することからはじまった井深の幼児教育は、乳幼児の才能開発を経て、いつの間にか胎児の母親を対象にした「0歳教育」にまで拡がってきた。これも「胎教」という問題にぶつかったのが発端であった。  むかしから、妊娠した女性にとって「胎教」は大事なことといわれてきた。だが、著名な学者や専門家はその必要性を認めようとしなかった。「妊娠中の母親の脳と胎児の脳は、神経繊維を通してつながっていないので、親が何を考えようとも、胎児にはまったく影響がない」という従来の学説があるからだった。  これには井深も引っかかるものがあったが「著名な学者がいうのだから間違いあるまい」という態度を取ってきた。ところが、昭和五十四、五年になると、この分野の研究もすすみ、超音波を使って胎児の像をブラウン管に映し出す技術が開発された。おかげで、未知の領域だった胎児の様子がだんだんわかってきた。その結果、母親が心理的なショックを受けたり、何を考えているかで、胎児がいろいろな反応を起こすことが、ある程度立証できるようになった。  にもかかわらず、著名な学者や専門家は、この分野に手を出すのをためらっていた。それを知った井深は、あえてこの分野に挑戦することにした。妊娠中の母親を対象にした井深の『0歳児教育』は、こうしてはじまった。それも単なる啓蒙運動でなく、理解のある学者や専門家の協力をあおぎ、母親の心構えが幼児教育にどれだけ大切かを積極的に訴える、本格的な活動であった。  教育問題に熱心な経営者、企業人は大勢いるが、ここまで徹底してやっている人は、そうザラにいない。これも教育の世界にもイノベーションをもちこまなければ、本当の意味の人づくりはできないという井深の執念があればこそのような気がしてならない。  そんな井深が創業したソニーが、苦境に立っている。ホームビデオの開発で先駆的な役割を果たしたものの、ファミリーづくりに失敗、主導権を後発のVHSグループに奪われたからだ。また、べータ、VHSの二の舞を避けようと苦心の末標準化をはかった八ミリビデオも、日本ビクターの造反で、ふたたび同じような泥仕合を展開する羽目に追い込まれてしまった。むかしと違い「技術の成熟、平準化」がすすんでいるだけに、こういう現象が起きるのである。  だが、そのビデオ技術の平準化も、ソニー技術陣が長年にわたって構築した磁気記録技術をベースにしなければできなかったことを、当事者やマスコミは忘れている。それをタナに上げ、ソニーの技術をとやかく論ずるのは、開拓者に対する礼を欠いた議論といわざるを得ない。  とはいえ、ソニーがビデオで劣勢に立たされていることは紛れもない事実である。それも、技術の質で負けたのではなく、量産技術、価格競争で出し抜かれたにすぎず、たとえば、VHSフォーマットがアメリカ市場で優位に立つ最大の原因は、VHSファミリーが、損を承知で価格をソニー製品より二〇〜三〇パーセント安く設定、大量に売り込むことに成功したためといわれている。これに対しソニーは技術と品質さえよければ絶対に負けないと自負していた。その過信が、結果的にVHSグループに差をつけられる原因になったわけだ。コンシューマ商品の怖さはそこにある。  それを身をもって知ったソニーは、経営戦略の見直しを余儀なくされる。事業本部制の導入、量産体制の確立、販売組織の強化、コンシューマ商品への傾斜是正と、創業以来はじめてという大変革を次々に実施した。別な見方をすれば、ソニーはやっと大企業としての自覚をもちはじめたといえるかもしれない。  そんなソニーの現状を、井深はどう見ているだろう。その辺が気になるところだが、井深自身は至極冷静である。ある雑誌でこんな意見を述べている。 「会社がこれまでの延長線上で動いていれば、いずれ破滅してしまうだろう。ハードだけで他社と競争しても先が知れている。そういう意味でも、ソニーは変わらなければならないと思っている。いまや僕や盛田君が製品のアイデアを技術者に押しつけて開発させる時代ではない。ウォークマンのように、必要に応じて押しつけることもあるかもしれないが、これからは、むしろ現場の人がアイデアを出して、上に押しつけるようにしていかなければいけない」(日経ビジネス、六十二年八月三日号)。  つまり、ボトムアップの時代に移行することがソニー再生の道につながるというわけだ。さらにこうもいう。 「私は、ソニーの将来についてはそう心配していない。もともとうちは、既定の路線をあまり尊重しない、あるいは、否定してもかまわないというのが社風。その考え方が異質と人はいうが、本当はその考えを実行してしまうのが異質なんです。そういうふうに、状況に応じて性格を変えていくことで、うちは伸びてきた。その伝統の精神は、いまでも脈々と生きている。それがうちの強味だと思っている」  いま井深の最大の関心事は、これからの日本の行く末だという。むかしと違い、日本は世界有数の技術大国になった。物づくりの技術をひたすら追い求め、なりふりかまわず働いてきた成果である。だが今後はそれでは通用しない。もっと広く世界に貢献する政治なり、施策を打ち出していかないと、世界中から袋だたきに合うに決まっている。それがわかっていながら、現実の社会では相変わらず〈島国根性〉が横行している。こんな現象が起きるのも、日本の指導層に本当の意味で優れた人材がいないからだ。井深が幼児教育、母親教育に強い関心を寄せるゆえんもそこにある。 略年譜 明治四十一年(一九〇八)四月 栃木県に生まれる 大正十年(一九二一)三月 神戸市諏訪山小学校卒業 昭和二年(一九二七)三月 兵庫県立神戸第一中学校卒業 昭和五年(一九三〇)三月 早稲田第一高等学院理科卒業 昭和八年(一九三三)三月 早稲田大学理工学部電気工学科卒業 昭和二十年(一九四五)一〇月 東京通信研究所創設 昭和二十一年(一九四六)五月 東京通信工業株式会社を創設し、代表取締役専務に就任 昭和二十五年(一九五〇)一一月 東京通信工業株式会社 代表取締役社長に就任 昭和三十三年(一九五八)一月 東京通信工業株式会社をソニー株式会社と社名変更 昭和四十六年(一九七一)六月 ソニー株式会社代表取締役会長に就任 昭和五十一年(一九七六)一月 取締役名誉会長に就任 昭和四十二年(一九六七)四月 経済同友会幹事就任 昭和四十四年(一九六九)一〇月 財団法人幼児開発協会理事長就任 昭和四十六年(一九七一)五月 スウェーデン王立理工学アカデミー外国会員 昭和四十七年(一九七二)一月 IEEEフェロウ 昭和四十七年(一九七二)三月 社団法人発明協会会長就任 現在にいたる 昭和五十一年(一九七六)四月 アメリカナショナル・アカデミー・オブ・エンジニアリング外国会員 昭和五十四年(一九七九)六月 日本オーディオ協会会長就任 昭和五十五年(一九八〇)三月 財団法人国際科学技術博覧会副会長に就任(昭和六十一年七月終了) 昭和六十二年(一九八七)四月 財団法人鉄道総合技術研究会会長に就任 昭和三十四年(一九五九)一〇月 科学技術庁長官賞 昭和三十五年(一九六〇)一二月 藍綬褒章 昭和三十七年(一九六二)五月 輸出振興への功績により「総理大臣賞」 昭和四十七年(一九七二)三月 アメリカIEEEファウンダース賞 昭和四十九年(一九七四)一〇月 アメリカテキサス州 プラノ大学「名誉科学博士」 昭和五十一年(一九七六)三月 上智大学「名誉工学博士」 昭和五十三年(一九七八)四月 勲一等瑞宝章 昭和五十四年(一九七九)一〇月 早稲田大学「名誉理学博士」 昭和五十六年(一九八一)六月 アメリカアスペン人文研究所人文・技術賞 昭和五十七年(一九八二)一月 フィリピンミンダナオ国立大学「人文科学名誉博士」 昭和五十七年(一九八二)三月 第5回日本音響学会功績賞 昭和六十一年(一九八六)四月 勲一等旭日大綬章 昭和六十一年(一九八六)五月 スウェーデン王国勲一等北極星章受章 昭和六十一年(一九八六)一〇月 一九八六年エドアルド・ライン・リング 平成元年(一九八九)一一月 文化功労者 平成四年(一九九二)八月 世界スカウト機構「ブロンズウルフ賞」 平成四年(一九九二)八月一一月 文化勲章 (一九九三年一月現在) 〈本書執筆に際し参考、もしくは引用した文献〉 (1)田口憲一著『S社の秘密』(昭和三十七年一〇月、新潮社刊) (2)ジョン・キーツ著、小鷹信光訳『ハワード・ヒューズ』(昭和四十四年、早川書房刊) (3)加納明弘著『ソニー新時代』(昭和五十七年四月、プレジデント社刊) (4)井深大『私の世界』(昭和五十八年四月六日〜五月三〇日、読売新聞夕刊・聞き手田川五郎) (5)ソニー広報室編著『源流』(昭和六十一年、ソニー広報室刊) (6)盛田昭夫著『わが体験的国際戦略』(昭和六十二年一月、朝日新聞社刊) そのほか自著『日本の半導体開発』(昭和五十六年一二月、ダイヤモンド社刊)『日本の磁気記録開発』(昭和五十九年一月、ダイヤモンド社刊)『海軍技術研究所』(昭和六十二年六月、日本経済新聞社刊)   文庫版あとがき  この作品は、いまから五年前の一九八八(昭和六三)年秋、ダイヤモンド社から上梓したものの文庫化である。その一年後、井深さんは文化功労者に選ばれた。そしてこの本の文庫化に着手した一九九二(平成四)年秋、こんどは文化勲章の受章がきまった。これは企業人として初めてのケースであった。そういう意味でも筆者にとっては印象に残る本といえる。  筆者が井深さんの知遇を得るようになったのは、三〇年ほど前、週刊誌の取材を通してであった。もちろん、当初は単なるインタビューアとしての域を出なかった。  そんな筆者が井深さんから目をかけてもらえるようになったのは、『日本の半導体開発』(昭和五六年一二月、ダイヤモンド社、のち講談社文庫)を上梓してからである。このとき井深さんは面白いと褒めてくれただけでなく、本の序文まで書いてくださった。  そのお礼を兼ねて挨拶に出向いた筆者に、井深さんは、「磁気記録技術の歴史は、まだ誰も書いていない、うちでも記録を残しておきたいと思っているが、仕事に追われ手をつけかねている。キミそれをやってみる気はないかね」と、けしかけられた。  筆者もその気になった。すると井深さんはその場から磁気記録の基本技術である交流バイアス法の発明者、東北大学名誉教授の永井健三博士(当時、東北学院大学学長)に電話を入れ、紹介の労をとってくださった。その成果が、昭和五九年一月に刊行に漕ぎつけた『日本の磁気記録開発』であった。  以来、筆者は、エレクトロニクス分野の技術史、開発物語の執筆にまとを絞り取材を続けてきた。歴史の古い重厚長大産業と違い、世間に知られていない話題が豊富にあることに気付いたからである。 『日本楽器のLSI開発戦略』(ダイヤモンド社)、『海軍技術研究所』(日本経済新聞社・講談社文庫)、『次世代ビデオ戦争』(ダイヤモンド社)、『ソニー神話は甦るか』(講談社文庫)などがその成果であった。  その間、井深さんに何度もお目にかかる機会を持った。当然、取材データは大分たまった。それをもとに井深さんの人となりや、生き様を書いてみたいと思った。早速、広報室を通して井深さんの意向をそれとなく打診してもらった。だが、結果はNOだった。そういうたぐいの本はオレが死んでからにしてくれというのである。  そこで筆者は手持ちの材料をフルに使い、独断で書くことにした。幸い筆者は、人にあまり知られていない井深さんのPCL時代のエピソードや人間的な側面を社外の関係者からいろいろ聞かされていただけに、一味違う井深像を書けるという自負を持っていた。  それが執筆に踏み切る動機だった。但し校正刷の出た段階で井深さんにみてもらう。その上で誤っているところ、気に入らない記述があれば自由に手直しして戴くという方針で作業をすすめることにした。  そのため記述にあたっては、取材データや資料を慎重に照らし合わせるなど細心の注意を払った。  やがて初校のゲラ刷が出る。それをみた井深さんは、「僕はハワード・ヒューズほど奔放じゃないよ。だがキミが書いたのなら仕様がないや……」と、手直し一つせず出版を許してくださった。こうして出来上がったのが本書であった。  その後、某誌の書評欄に、「面白く書けているが、ヒューズと井深さんを対比した点にムリがある」という批評が載ったが、筆者は決してそうは思っていない。一人っ子という同じ境遇にありながら、幼くして母を失い、自由奔放な男親の下で思春期を送ったヒューズと、父の死後、母の手厚い庇護を受けながら成長した井深さんの生き様がいかに違うかを立証できる格好なケースと思ったからである。  その井深さんが、昨年秋、文化勲章受章の栄に輝いた。受章の理由はエレクトロニクス産業発展に貢献しただけでなく、幼児や小中学生の理科教育振興、身心障害者のケアなど社会福祉事業に情熱を傾けてきたことが評価された結果である。しかし、筆者にいわせれば今回の受章は遅きに失したような気がしてならない。  というのも、井深さんは、昨年来、体調を崩し、リハビリ中の身。それだけにもっと健康状態のよいときに受章が実現していたら、井深さんの喜びも違ったものになっていただろう。これは井深さんの人となりを知る人びとの共通の意見ではないだろうか——。   一九九三年一月 中 川 靖 造   [著者]中川靖造 一九二六年、東京生まれ。総合誌編集記者などを経て、現在、フリーランス・ライター。著書には『巷談日本経済20年史』(荒地出版社)、『日通事件』(市民書房)、『ウジミナス物語』(産業能率短大出版部)、『全日空』『日本の半導体開発』『日本の磁気記録開発』『日本楽器の超LSI戦略』『東芝の半導体事業戦略』『自主技術で撃て』『技術の壁を突き破れ』(以上、ダイヤモンド社)、『ソニー神話は甦るか』(講談社)、『NTT技術水脈』(東洋経済新報社)などがある。      * 本作品は一九八八年一〇月、ダイヤモンド社より刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九三年二月刊)を底本とし、一部字句を改めたものです。 登場人物の肩書きは取材当時のものですが、親本にある“現”、“故人”の表現は削除しました。 創造(そうぞう)の人生(じんせい) 井深(いぶか)大(まさる) 電子文庫パブリ版 中川(なかがわ)靖造(やすぞう) 著 (C) Yasuzo Nakagawa 1988, 1993 二〇〇一年八月一〇日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。